愛玩情史

2ちゃんねるエロパロ板に投稿したSS置き場(21禁)
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■ヴァンパイアセイヴァー 
 デミトリ×モリガン

 バレッタ集団陵辱(鬼畜注意
陵辱1陵辱2陵辱3陵辱4

■美少女戦士セーラームーンR
※暴力表現を含みますので
( )内の描写が苦手な方はお気をつけ下さい

マーキュリー陵辱 (輪姦)
ヴィーナス痴態(羞恥)
マーズ調教(強姦)
ジュピター被虐(アナル)

※上記の短編を読んだ後にお読み下さい
ムーン陥落(寝取られ・暴行・剃髪・輪姦・陵辱・和姦・自慰etc)
第1話/許せない!セーラー戦士たちの悪夢
第2話/ちびうさを守れ!謎の美女エスメロード
第3話/暗黒の一族、囚われたヴィーナス
第4話/時空を超えて!新戦士プルート参上
第5話/デマンドの野望、悲しみの四守護神
第6話/友情の危機!亜美とまことの孤独な戦い
第7話/反撃開始!タキシード仮面の覚醒
第8話/友との再会、消せないレイの炎
第9話/姉妹の愛、裏切りのサフィール
第10話/うさぎの決意!さよならまもちゃん
第11話/打倒ワイズマン!復活のセーラー戦士
第12話/ムーン陥落!ブラックorシルバー(最終話)






(あの女を欲しいと思ったのは、間違いだったのか?)
背中に心地よい温もりを感じながら、プリンス・デマンドはそのように思った。
ジャーマネンの内部は、女の膣内よりも遥かに温かかった。母親の子宮に入っていた胎児の頃の記憶は彼にはないが、喩えるならそんな感じかも知れない。カラベラスが使役するドロイドに害意はなく、ただデマンドの動きを封じ、額と背中の傷を癒すためにとくん、とくんと胎動している。赤くぬめりのある粘液が顔や背に触れ、軟膏を塗るように触手が動いた。目を醒ましてしまうのが惜しいほどに、彼女の中は居心地がよかった。身体の痛みが遠のいていき、思考が明瞭さを取り戻す。サフィールの裏切りについて、デマンドは冷静に考え始めた。
デマンドを殺そうと思えば、弟はとうにそうしているだろう。しかし現実を見ればデマンドは四守護神たちの手を逃れ、傷を癒され、保護されている。サフィールは単に、ワイズマンやセーラームーンから兄を遠ざけたかったのだ。内気な弟の眼差しを思い出し、彼は舌打ちする。
(俺を、セレニティに取られると思っているのか。馬鹿な奴だ)
確かにあの女に焦がれるあまり、手下たちの管理を怠ったのは悪かった。ベルチェやルベウスといった駒を失い、少なからぬ痛手を被った。弟とセレニティ、どちらが大切かと問われれば、デマンドは自信を持ってあの女だと答えられた。今までは、サフィールが自分を裏切るはずがないと心のどこかで信じていたから、そう思っていられた。だが、今は───。
『妖かしに踊らされし哀れなドロイドよ』
低い男の声とともに、視界の赤が引き裂かれた。ジャーマネンの悲痛な声が、空間に響き渡る。繭の形が糸状に崩れ、デマンドは床に投げ出される。飛散した糸は彼を守るように屹立し、天井に浮かぶ男に襲い掛かった。
その攻撃は通じない。占い師のようなローブを被った実体のない男の身体から、強大なダーク・パワーが発せられ、ジャーマネンに叩きつけられた。粉砕された彼女の身体はビシャビシャ、と大粒の雨のようにデマンドの身体に降り注ぐ。
『分を弁えよ。さもなくば』
空中に浮かぶ男の一瞥に、ジャーマネンは抵抗する意思を無くしたようだった。やがて元の女の形に再生すると、怯えるようにその姿は壁に吸い込まれて消える。カラベラスの元へ帰ったのだろう。
頬や額に残る赤の残滓を拭い、デマンドは男を見上げた。
「……ワイズマン、か」
無様な自分の姿を笑いに来たのか。苦笑を浮かべながら、彼は身を正す。以前からサフィールの態度について、この男に警告は受けていた。聞く耳を持たなかったのは己の弱さと、肉親ゆえの情のためだ。
「お前の言った通りになったな。女に溺れて、足元が見えていなかったばかりに、このザマだ」
ワイズマンはそれには答えず、いつものように予言の如く口を開いた。
『サフィール、造反せり』
予言と呼ぶにはあまりにも遅すぎる、事後報告ではあった。事態が起こってしまってからこの男が動く事など、珍しい。未来が見えるはずの彼が後れを取る、それほどにサフィールの根回しは完璧に近かったという事だ。
「知っている。まさかあの弟が、俺に歯向かうまでになるとはな」
肩を揺すり、デマンドはくっくっ、と笑いを零した。不快によるものではない。自分の知らぬうちに四姉妹に手を回し、プリンスを出し抜き、侮辱してくれた弟に、彼はいっそ頼もしささえ覚えていた。いつも青白い顔で書物に没頭し、言い寄る女にも興味を示さず、我が弟ながら何を考えているのか判らないところがあったが、いつの間にかここまで成長していたのか。
怒りを感じたのは確かだった。しかし彼が傷ついたのは弟に出し抜かれたことそのものではなく、サフィールがこの計画を、ワイズマンを排除するというこの計画を、兄である自分よりも四姉妹にまず打ち明けたという事実だ。
ワイズマンに対する不満、邪黒水晶に対する不信を、これまで何度もサフィールはぶつけてきた。その度にデマンドは弟を叱り、否定してきた。ワイズマンが何者であろうと、逆にそれを利用してやればいいのだと。弟は、そんなデマンドを信用してくれなかった。それがデマンドの心を重くしている。
サフィールは兄を、ワイズマンに利用されるだけで終わる男だと、その程度のプリンスだと思っているのだ。それが、腹立たしい。
『プリンス・デマンド、もはや一刻を争う事態なり。セーラー戦士たちが力を取り戻さぬうちに、速やかにサフィールを処刑し、残りの邪黒水晶を地球に打ち込むべし』
不老長寿の幻影に縛られて肥え太った地球に辟易していた彼らを、暗黒の星ネメシスに誘った男は、淡々とした口調で恐ろしい事を告げた。
「サフィールを殺すだと?」
『左様。御自ら手を汚したくなくば、このワイズマンが代わりに』
デマンドは鼻を鳴らした。
「無理だな。お前如きにサフィールが殺せるものか。あいつは他の連中が思っているほどやわではない。何しろ、このデマンドの弟なのだからな!」
他人が聞いたら呆れるだろうが、その事実は彼の中ではこれ以上ないほどの説得力を持っていた。彼の能力は自分が一番よく知っている。知っているのは、自分だけで良い。弟は常に影に徹し、無駄な揉め事を起こさぬよう、兄を差し置いて妃を娶ることも、手近な女に手をつけて孕ませるような真似もしなかった。それは全て、いずれ王となるデマンドのためだ。そのサフィールが、何の理由もなしに、いや理由があったとしても、裏切るような真似をするはずがない。冷静になった今は、心からそう思える。
「何故そこまであれを排除したいのだ。自分にとって都合の悪い理論を振りかざす相手が、そんなに気に入らないか」
弟は、血を分けた兄よりも、あやかしの四姉妹の力を必要とした。兄の身を案じての事だと頭では理解していても、納得は出来ない。こんな手段を取る前に、何故一言、自分に相談してはくれなかったのか。そこまで頼りない兄なのか、自分は。行き場のない怒りが、皮肉となって目の前の男にぶつけられる。
「そして、俺たちも用済みということか?」
銀色の髪が室内の光を反射して、眩しく光った。まだ生まれたての、不完全ゆえに美しいダイヤの原石を思わせる王子に、ワイズマンは邪眼の力を与えた。それが彼の自尊心を歪ませ、本来持つはずの無かった欲望に手を伸ばし、破滅の一歩手前へと歩みを進める羽目になった。身に余る力を手にした時、人の心は簡単に狂気に染まる。
「欲しいものは、全て手に入れる。地球も、セレニティも、同志たちの信頼も。それが俺の信条だった。だが、そのせいで今は全てを失いつつある。ルベウスは死にサフィールは離れ、エスメロードも……ワイズマン、お前の目論見通りに!」
癒された『邪眼』が額に出現し、八つ当たりにも似た怒りの力を放つ。相手は、自ら与えた武器に害されるほど間抜けではなかった。空中でひらりと身をかわし、己の傀儡となるはずだった、幼きプリンスを傲慢に見下ろす。
『愚かなり。地球の支配と肉親の命、秤にかけて怖気づいたか』
「ほざけ。貴様がここにいるなら、サフィールはしくじったと言う事だな。あいつをどこへやった」
地球とセレニティを手に入れるためならば、実の弟だろうと犠牲にするつもりではあった。しかしサフィールの思惑を知った時、デマンドは予想以上に衝撃を受けている自分に気がついた。信頼していたワイズマンが、今こうして嘲るように見下ろしてくる悔しさよりも、サフィールが傍にいない事の方が、ずっと重大だった。幼い頃から近くにいて当たり前で、その大切さに気づかなかった。こうなってしまう前に、もっと弟の話を聞いてやるべきだった。
焦燥するデマンドの目前に、ワイズマンが答えの代わりに何かを落とした。
床に落ちた汚い布切れを見て、彼は息を呑む。それは、サフィールがいつも身に着けている上着だった。すぐに判らなかったのは、無残に切り裂かれていただけでなく、染み込んだ血液によってどす黒く変色していたからだ。
一瞬、思考が飛んだ。クリスタル・パレスを襲い、ネオ・クイーン・セレニティの姿を初めて目の当たりにした時の衝撃を、まるで昨日の事のように思い出す。
───花を見つけたぞ。サフィール。
───え?
───銀河中を探しても、ああも神々しい花はあるまい。何としてでも手に入れる。
───手に入れる?
───お前には寂しい思いをさせるが、もう少しの辛抱だ。
───……兄さん、花は。
───欲しいものは全て手に入れる。全てだ。この邪眼の力と、邪黒水晶さえあれば!
───花は咲かせるものであって、奪うものではないんだよ。
あの時から、サフィールは兄に警告をしていた。多くを望んだが故の、これは罰なのだろうか。デマンドは身体から力が抜けていくのを感じていた。それを見計らったように、ワイズマンが口を開く。
『忌ま忌ましいセーラー戦士どもを抹殺せよ。プリンスが迷われるなら、裏切り者の始末はその後でも遅くは無い』
その言葉に、弟がまだ生きていることを知り、デマンドはほっと息をつく。が、すぐに眦を吊り上げて、浮遊する男を睨みつけた。
「黙れ、もはやお前の指図は受けん!」
『何と……』
驚いたような声音の後に、やがて低い笑みが篭る。
『あのままドロイドに溶かされるのがお望みだったとは』
初めて聞くワイズマンの笑い声は、ひどく耳障りだった。これまで散々助けてもらっておきながら何を言うか、ブレーンを失った今、王子一人で何が出来る。そんな態度を隠そうともしない。
「何か誤解しているようだが、サフィールは俺を裏切ったのではない。少し、行き違いがあっただけだ。まずは話をさせろ。俺の許可なく、弟を手にかけようとするとは何事か!」
ローブの奥で、ワイズマンの目が冷たく光ったような気がした。
『……ブラック・ムーン一族に邪黒水晶を与え、プリンスにその邪眼を与え、地球を支配すべく導いてきた我を信用せぬと?』
「していたさ、今までは。だが貴様は、有益な情報を与えてくれこそしたが、自分自身については何も語らなかったな。貴様の方こそ、俺たちを仲間だとは思っていなかった。本当の目的など、話す必要は無かった。なぜなら、いずれ用済みになるから───違うか?」
そうなる日が少しでも遅ければいいと、呑気な事を考えていた自分が甘かった。長くを生きていると思われるワイズマンが腹の内を明かさないのは、デマンドやサフィールが若輩だからで、その問題は時が経てばいずれ解決するはずだと楽観視していた。が、そもそも年功云々の話ではなかった。ワイズマンは最初から、自分たちを稚児扱いどころか、同じ人間としてすら見ていなかった。
「ルベウスも、エスメロードも、長年連れ添った同士だった。サフィールは大事な弟だ。あいつらを信用せずに、誰を信用すると言うのだ!!」
胸に痛みが走る。同胞を信じてやれなかった、弟の話を聞いてやらなかったばかりに、道を間違えてしまったことを、彼は初めて後悔していた。冷たくなった弟の亡骸を土に埋め、その上に蒼い花が咲く日を、来ないと判っていながら待ち続けるような、そんな愚かな真似だけはしたくはない。
『若き王子プリンス・デマンド。幼すぎたか』
もはや取り繕おうともしない、侮蔑しきったようなワイズマンの声に、別の者の声が被さる。
「あんまりパパを苛めないでよ」

いつの間にか彼の背後に、若い女が現れていた。二つに分けた桃色の髪と、勝気そうな赤い瞳。優美に纏った黒いドレスの裾から覗く太腿が艶かしい。額にはブラック・ムーンの証である逆三日月があったが、こんな女は見たことが無い。
「誰だ、お前は」
警戒心もあらわに、デマンドは尋ねた。笑みを含ませたその顔と雰囲気が、自分の追い求めた女によく似ていた。
「あたしの事忘れちゃったの?」
女はくすくす笑いながら、白い指先をデマンドに向けて伸ばした。彼は思わずその手を払いのけ、そしてそんな反応をした自分に驚いていた。女の赤い目と桃色の髪を凝視し、そしてある考えに思い至る。
「お前は……ラビットか?」
エスメロードに足跡を追わせていた幼女と、目の前の成熟した女の姿が重なる。頭身こそ大きく違うが、身に纏う空気が酷似している。
「どういう事だ、その姿は。寝返ったのか!?」
何者かがラビットに刻印を焼き付け、仲間とした。その可能性しか浮かばない。女は彼の戸惑いを一笑に付すと、空中でしどけなく脚を組み替えた。
「やぁね、違うわよ。あたしはあたし。最初から、パパとママの娘じゃない」
「パパとママ、だと?」
デマンドは耳を疑った。拉致監禁したセレニティを何度も犯し、孕むようにと望んだ事は記憶に新しい。その行為の結果がこの生意気そうな女だと言うのか。
白い顔に埋まった、二つの挑戦的な赤い宝石がデマンドを見つめる。桃色の長い髪が、ひらひらと楽しげに宙に泳ぎ、あの女との血のつながりを思わせる。
『解せないという顔だな、王子よ』
彼の戸惑いを察したか、ワイズマンが低く笑った。
デマンドは険しい顔のまま黙り込んでいた。子を望んでいたのは事実であるが、突然見も知らぬ女が目の前に現れ、娘だと語られても納得できるはずが無い。そもそも、この女が本当にデマンドの娘だと言うのなら、なぜ赤子ではなく成長した姿で現れるのか。
『そなたらは遠い未来から、過去の地球へと時間を移動して来た。故に、本来ならば過去のセーラームーンと接触を持つべきではない存在』
「それがどうした。そんなことは百も承知だ」
歴史を塗り替えるために、ブラック・ムーンは禁忌を犯して過去の世界に舞い戻ったのだ。その結果時間に歪みが生じても、再生のためならば取るに足らないことと無視していた。
『交わるはずのなかった二つの種が、女の身体の中で一体となった。未来の人物であるそなたと、過去の人物であるタキシード仮面、その二つの子種が、セーラームーンの子宮の中で未だ鬩ぎ合っておる。どちらに転ぶかは、我にも判らぬ』
デマンドは思わずブラックレディと名乗った女を見た。よく見れば女の輪郭はおぼろげで、今にも消えてしまいそうな儚さを漂わせている。
「まだ、確定してはいないのよ。パパ」
父と呼ぶ割には、女からはそれらしき敬意がまるで感じられない。それどころか、こちらを馬鹿にしたような笑顔を浮かべながら、自らの身体を抱きしめる。
「産まれるはずの魂が、一足先に表に出てきたと思ってくれていいわ。だから、あたしの中にはまだ『スモールレディ』の命がある。今のあたしは、どちらにもなれる可能性を秘めている。パパがちゃんとママを捕まえていてくれないと、ママのお腹の中の子は『ブラックレディ』にはならない……」
女の言いたいことが、デマンドにはようやく理解できた。人を見下す事に慣れたこの目、この物怖じせぬ態度は、間違いなく自分の血を引く生き物だ。ただし彼女の言う通り、確定された未来というわけでもない。このままセーラームーンを取り逃がすような事があれば、その腹の中の子は、
「……キング・エンディミオンの子にもなり得る、という事か」
未来のセレニティの夫、誰よりも邪魔なあの男の姿を思い出し、デマンドは歯噛みする。
「つまり、あの男とセーラームーンは、今現在繋がっているわけだな」
二人の男がほぼ同時に孕ませようとしなければ、二つの魂が共存するはずがないし、生まれる可能性が五分五分であるはずがない。デマンドが捕らわれている間に彼女はまんまとタキシード仮面と再会を果たし、即座に交わってしまったのだ。
「残念だったわね。せっかく手に入れたのに、もう一人のパパに掠め取られちゃって」
ブラックレディは楽しげに笑う。自分の消滅がかかっているのに、それすらも愉しもうとする様子が感じられる。
「もう一人のパパ、か。お前はどちらの味方なのだ」
苦々しい顔で、デマンドは未来の娘に告げた。まだ産まれてもいない桃色の命は、悪びれもせずにぺろりと舌を出す。
「別に、どっちでも?パパはクールでカッコいいけど、あっちのパパも優しくて素敵よ」
彼女にとっては、どちらも『セレニティの娘』である事には変わりないから、本当にどちらでも良いのだろう。デマンドは眉間に皺が寄るのを止められなかった。この態度を見ていると、聖なる月の一族はやはり「女系」であることを噛み締めずにはいられない。従わせたつもりでも、子供を産ませれば今度はその娘が権力を持ち、王である父親の権威など、無いに等しいのではないか。
知っていたはずだった。クイーンが代々女児しか産めぬことも、銀水晶を操れるのはクイーンとその娘だけであることも。その歴史を覆すのだと、当初は息巻いていた。娘しか生まれずとも、その娘が成長して男児を産むまでは、自分が王として支えてやればいい。デマンドが介入すれば、おぞましい女系の血も絶えるはずだと。
「でもパパ、本当にママの事が好きなの?」
未来の娘の素朴な疑問が、デマンドを現実に引き戻した。顔を上げた彼の目に映ったのは、少し不安そうな、それでいて興味深そうな眼差しをした女だった。
───兄さんは、セーラームーンに騙されているんです。あんな女のどこが………
目の前の女の眼差しが、サフィールのそれと重なる。デマンドの血を引くのだから、弟にも似ていて当たり前なのだが、この女には何ら特別な感情は湧いてこない。
「だって、あたしが娘を名乗った時、あまり嬉しくなさそうだったわ」
まるで彼の心を読んだかのように、ブラックレディが呟く。その表情に既に笑みはなく、父親を責める娘そのものの、悲しげな顔をしていた。生意気な態度は、彼の内心の動揺を察していたからだろうか。この娘の父親になることに嫌悪を抱いてしまった、彼を責めているのだろうか。
デマンドは答えられない。セレニティを手に入れて娘が産まれる「かも知れない」。その可能性がまさに目の前に浮かんでいるのに、どうしてか、手を伸ばして頭を撫でてやる気持ちになれない。サフィールの件が心に引っかかっている事もあるだろうが、彼はこれまで父親になる権利にばかりに目に行き、義務や責任に関しては未だに深く理解していなかったのだ。成長した姿の娘が突然現れたことで、将来の自分の立ち位置を予想してしまい、戸惑っている。妃や娘は、王に従うものだ。彼の星ではそれが普通である。己の欲を犠牲にしてでも娘を立ててやる、そんな真似は出来そうにない。
「あたしの存在を否定する?」
ブラックレディが重ねて問う。何よりも手に入れたいと思った女の娘であるはずなのに、デマンドは彼女を抱きしめてやれなかった。
「どうしてこの姿で、パパの前に現れたかわかる?もう一人のパパとママは、ちょっと喧嘩してるの。このまま二人が別れてしまえば、あたしはブラックレディとして生まれて来られる可能性が高いのよ」
それなのに、と女は言い、セレニティによく似た顔に苦渋を滲ませた。
「パパ、どうして今更迷ってるの?ママを手に入れたいから、今まで頑張ってきたんでしょう?ママと結婚してあたしが産まれるの、嬉しくないの?」
女の無邪気な糾弾は、プリンス・デマンドの焦りと迷いを大きくしていった。何もかもを手に入れる事が出来る、そう信じて疑わなかった彼も、また無邪気なものだった。
「俺は……いや、私は」
全てを我が物には出来ない。捨てなければいけないものが、確かに存在した。彼はセレニティを手に入れようとはしたが、お飾りの王に甘んじる気はないのだ。なのにこの娘からはデマンド以上の、圧倒的な力を感じる。銀水晶と邪黒水晶、双方の力を宿している。こんなモノが生まれてしまうことが、正直に言って恐ろしかった。
「判らない………すまない」
デマンドは目頭を手で覆う。彼にも、多少の良心はあった。身内であるサフィールと同じくらいの強さで、娘を愛してやれる自信がない。この娘が存在する限り、デマンドは権力を握れない事が判ってしまった。セーラームーンさえ手に入れば、未来も地球の支配も思いのままだと信じていたのに。
『己の行為の重さにようやく気づいたか。だが、既に遅い』
低い声に、ぞくりと背中が粟立つ。咄嗟にマントを構え顔を庇ったデマンドを、黒い衝撃波が襲った。
「くっ……!」
マントでは防ぎきれない。全身がビリビリと痺れ、風に煽られて後退する足が痛みを訴える。ワイズマンの背後で、最初は悲しげだったブラックレディの顔が、次第に強張り、やり切れない怒りと憎しみに変わっていった。
「あたしを愛してくれないなら、パパなんていらない!」
泣き出しそうな声だった。両親の温もりを知らない彼の心に、その言葉は鋭く突き刺さった。うろたえる彼の耳に、ワイズマンの勝ち誇ったような声が入ってくる。
『そなたの役割は終わった。ブラックレディさえ産まれれば、邪黒水晶も銀水晶も思いのままに操る事が出来る。我こそがこの娘の後見となり、銀河系で最強の力を手にするのだ』



セーラームーンは子宮を押さえたまま、恋人の顔を見つめていた。その顔に次に浮かぶのが憎悪でも嫌悪でも、別れの言葉でも、全てを甘んじて受け止めるつもりだった。
先程まで確かに温かく繋がっていたはずの二人の間に、冷たい風が通り抜けていく。友を抱け、と傲慢にも命じた月のプリンセスと、それに従わざるを得ない地球のプリンスは、互いに自己犠牲という名の重い鎖に捕らわれていた。共に、地球を愛する者として。
「時間が、ないの。お願い」
もう一度セーラームーンは言った。ずっと繋がっていたい気持ちを抑え、前戯はいらないと言い切った自分が、今は誇らしくさえ思える。極めて短い性行為は、彼女なりの責任の取り方だった。快楽のためではなく刻印を消すために、身体を開いたのだ。もう、恋人である資格はない。彼が動かないなら、手を引いてでも仲間のところに連れて行こう。そう決めて動こうとした矢先、タキシード仮面が不意に背を向けた。
「ヴィーナス。皆のところに案内してくれ」
感情というものを一切排除した、硬い声だった。それきり、セーラームーンの方を見ない。黒いマントに覆われた背中が、恋人よりも友を選んだプリンセスを無言で嘲笑っている。
行為を物足りなく思っていたとしても、この状況で再びセーラームーンを押し倒すほど、彼は空気の読めない男ではない。時間がないのも四守護神が危機に見舞われているのも、現実の事だ。だから彼の取った態度は、正しい。
「タキ……衛さんっ!」
それまで呆然としていた美奈子が、我に返って叫ぶ。
「違うのよ、セーラームーンは妊娠なんてしてないわ!あなたに嫌われようと、わざと……!」
「案内してくれ」
言葉を遮る声も、やはり冷たい。変身していない美奈子を敢えてヴィーナスと呼んだのも、そういう事だろう。サフィールに突き放された事を思い出しているのか、彼女の顔は曇った。
「……わかったわ」
そう言って、タキシード仮面の先を歩く。俯いているセーラームーンの方を一度振り返り、着いて来る事を確認する。セーラームーンは、二人を追い越さないよう、ゆっくりと歩いた。
仲間を救うために、人として言ってはいけないことを口にした。一番大切なものを、手放した。
胸は引き裂かれそうに痛むけれど、今のセーラームーンは、誰にも負ける気はしない。何もかもを独り占めしようとしている男に、犠牲の尊さを知っている者が負けるはずがない。
デマンドも、少しは何かを失えばいい。そうすれば、人の痛みも理解できるだろうに。
「そうだ美奈ちゃん、待って」
城の内部に戻った後、セーラームーンは大事な事を忘れていたのに気づいた。美奈子が足を止め、怪訝そうに振り返る。
「美奈ちゃんだけでも、その髪と怪我を先に治さないと」
胸のブローチに手を当てた。レイたちはともかく、刻印を焼き付けられていない美奈子は、銀水晶の浄化によって再変身が可能なはずだ。自信はないが、やってみる価値はある。
「……いいわよ、みんながまだなのにあたしだけ」
遠慮する美奈子に、タキシード仮面がやはりそっけない口調で言った。
「癒してもらうといい。今は一人でも多くの戦力が必要だ」
彼はもう前しか見ていなかった。だからセーラームーンもそれに応えて、美奈子だけを見る事にした。
「目を閉じて、そこに立って。お願い、銀水晶」
セーラームーンは、ブローチに手をかざした。タキシード仮面との交わりによって力が戻った身体は、休む暇もなく他者を癒すために働きかける。
ブラック・ムーンは銀水晶の力を自分たちのために使おうとしていたけれど、きっと彼らにはこれを使いこなす事は出来ない。身を削って他者に尽くす母性を、彼らは持っていないからだ。いや、例外も一人いるが、彼女は子供の事しか考えておらず、ちびうさを消滅させてまで未来の夫を切り捨てたセーラームーンとは、やはり種類が違う。我が子可愛さに他者への思いやりを欠くのも、やはり独善と言える。
「ヒーリング!!」
銀水晶の光が美奈子の全身を包み込んだ。眩い銀色に包まれた彼女の四肢は、絶頂に達したかのようにぴんと伸びきる。その光の中で、美奈子の頭部が膨張し、生え揃ったブロンドが頭を包んでいた布を落とした。背中に流れ落ちる金色の波に、彼女は感極まったように涙を零した。
「戻った、あたしの髪……」
絹糸のようなその感触を確かめ、何度もクルクルと回ってみせる。オレンジ色のドレスの裾が翻った。
その顔を見ていると、先程まで僅かに残っていた、美奈子に対する憤りも、綺麗に清められていく気がした。人の喜ぶ顔、それを見るためだけにセーラームーンは存在するのかも知れない。
「ありがとう、セーラームーン。いいえ、セレニティ」
「お礼を言うのはまだ早いのではない?」
突然、若い女の声が割り込んだ。三人はぎくりとしてそちらを見る。
黒い回廊の壁に、カラベラスが寄りかかっていた。彼女の異変に、セーラームーンはすぐに気がついた。少し離れたところに立っていても漂ってくる体臭、いつも姿勢のいいカラベラスが壁に体重を預けずにはいられない、その理由。
「カラベラス……あなた……」
美奈子が掠れた声で呟き、一歩前に踏み出した。人間の男に犯され、子供を産んだカラベラスの事を、彼女は常々気にかけていたようだ。
「どうしたの、その怪我は。赤ちゃんは大丈夫なの!?」
カラベラスは力なく微笑み、壁から離れる。背中にべっとりとついた血が、ぱりりと音を立てて剥がれた。その瞬間、ダルク・ビュートが一閃し、美奈子の足首を確実に捉える。
「きゃあ!」
足を取られて転倒する彼女に、セーラームーン達は慌てて駆け寄る。それを、カラベラスが手で制した。
「慌てないで。セーラーヴィーナスに話があるだけ。……あまり時間がないのよ」
苦しそうなその表情に、セーラームーンは戸惑った。怪我はどう見ても本物だし、演技ではなさそうだ。
カラベラスに対しては、複雑な思いがある。レイとは違って母である事を選択した立派な女性、と言えば聞こえはいいが、子供を優先するあまり誤った方角に走っていきそうな危うさがある、と亜美は言っていた。
「デマンドに、やられたの……?」
拘束を解かれた彼が、サフィールの裏切りを知って暴れたのかも知れない。セーラームーンが恐る恐る尋ねると、カラベラスは違う、と首を横に振った。いつも大事に抱いている赤子が傍にいない事も、違和感を覚える要因の一つだった。レイは、子供を盾にしてでも自分を守ると宣言していたが、カラベラスに同じ事が出来るとは思えない。
「計画は変更よ。ワイズマンの邪魔が入ったから、もうお前達を操る必要もなくなった」
遠くから微かに、地鳴りのような音が聞こえてくる。誰かが激しい戦闘をしているのか、先程の爆発とは全く違う規模の震動が起こっている。
「急がないと、もう……あいつは、地球だけでなくこの宇宙そのものを消滅に招く……」
「ワイズマン……それが、共通の敵?サフィールはどうしたの?」
彼の元に向かった亜美とまことは、そして一人で震えているレイは大丈夫だろうか。カラベラスはそれには応えず、懐から何かを取り出し、セーラームーン達の方へ投げた。
「お前達にこれを渡せと、サフィール様が」
宙に舞った見覚えのあるアイテムを目視し、慌てて両手で受け止める。変身した今、反射神経も美少女戦士のものに戻っていた。
「これ……!!」
それは、変身解除の際に敵に奪われていたレイ、亜美、まことの変身スティックだった。頭に星のついた、赤、青、緑の可愛らしいデザインのそれは、もう随分長い事目にしていなかったような気がする。うさぎは普段ブローチで変身するから、四守護神のこのアイテムに触れるのも久しぶりだ。こうして、再び手にする事が出来るとは思わなかった。
プール、神社、学校の裏手……これを手にして変身した時、彼女たちはまさか己の身に降りかかる災厄など思いもしなかっただろう。三人の陵辱を見守ってきた三本のスティックには、カラベラスの温もりが残る。落とさぬよう、それを手の中に強く握り締め、セーラームーンは敵に告げた。
「これだけ返してもらっても、どうにもならないよ。だって、みんなはまだ変身できないんだよ」
(まもちゃんとエッチしないと、変身できないんだよ)
さすがに、その先を口にするのは憚れた。地球の人間と交わり、刻印を消さないと変身できない、それを一番よく知っているのはブラック・ムーンではないか。
胡乱な眼差しを注ぐセーラームーンに、カラベラスは口の端を歪め、不敵に笑う。
「……さて、それはどうかしら。言ったでしょう、ヴィーナス?」
動けずに転がっている美奈子を見下ろした。急に話を振られ、彼女は目を丸くしていた。
「プリンセスに礼を言うのは、まだ早いと」
哀れむような目つきと、謎めいたその言葉に意識を取られ、ほんの数秒の隙が生じた。
「セーラームーン、下だ!」
タキシード仮面の叫びに、ぎくりとして下を見る。床から、明らかに人間のものではない赤い手が伸びていた。デマンドを連れ去ったあのドロイドが、片手で彼女のブーツをしっかりと掴んでいた。思わず、タキシード仮面の顔を見た。今までの彼なら、叫ぶと同時にセーラームーンを抱きかかえ、攻撃から守ってくれていただろう。しかし今の彼は、厳しく警告しただけだった。
(馬鹿馬鹿うさぎ!まだ甘えてるの!?しっかりしなきゃ!!)
頭を振り、どうにか戦士の思考に切り替える。両手を天井に突き上げるようにして起き上がってきた赤い粘液は、更に赤い壁となり行く手を遮ろうとする。タキシード仮面を庇うように前に出ると、セーラームーンはロッドを振りかざした。久しぶりに、必殺技の名前を口にする。
「ムーン・プリンセス・ハレーション!!」
ロッドの先端から、白い光が迸った。聖なる月の波動をまともに浴び、ドロイドは絶叫する。赤い粘液で出来たその身体が光に包まれ、徐々に消えていった。
プールサイドでの忌まわしい光景が、蘇ってくる。思えば、この力でベルチェを滅ぼした時から、全ては始まっていたのだ。友人を傷つけられた怒りに燃え、性を弄ぶ男というものを嫌悪し、月野うさぎは単なる無邪気な少女ではなくなった。恋人を自らの意思で拒絶し、血の涙を流した、それが結果として、銀水晶の力を増幅させる事になった。
以前よりも技に磨きのかかった美少女戦士を、タキシード仮面は少し離れたところから見ていた。もう、彼の力を借りなくても、立てるようにならなければ。彼を頼る資格は失ったのだから。
ドロイドを消滅させ、再び顔を上げた時には、美奈子とカラベラスの姿は既になかった。傷だらけの身体でどこへ消えたのか、黒い壁には、血の跡だけが影のように残っている。
セーラームーンは青くなった。ドロイドは攻撃ではなく足止めのためで、目的は本当に美奈子一人だけだったのだ。すぐさま二人を探そうとする彼女の肩を、タキシード仮面がぐっと掴んだ。
「行くぞ」
物事の優先順位を、彼は弁えていた。強引に手を引いて仲間のところに連れて行こうとする、そう、セーラームーンがしようとしていた事と同じだ。
「だって美奈ちゃんが」
「彼女は大丈夫だ!!」
強い語調で言われ、何も言えなくなった。確かに、美奈子の怪我は治したし、セーラーヴィーナスに変身すれば、自分の身を自分で守れるだけの戦闘力も戻る。それよりも、変身能力を奪われている仲間たちの安全を優先させるべきだ。
(でも、わざわざ美奈子ちゃん一人に話って……?)
腑に落ちない。セーラームーンとタキシード仮面には、聞かれたくない話なのだろうか。




「……あ」
亜美がふと足を止めたため、後ろを歩いているまことは慌てて立ち止まった。
身長差があるので、彼女の青いショートヘアは、ちょうどまことの顎の辺りにある。つむじが見えそうなほど近くに、友人の頭がある。この小さな頭の中に、異星人と対等に渡り合えるほどの知能が詰まっているのだと思うと、何やら不思議な気がした。
「どうしたんだい、亜美ちゃん?」
こんなに華奢で、まことよりもずっと小柄なのに、亜美は自分の方が軽傷だからと言う理由で、先を歩く事を選んだ。サフィールが人払いをしており、城内にドロイドの姿はない。邪黒水晶の指し示す先を進んでいけばいいだけの安全な道のりだが、まことの足取りは極端に重かった。
「やっぱり、レイちゃんのところに戻る……?」
敵の言いなりになって生き延びるか、戦士としての名誉ある死か。まことの心は揺れていた。そして、こんな大事な決断を亜美一人に委ねなければならない現状がもどかしかった。
「ううん、違うの」
亜美は振り返り、じっとまことを見た。暴力の渦の中で友情を誓い合った友の顔は、まことの大好きな、迷いのない、頑固なまでの意思を秘めていた。それでも、これから交渉に行く相手は所詮「男性」だから、亜美の心がまた傷つき折れてしまわないとも限らない。痛みを堪え再び湧き上がってきた知性の泉を、また男の汚らわしい性暴力で枯らしてしまうわけにはいかない。
(今度こそ、あたしが傍で守る。絶対に)
亜美がその淀みない弁舌でサフィールと会話を交わしていた時、まことはまるで自分の事のように誇らしかった。可憐で控えめで、女の子らしいのに決して男に負けない才能を持つ、亜美はまさに、ずっと憧れていた少女の体現だった。
人は、自分にないものを求める。亜美も同じ気持ちでまことに憧れている事を、彼女は知らなかった。
「レイちゃんに『ごめんなさい』を言い忘れていたなと思って。ルベウスとの事、疑ってしまって」
「なんだ、そんな事か」
まことはほっと息をついた。亜美は本来、こんな緊迫した状況下で無駄な会話をするような少女ではない。ただ黙々と、目的に向かって足を運ぶ。ここで突然レイの話を出してくる余裕があるなら、既にある程度の対策はできていると考えて良いだろう。
(亜美ちゃんに任せていれば、問題ない。この子はあたしよりずっと、色んなものが見えてる)
ただ、精神的に脆いところがあるから、まことが守ってやらなければならない。守るべきものが近くにいると強くなれる保護の戦士は、亜美を守ろうとすることで辛うじて自分を保っていた。
「大丈夫、レイちゃんだってわかってくれるよ。あたしの事は、もう許してくれたみたいだし……」
「仲直りできたの?」
亜美の問いかけに、まことは少し言い淀んだ。できたと言えばできたような気もするし、まだだと言えばまだだ。コーアンに洗脳され、狂気に引きずられてレイの子供を殺そうとした事が、我ながら恐ろしい。謝ろうと思ったのに、あの爆発がきっかけで、その辺りの事は曖昧に流されてしまった。
「まだ、判らないけど。デマンドの攻撃から庇った時、ありがとうって言ってもらえたから……」
レイは、敵にすら賞賛されるほどの激しい気性と、一貫した強さを持っていた。犯され、刻印を焼きつけられても、子供を産んでも、ブラック・ムーン一族の仲間にはならないと断言した。デマンドに堕とされそうになっていたうさぎを一喝し、その毒舌でデマンドを翻弄した。その際に放った小気味のいい一言が、今も耳の奥に残っている。
『どうして男は、陵辱を正当化するわけ?』
それは恐らく永遠の謎だろう。女が悪いと言いながら女なしでは生きられず、銀水晶を憎みながらも結局は銀水晶の力を得んとする。プリンス・デマンドは、子供に権力を与えたらどうなるか、の良い見本であった。力だけでなく、言葉でも敵を変えることは可能であると、戦いの神は教えてくれた。デマンドは自分でも気づかなかった男の醜い部分をレイに突かれ、逆上して、自滅したのだ。あの爆発は理論的には亜美の仕掛けたものではあったけれど、詩的に言えばデマンドの自爆であった。彼の油断や自惚れが、一族の内部分裂を招いたのだ。
「デマンドは、レイちゃんを殺そうとしたのかしら?」
亜美がぽつりと呟く。その青い目には、やはりまことの見えていないものが見えているのかも知れない。
「言っただろ?いつもの口調で、デマンドを挑発したんだよ。それであいつが切れて、レイちゃんに攻撃を……」
言いながら、まことはふと気づいた事があった。あの時、自分はレイを庇おうとしたけれど、本当はその必要などなかった。何故なら彼女はルベウスの刻印に守られており、あれがある以上彼女を殺す事は出来ないはず……。
まことはごくりと息を飲んだ。今まで、セーラー戦士たちは敵の言う事を鵜呑みにしていたが、考えて見ればこの刻印が身を守ってくれた事など、たった一度しかない。そう、レイとまことと亜美と三人で、蔦に襲われた時だ。
あの時はレイの刻印から光が発せられ、蔦を焼ききった。だから、刻印がある限りセーラー戦士には手出しできない、と告げた敵の台詞には説得力があり、まことたちはそれを信じたのだ。
「私がさっきから考えているのは、そのことなの」
亜美は先導する邪黒水晶の先端をじっと見つめた。サフィールの元に辿りつき利用される前に、結論を出しておきたいらしい。
「デマンドは、レイちゃんが刻印に守られている事を知っていたはず。なのに何故彼女に手を上げたのか。そもそも刻印に『守られる』というのはどういう事なのか」
蔦を焼き切った不思議な力は、あの時は何故か現れず、デマンドを焼き殺したりはしなかった。直後に爆発が起こったから良かったようなものの、あのままレイが殺されていたら、刻印に身を守る効果などなかった事が証明される。
「ちょっと……待ってくれよ」
思考能力が追いつかず、まことは額の傷に触れる。現にブラック・ムーン一族は、これまでまことたちを殺そうとはしなかった。コーアンなどは、真っ先にレイを殺したかっただろうに、あの刻印があったから手を出さなかった。だからこそ亜美たちは、レイはルベウスに愛されていた、と思い込んでしまったのだ。
「判らない、どういう事なんだ?コーアンは、あたしたちに嘘をついていたのか?」
思い出したくもない、亜美とまことに刻印を焼き付けたのは、あやかしの四姉妹の末っ子、コーアンだった。その後も陵辱は普通に行われ、レイの時のように二人の身を守ってくれたりはしなかった。思えば、蔦からは守ってくれるのに、男の暴力からは守ってくれない、というのも妙だ。あの時は痛くて、辛すぎて、苦しすぎて、とてもそんな事にまで頭が回らなかったけれど……。
「違うと思うわ。多分、彼女たちも騙されてる」
自分たちを酷い目に遭わせた女の事を、平然と「彼女」と言い切る亜美の顔には、知能が劣る者を見下す冷たい感情がある。敵を憎んだり恐れたりするよりも、取るに足らない相手だと侮蔑した方が、心の傷はずっと軽い。まこととて、コーアンの上に馬乗りになって顔面を殴打したい思いで一杯だったが、怒りに支配されて使命を忘れるつもりはない。復讐は、全てが片付いてからだ。
「何故、そう思うんだい……?」
たち、と言う事は、ペッツやカラベラスも含んでいるのだろう。無論、騙されていたからと言って、四姉妹に同情も共感もする気にはなれないが。
「この刻印は同族殺しを防ぐためのものだと聞いているけれど、それはつまり、仲間が裏切っても、処刑も出来ないという事。そんな厄介なものを容易に扱う権利を、あやかしの四姉妹が所有しているとは思えないの」
「確かに……じゃあ、ひょっとして」
同じように額に触れて言うと、亜美は強く頷いた。
「刻印の効果自体が、真っ赤な嘘。或いは、ルベウスがレイちゃんにつけた刻印と、コーアンが私たちにつけた刻印とは、種類が違うものである可能性が高いわ。それを、姉妹たちは知らされていない」
「誰が、何のために……?」
寒気がした。敵の発言の中で唯一信じていた刻印絡みの言動が、全て偽りだったとしたら。セーラー戦士たちは結局、ブラック・ムーンの掌の上で踊らされ、足掻くだけなのか。それではセーラームーンがあまりにも不憫だ。まことははっと息を呑んだ。それならば、地球の男と寝れば、刻印が消えると言うのも、信憑性が薄い。頭の中で、ピースが噛み合っていく。タキシード仮面を探すと言って、決意を秘めた表情で、城の外に出て行ったうさぎ。
「うさぎちゃんはひょっとして、衛さんをあたしたちに差し出す気じゃ……」
先程の亜美とうさぎとの会話が、ようやく飲み込めた。何やら青い顔をして思いつめていたうさぎ、『そんな事をしたら、衛さんとは二度と元に戻れなくなるわよ』と釘を刺した亜美。三人を元に戻すため、うさぎは恋人の身体を友人に捧げるつもりでいたのだ。
「ひょっとしなくてもそのつもりだと思うわ。あの子らしい」
「で、でも、今までの事が全部嘘だったとしたら、そんな事をしても意味がないじゃないか!」
うさぎの行為は一見美しい自己犠牲だが、反面ひどく傲慢だ。当事者が嫌だと拒否する可能性を、考慮に入れていない。レイたちだけではない、タキシード仮面も、どんなに傷つくか。まことだって、いくら紳士であろうが、恋人でもない男性と身体を重ねるのは二度とごめんだ。地球に戻って、こんな自分でも受け入れてくれる相手を探して、きちんと愛情ある性交をするつもりだった。そんな日が、万が一来ればの話だが。
「意味がないわけじゃないわ。だって、二人を別れさせる絶好の口実になるんだもの」
刻印を消すために、友人と寝ろ。うさぎがそんな恐ろしい事を言い出せば、真面目なタキシード仮面の心には罅が入り、二人の関係は確実に破綻する。
「うさぎちゃんと衛さんが結ばれると都合が悪い人が、全ての筋書きを考えたんだわ。刻印を盾にして生かさず殺さず、私たちを戦力として確保しつつ、リーダーの美奈子ちゃんやうさぎちゃんと仲違いするよう持って行き、それでいて邪魔になったらいつでも殺せるように」
「デマンドが……?」
「彼はそんなに賢くないわ」
一蹴する友人に、まことは冷や汗を垂らした。
(あ、亜美ちゃんも結構毒舌だな……)
「本当に面白い人ね。サフィールは」




罅が入った邪黒水晶は、サフィールの前ですぐに粉砕した。闇の中に、きらきらと妖しい水晶のかけらが舞う。これでもう、セーラー戦士との通信は叶わない。
「サフィール様!お逃げ下さい!」
彼の腕を掴み、ペッツが叫んだ。まるで、そうしていないと彼が消えてしまうとでも言うように。
サフィールは逃げる気などなかった。計画が露見した以上、どこへ逃げようとあの男は追って来るし、それに話したい事もある。セーラー戦士たちを唆した以上、自分だけが姿をくらますなど無責任だ。
やがて、主のいない玉座の間が震動し、床や壁に無数の亀裂が走る。小規模とは言え城内で粉塵による爆発が起こったのだから、ワイズマンが異変に気づかない方がおかしい。
本当はもう少し時間をかけて、水面下で慎重に物事を進めるつもりだった。そのためにあやかしの四姉妹やエスメロードに偽のピアスまで用意したのに、全て無駄となってしまった。まあ、計画に多少の変更はつきものだ。
ペッツの腕をやんわりと拒否すると、サフィールはその場から一歩も動かずに、荒々しい闖入者を迎え入れた。ワイズマン。自らを賢いと名乗って恥じぬ、図々しくも愚かな男。
『乱心したか、サフィールよ』
低くくぐもった男の声が、そして頭上に浮かぶローブの中の暗黒が、彼を責める。王位になど興味はなく、排除したいのは兄ではなくこの男だ。尤もこの胡散臭い占い爺は、彼の裏切りを待っていた節がある。兄弟喧嘩にかこつけて、二人とも始末する算段に違いない。来るべき時が来た、と言ったところだろう。
『兄を差し置いて姉妹やエスメロードを篭絡するとは、隅に置けぬ。即ち、プリンス・デマンドに対する裏切りと見なして良いな』
「兄さんがどう思うかは自由だ。そして、お前の解釈など知った事ではない」
サフィールは冷たく言い、射抜くようにワイズマンを見た。
「僕を殺すか?反応炉の調整が効かなくなるぞ。これ以上邪黒水晶のパワーを暴走させたら、地球だけでなくネメシスも危ないと言うのに」
彼はルベウスのように前線で戦う事こそしなかったが、優秀な技術者であり、ドロイドの練成や武器の開発などを一手に担っていた。だからこそ、ワイズマンは今まで彼を害そうとはしなかった。
『心配には及ばぬ。お前などよりも遥かに邪黒水晶の扱いに長けた器を、我は手に入れた』
不吉な言葉に眉を顰めると同時に、ワイズマンの背後に謎の女が現れた。漆黒のドレスを身に纏い、桃色の髪をなびかせている。すんなりとした肢体と邪気のない笑顔が、サフィールが誰よりも憎んでいる女によく似ていた。
「クイーン・セレニティ……?いや、その髪の色は」
ラビットが順調に成長したら、恐らくこんな姿になるだろうと思わせるものを、女は持っていた。桃色の髪に赤い瞳など、そうそうお目にかかれるものではない。
「成長したのか?しかし、そんなはずは」
好奇心に駆られるままに、サフィールは彼女をもっとよく見ようと近づいた。この辺りが、デマンドとの反応の違いと言える。
「来ないで。あなたはもう用済みなのよ、『叔父さん』」
暗黒の女王、ブラックレディは口元を歪めた。サフィールは困惑している。ラビットの姿であるならばおじさん呼ばわりも甘んじて受けるが、今の彼女は自分とさほど年齢が変わらぬように見える。彼女は「父親の弟」という意味で叔父と言ったのだが、さすがの彼もそこまでは読み取れなかった。
「あたしの方が邪黒水晶を有効に使えるわ。それに銀水晶の力だって、いずれ宿る。だからあなたはもう要らない。身体で女を支配しようとする男なんかに、任せておけるもんですか!」
笑いながら、彼女は腕を振るった。耳にはワイズマンが与えたか、邪黒水晶のピアスがある。デマンドの技に似た暗黒の波動が、サフィールに襲い掛かってくる。
ペッツが彼の前に躍り出た。外せと言ったから、彼女はピアスを外した。攻撃力のみならず防御力も下がった彼女の身体が、波動を浴びて壁に叩きつけられる。
「……ペッツ」
まだいたのか、と彼は呟いた。さっさと逃げればいいものを、何をもたもたしているのだろう。
セーラー戦士にコーアンを断罪すると約束した時、ペッツは心配そうにサフィールを見ていた。方便だと彼は笑ったが、実は本気だった。コーアンのした事は許しがたいし、姉妹はあまりにも不安定な要素が多すぎる。エスメロードも、兄の正妃の座を狙っている賎しい女であり、邪魔だ。一族の未来のために、彼女たちには犠牲になってもらう他はない。そう思っていた。
「お逃げ、下さい……サフィール様……」
自分のせいでこんな事になってしまったと言うのに、ペッツは愚痴一つ言わなかった。大きな胸を苦しげに揺らしながら、壁に半ば埋まりかけている。
「あーあ、外しちゃった。おばさんが邪魔したから」
ブラックレディはつまらなさそうに頬を膨らませた。それでもペッツへの攻撃をやめない。
「ちょうどいいわ、練習台になってね!」
与えられた強大な力を、まだ充分に使いこなせないらしく、まるで腕鳴らしとでも言うように、二度、三度と、波動を叩きつける。掌から力が発せられるたびに、ペッツの白い美貌が苦痛に歪む。
「うぁ、あああっ!!」
サフィールが時間をかけて愛してやった体が、同性の暴力に傷つけられて悲鳴を上げていた。緑の髪が千切れ、肉体が圧力で軋む音が耳に届く。何度も、何度も。
(彼女の自業自得、か……)
その無様な様子を目の当たりにして、サフィールは思う。あやかしの四姉妹が四守護神を傷つけた報いが、今になって訪れていると言っても過言ではない。無駄な暴力は、彼は好まない。殺すなら速やかに一思いに楽にしてやるべきで、陵辱など言語道断だ。それなのにルベウスに支配された彼女たちは、マーキュリーを筆頭に四守護神たちを卑劣な暴力で犯し、事態をややこしくした。
戦士なのだから、いずれこうなることぐらい、ペッツも覚悟していただろう。これは星と星を巡る戦いなのだ。
「あっはははは、面白い!まだ生きてる!」
虫の羽をもぐ子供のように、ブラックレディは嬉々として力を振るった。ジュピターの両手や乳房を傷つけ、野ざらしの状態で放置したペッツは、今になって己の愚かさを後悔しているのだろうか。それは、判らない。
(しかし、彼女たちと僕の何が違うんだ)
陵辱を許せないと思いつつも、それを利用してのし上がったのは自分だ。傷ついた彼女たちの心に付け込んで操ろうとしていたサフィールは、四姉妹と同様、いやそれ以上に悪しき存在だと言う自覚がある。ペッツは、一体こんな男のどこがいいのだろう。コーアンを許してやるからと脅したとは言え、無防備に身体を預け、恐らくは利用されていることに気づいていながら、彼を庇った。知性のかけらもない、愚かな女だ。それなのに、ペッツを哂うことは出来ない。痛めつけられている彼女を見て、こんなにも胸が痛い。
(僕にとって大事なのは、一族の未来と、兄さんだけだ。他の事は関係ない!)
そう思い込もうとして、彼は頭を振る。打算と同情でペッツを抱いてから、じわじわと湧き上がってくる不思議な感情に、無理に蓋をしようとしていた。
「どうしたの、反撃してみなさいよ、おばさん!あははは!」
ワイズマンに与えられた力に興奮して、ブラックレディは頬を紅潮させる。そこに、ラビットの面影は微塵もない。追い詰めた獲物を嬲る、残虐な獣の顔だ。
そう言えば、クイーン・セレニティという名の花を手に入れると言い出した時から、兄もよくこんな顔をするようになった。親に愛されず、奪ってでも愛を得るしかなかった悲しい性質。似ている、と何故か思う。もしや、この女は。
「サ……様……逃げ……」
かすかな呟きが耳に入る。ペッツの身体は力を失い、両手は顔を庇う事も出来ず、床にだらんと垂れていた。それでも、まだ辛うじて息はあり、その息で、彼を案じる言葉をなおも紡いでいた。自分を犠牲にしてでも他者を守ろうとする直向な眼差し、その美しさに彼は息を呑んだ。
(何だ、この感情は?)
ずっと、兄弟二人だけで戦ってきた。兄のデマンドさえいればいい。ペッツに抱いていたのは同情、それ以上の何物でもない。ルベウスから解放してやり、捨てられた犬を介抱するように彼女に接したら、予想以上に懐かれた。それだけのことだ。利用していずれ殺す相手なのだから、情を抱く必要はない。
(胸が痛いのにとても、温かい……)
兄以外の他者に対して心を閉ざし、長年凍えていた心の奥が、切ない痛みに握りつぶされるようで、それでいて心地よい熱を持っている。誰かに無条件に愛されると言う事は、こんなにも不安な、そして温かい気持ちを呼び起こさせるものなのか。兄と二人で、不毛の地に花を咲かせる事が、サフィールの願いだった。しかし、探していた花は、すぐそこにあるではないか。母のように無償の愛を注いでくれる存在を、花と呼ぶならば。
『惚れた男の最期を見せるのも忍びない。ブラックレディ、そろそろ楽にしてやれ』
傲然とした声に、サフィールは視線を移した。ワイズマンはまるで孫に命じる祖父のように、女に殺人を語りかけていた。ブラックレディと呼ばれた女はヒールの踵を鳴らし、気を失う寸前のペッツに歩み寄る。
「判ったわ、ワイズマン。コツが飲み込めてきたし、こいつを始末したら、今度は叔父さんに一度で当てて見せるわ」
ペッツの身体をダーツの的か何かのように考えているらしい女の言葉に、サフィールの中で何かが切れた。何様だ、この女は。
『妖かしの長女よ。一足先にあの世に行くが良い』
宣告するワイズマンを背に、ブラックレディが高々と両腕を上げた。その手の先に黒い力が集中している。振り下ろされた途端ペッツの身体は四散する、それが判った。
怯える彼女を愉しげに見下ろしながら、ブラックレディはぺろりと唇を舐める。
「さようなら、お・ば・さ・ん」
「───いい加減にしてくれないか」
静かな、それでいて怒りを秘めた声が、その場に響いた。
遊びを邪魔され非常に不快な表情で、ブラックレディはサフィールの方を振り返る。上げている腕はそのままだ。ワイズマンは相変わらず思考の読めないローブの奥から、彼を観察していた。
「動けぬ者を嬲るのが、そんなに楽しいか。お前のような女は、誇り高き我が一族には相応しくない。失せろ」
ブラックレディの顔が露骨に歪んだ。彼女が力を誇示したがるのは、己の存在を認めて欲しいから。サフィールにも覚えのある感情だ。無駄な力は災厄を呼ぶものだから、常に兄の隣で目立たぬようにしてきたが、そんな事も言ってはいられない。今の彼はダイヤの隣で埃を被った石ではなく、磨き上げられた蒼いサフィアそのものだった。
「相応しくない、ですって……?あたしを排除するの?叔父さんにそんな権利があるの?」
くすくす、と女は笑う。それでも、彼の言葉に動揺しているのははっきりと伺えた。ようやく両腕を下ろし、力を収める。
「教えてあげる。あたしはあなたが尊敬する兄、デマンドとセレニティの間に産まれる予定なのよ。邪黒水晶と銀水晶、双方の力を手に入れられるのはあたしだけなのよ!!」
どうだ、思い知ったかと言うように、ブラックレディは胸を張った。力を与えられた子供、兄もまさにそんな人物だったが、彼女は力が強い分、更に性質が悪かった。
(この容姿と言動。なるほど、そう言う事か)
サフィールは舌打ちする。未来のデマンド、過去のタキシード仮面の種が、同じ女の子宮で接触し、それによって生じた不安定な命が、ワイズマンの手で仮初めの肉体を与えられ、このような悪しき形で具現化したのだ。
「だが、兄さんはお前の存在を決して許さないだろう」
彼女が案じているであろう事を突いてやると、ブラックレディの顔が再び強張る。親に受け入れられない事は、子供にとって何より辛く、ましてやこの女にとっては消滅の危機がかかっている。
「そんな、はずはないわ。力こそ正義でしょう。パパはいつだって力を求めてた、だからママを手に入れようとした」
彼女の目が泳ぎ、助けを求めるようにワイズマンを見る。彼は何も答えなかった。
「力が我が元にあるのなら、な。お前の力は明らかに出過ぎている。兄さんにとっては、脅威となるだけだ」
サフィールはデマンドを誰よりも理解している。娘が父親より強い力を持つ事を、喜んで受け入れるような性格ではない。
(馬鹿だ、兄さんは。だからあれほど、あの女はやめろと言ったんだ)
再三の忠告を聞き入れず、デマンドはセーラームーンを犯した。その結果がこれだと思うと、虚しくなる。邪黒水晶を使いこなし、銀水晶の力をも宿した女。こんなモノが産まれてしまうと知れば、デマンドも考えを変えるかも知れない。セレニティの事は諦めて、もっと大きな視点で物事を考えられるようになる。そうなるためにも、この女を乗せない手はない。
「いいえ!あたしは愛されて産まれるのよ。みんなに望まれて誕生する愛娘なのよ!」
あからさまに動揺するブラックレディに、サフィールは低く笑った。
「なら、兄さんのところに行って、そう名乗ってくればいい。あなたの娘です、と。お前が産まれるのが定められた運命ならば、感激してお前を抱きしめてくれるはずだ」
「もちろん、そうするわよ!ワイズマン、パパのところに行ってもいいでしょう?」
どれほど強い力を有していようと、ブラックレディはまだ子供であった。ペッツに向けていた関心をデマンドに移し、彼女は早速移動を試みようとしていた。
『待て!』
ワイズマンの制止の声に、彼女は口を尖らせつつもその場に留まる。
『この期に及んで、小賢しい真似を……』
ローブの奥で、ワイズマンの目が光ったような気がした。空気が変わったのを肌で感じ、サフィールは身構えた。
『その調子で、女どもを丸め込んだか。やはりお前は、我の障害となる』
ブラックレディと同じ形で振り上げた両手に、力が集中する。やがてそれは、黒ずんだ大きな球の形を作った。負のエネルギーを、形にしたものだと判った。あんなものをまともに浴びたら、邪黒水晶を身につけていない彼の身体は、さぞ風通しが良くなることだろう。
「その女を利用して、宇宙の支配を謀るつもりか。見事に化けの皮が剥がれたな」
背後にある玉座へとさりげなく後退しながら、サフィールは毒づいた。兄がもう少し早くワイズマンの本性に気づいていれば、裏切りの必要などなかった。自分が死ねば、今度こそ兄は目を醒ますだろう。それもまた良しと考えていたが、今は違う。守らなければならないものが、もう一つ増えてしまった。
(ペッツ……)
目で、倒れている彼女に合図を送る。伝わるかどうか不安であったが、彼女はいつものように少し頬を染めて、力なく頷いた。
『命乞いはせぬのか。プリンスの目もある、今しばらくは生かしておいてやっても良いが』
「媚びる気はない。殺せ」
『そうか。では』
淡々としたやり取りの中、ペッツが僅かに残った雷の力を、右手に溜めるのが判った。だが、ブラックレディが不審そうにそちらを見る方が早かった。
『───消えよ、蒼のサフィール』
「ワイズマン、このおばさんまだ動……!」
低音と高音、二つの声が、恐ろしいハーモニーを奏でた。その中で数拍遅れて響くペッツの声は、サフィールの耳に心地よく響いた。
「ダルク・サンダー!!」
あやかしの四姉妹屈指の攻撃力を持つ彼女の技は、本来ならばワイズマンの攻撃に多少の影響を及ぼしたはずだった。しかし今は、僅かに相手を怯ませる程度の力しか持たない。
「くっ……!!」
軌道は逸れたが、衝撃波の殆どはサフィールにぶつかってくる。頭部を防御した二の腕から鮮血が噴き出し、風に引き裂かれた上着を赤く染めた。この痛みは、自分が招いた結果だ。
「エスメロード!」
控えているはずの美女の名を呼ぶ。突然、ブラックレディの身体を激しい竜巻が包んだ。近くにいたペッツの身体は浮き上がり、壁から離れてサフィールの隣に転がされる。
「おーっほっほっほ!ようやくあたしの出番のようね?」
声が大き過ぎる。それに、もう少し丁寧な助け方はなかったものだろうか。痛みに呻くペッツを助け起こしながら、サフィールは声の主が現れるのを待った。
ブラックレディの前に、派手なボディコン衣装に身を包み、扇子を持った妖艶な美女が降り立つ。言うまでもなく、自称宇宙一の美女、翠のエスメロードであった。デマンドから匿ってやったという恩を受けていながら、今まで姿を現さなかったのは、サフィール達が甚振られるのを密かに観察していたかったからに違いない。微かにジャスミンの香りがするから、また風呂に入っていたのかも知れない。全く呑気な女だ。
ブラックレディは不意打ちの竜巻から逃れると、乱れた髪を直しながら言った。
「何よ、新しいおばさんが……化粧が濃すぎない?」
鋭い指摘に、エスメロードはきいっ、と目を吊り上げた。
「お黙り小娘!力はともかく、色気でこのエスメロードに張り合えると思って!?いいこと、お前がデマンド様の娘だなんて、絶っ対に認めないわよ!!」
エスメロードには、この桃色の女と敵対する理由は充分にある。デマンドに恋している以上、セレニティとの間に産まれる娘の存在など、許せるはずもない。
『邪魔立てするか、エスメロードよ。プリンスのためならば、悪魔にも魂を売ると言っていたはずのお前が、なぜ?』
ワイズマンの問いに、エスメロードはすっと目を細めた。
「その悪魔というのが、このサフィールなわけよ。そういう事だから、悪いわね」
「……おい」
あまりの言いように、サフィールは思わず声を出してしまった。自分の性格はお世辞にも良いとは思っていないが、この女にだけは言われたくはない。
「それによくよく考えてみれば、あたしがデマンド様の妃になれば、サフィールは義弟。となると、あまり邪険にも扱えないじゃない?」
悪戯っぽく扇で口元を隠しながら、エスメロードは笑う。彼女の表情は、以前会った時と比べて随分柔らかくなった。今まではデマンド以外の人間は気にも留めなかったのに、一体誰の影響だろうか。そう言えば、死んだルベウスを思いやるような発言もあったような気がする。
「馬鹿を言えエスメロード。お前が義理の姉になるなど真っ平ごめんだ。兄さんにはもっと、落ち着いた品のある女性が相応しい」
サフィールがきっぱりと言うと、案の定彼女は噛み付いてきた。
「なぁんですってぇ!?人がせっかく助けてやったのに!何なら、このまま縄をつけてデマンド様のところに連れて行ったっていいのよ!?」
「まあ、百歩譲って第三妃くらいなら許してやってもいい。その口の利き方を改善してくれるのなら」
「お二人とも、あの……内輪揉めをしている場合では……」
ペッツが切れ切れの声でそう告げた瞬間、再びワイズマンの攻撃が降って来た。エスメロードの扇が一閃し、巻き起こった風が衝撃を緩和する。それでも、完全には防ぎきれない。彼女の白い肌を風が裂き、紅い血の雫が舞った。
慕う男のために、敢えてその男に背を向ける。本当に相手を思うのならば、時には逆らう事も必要だ。喩え嫌われようと、裏切り者と謗られようと。同じ思いを抱く者として、その覚悟はサフィールにも伝わっていた。
「エスメロード、お前は」
気づいた事があった。彼女の耳には、サフィールが勧めた偽のピアスではなく、本物がある。それ故に彼女の力は、普段と変わらず発揮されている。
邪黒水晶を外したのは一度きり、サフィールとは手を組むが、従うのはあくまでもデマンドただ一人。他の男の指示に、完全に従うつもりなどない。そんな彼女の矜持が、皮肉にもサフィールたちを守ってくれていた。
「……ふん。早くお逃げなさい、二人とも。あたしがこんな小娘に負けるとでも思って?」
強がりは、苦しそうな表情からも察する事が出来る。だからこそ、サフィールはペッツの手を取ってカラベラスと合流する事を選んだ。
『逃がさぬ』
ワイズマンの力が、サフィールの肩に叩きつけられる。右腕をやられ、また新たな血が噴き出す。的確な攻撃であった。技術者として何より大事な利き腕を痛めては、反応炉の操作も困難になる。けれど、マーキュリーたちを出迎え、交渉しなければならない。一族のために、力を貸せと。あの男を倒すためには、それしか手段が残されていない。

轟音が耳に響く。その音で、辛うじて反応炉前に辿りついたことが判った。床に転がっている彼を、ペッツが心配そうに覗き込んでいる。その傍らにいるカラベラスは、明らかに怒っていた。
「お姉さまをこんな目に遭わせて、一体どういうつもりですの。サフィール様」
ペッツは自分の怪我も省みず、サフィールの手当てをしようとしていた。そんな彼女を見殺しにしかけたのは、自分だ。返す言葉もなく、彼は力なく笑う。
カラベラスの腕の中の赤子が、轟音に怯えているのか、けたたましく泣く。それをあやしながら、彼女は殆ど瀕死のサフィールに、きつい目を向けてきた。
「あなたについていけば安全が保障されると思ったから、私達姉妹は従ったのです。それが何です、このざまは……そんな状態で、この反応炉が制御できるんですの?」
信頼していた彼の失態に、カラベラスは失望していた。赤子の身に少しでも危険が降りかかる事が、彼女には耐えられない。
「口を慎め、カラベラス!」
ペッツが鋭い声を飛ばすと、彼女は肩を竦めて立ち上がった。
「コーアンの所に行って来ますわ。あの子もきっと、気が気ではないでしょうから」
赤子を守るため、今からでもデマンドに寝返りかねない彼女の様子に、サフィールは静かに告げた。
「ワイズマンは、新たな力を手に入れた。いずれは全てを滅ぼす気だ。兄さんも、この星も」
去ろうとしていたカラベラスの背中が強張る。デマンドとサフィール、どちらに従おうと、いずれ辿る運命は同じ。ワイズマンを滅ぼさない限り、ブラック・ムーン一族に待つ未来は一つだ。
サフィールはふらりと立ち上がり、炉を囲んでいる高い柵に背中を押し付けた。ペッツが寄り添い、その身体を支える。床に落ちる血の雫は、彼の体力を削って止まる事を知らない。
「カラベラス、君は変身スティックを、セーラー戦士達のところへ。もう一度変身して、戦力になってもらう」
「そんな、今更!あの連中が聖なる力を取り戻したら、我らの身とて危険なのですよ!?」
変身能力を得たセーラー戦士達が、サフィールに従う理由などない。しかし、地球の命運がかかっているのなら話は別だ。
「大丈夫だ。彼女たちはきっと、力になってくれる……」
地球を失いたくないと思う気持ちは、セーラー戦士たちとて同じのはずだ。話せばきっと判ってくれる。完全に分かり合うには、あまりにも時間が足りないが。
ごほ、と彼は血を吐いた。ワイズマンの力は筋肉のみならず内臓をも破壊していた。吐血を受け止めた黒い手袋を眺めていると、ペッツが泣きそうな顔で布を差し出し、汚れた口と手を拭いた。
「ペッツ、君はもうここにいる必要はない。後は僕に任せて、手筈通りに」
「嫌です」
「そうか、嫌───え?」
初めて聞いた、彼女の拒否の言葉に、サフィールは一瞬己の耳を疑った。ペッツは唇を噛み、サフィールの二の腕にしがみ付いて離れなかった。上着が飛ばされて皮膚が剥き出しになっているため、柔らかな胸の感触が直に伝わる。彼女の早まった鼓動が、腕を通してはっきりと聞こえてきた。
「嫌です。サフィール様のご命令でも、離れたくはありません」
彼の命令を忠実に遂行してきたペッツの初めての反抗に、彼は戸惑い、どうしていいか判らずに言葉を返した。
「君は僕が好きだろう」
「はい。お慕いしております」
「慕う相手には従うものではないのか?」
少なくとも、サフィールはデマンドに対してそうしてきた。我を押さえて、波風の立たぬ生き方を。それでデマンドが自由に力を奮えるのなら、それでいいと思っていた。
「エスメロード様は、デマンド様を愛していらっしゃるからこそ、あの方に背きました。私もサフィール様をお守りするためならば、命令とて拒みます」
そう言って、挑むようにサフィールを見つめる。彼の顔が間近にあるのに、今回は赤面はしていなかった。エスメロードと同じ、迷いのない目だ。
何故、僕を好きになった、と問いたかった。胸がひどく痛む。嬉しいけれど、怖い。ここまで愛されるような価値は、自分にはない。受け止めるには彼の心は弱すぎて、潰れてしまう。
サフィールは自由になる方の腕を動かし、未だ血の乾ききらぬ手で、ペッツの顎を掴んだ。上向いた美貌を覆い隠すように、そっと唇を塞ぐ。
「ん、ううぅ……んっ」
苦しげな呻きは、抱きすくめられる事で甘い声に変わった。唇を吸いながら、サフィールは口の中に溜まった血を、唾液と共にペッツの口へと移した。彼女が嫌がって身を捩り、自分を突き飛ばすように。
しかし彼女は何ら迷うことなく、彼の血を飲み干した。彼の口内の傷ごと吸い尽くそうとするように、首筋に手を回し、強くしがみ付く。
(飲むな、そんなもの。……吸うな、汚いだろう、吐くんだ)
心の中で何度も叫ぶが、口に出される事はない。嫌われるような事をしておいて、自分からはペッツを拒む事は出来なかった。どこまで弱く、卑怯な男だろう。彼女にされるがままに、口内を柔らかな舌で弄られ、傷んだ頬を手で愛撫される。一途に慕ってくれる、白くて柔らかい女性に、彼は己の身に纏いつく死の匂いを、擦り付けるように抱きしめた。
ワイズマンに操られていたデマンドは愚かだと思っていたが、自分もあの兄の血を引いているだけあって、やはり愚かだった。才能を発揮できる場所を探していたのは、ブラックレディと同じだった。それが破壊に向かうか、生産に向かうかの違いだけだ。本当は、地球侵略と言う大義名分を与えられて、誰より喜んでいたのはサフィールだった。兄に、自分の力を示してやりたかった。そのために、セーラー戦士や四姉妹たちを傷つけた。女は弱い、可哀想だと頭を撫でてやりながら、優越に浸っていた。
(汚いと、言ってくれ。頼むから……)
拒まれれば、すぐにでも止めるつもりだった。思いとは裏腹に、身体はペッツの温もりを求め、貪るように口付けを繰り返す。彼は、この時初めて、本心から子供が欲しいと思った。生き方そのものが間違っていたと言うのなら、せめて己が生きた証を、この世に残してから消えたい。ルベウスの気持ちが、今は理解できないでもない。
「んっ……はぁ……」
ペッツの唇が糸を引き、サフィールから離れた。彼女も酷い怪我をしている。傷つけないよう、そっと彼女の身体を自分から離すと、彼はその首筋に手刀を打ち込んだ。
「───あ」
力を失った身体が、すとんと胸の中に落ちてくる。カラベラスが小さく声を上げた。
「お姉さま!?」
「気絶させただけだ。連れて行ってくれ」
サフィールの腕の中で、ペッツはまだ恍惚とした表情をしていた。カラベラスはそれを一瞥した後、サフィールを睨む。
「それで、いいんですの?お姉さまは、こんなにあなたのことを想ってらっしゃるのに。用が済んだからと言って、あっさり捨てるんですの!?」
ペッツに死んで欲しくないからこその行動だと、カラベラスにも判っているはずだ。それでも姉のために、不甲斐ない彼を責めずにはいられない。あやかしの四姉妹の中で、唯一まともな幸せを掴めそうな姉のために、彼女は怒っている。
「捨てるのではない、解放してやるんだ」
彼は言った。大切だと気づいたからこそ、連れては逝けない。ルベウスなら、きっと惚れた女を死ぬまで放さなかっただろうが、そんな愛し方は自分には出来そうにない。
「……ではせめて、最後に一言だけでも、愛していると告げて欲しかったですわ。たとえ嘘でも、一生騙し通して下されば女は満足なのです」
サフィールは答えない。そういう事が出来るほど器用な性格なら、今頃妃や愛妾の一人や二人作っている。兄に先んじるわけにはいかない、というのは表向きの理由で、本音を言えば家庭など持つ気はなかった。
カラベラスは溜め息をつくと、ペッツの身体を一旦横にし、その腹の上に赤子を乗せて、横に抱きかかえた。巨大な鞭を操るだけの腕力は、出産後も衰えてはいない。
「私はこの子が一番大切です。けれど、姉妹の情まで失ったわけではありません。だからこそ申し上げますが」
変身スティックと二人分の命を託された女は、出口で一度足を止める。おぼつかない足どりで操作台に向かっている青年を、哀れむ目で振り返った。
「ヴィーナスでもペッツお姉さまでも駄目なら、あなたは一生そのままですわよ。女に愛されたいのなら、まず御自分が変わらなければいけないのに……可哀想な方」
反論の余地はなかった。カラベラスはまだ、セーラーヴィーナスとの仲を疑っているらしい。思えばヴィーナスにも非道な事をした。あの能天気な性格に惹かれ、また苛立ったのは確かだが、単に、セレニティと似ている彼女に八つ当たりしただけなのかも知れない。
女の姿が闇に消えると、サフィールは預かった操作パネルを、震える手で端末に挿入した。暗黒ゲートを開くためのパスワードを打ち込もうとするが、左手でも指がうまく動かない。急がなければ、地球に邪黒水晶の巨石が打ち込まれてしまう。焦るほどに指がキーを滑る。自分の指なのに、感覚がない。
苛立ちのままに、邪魔な黒い手袋を外し、床に投げ捨てた。傷ついた掌があらわになる。鮮やかな血の色が目に飛び込んできた。黒の色彩に遮られていたから、これほど流血していたとは知らなかった。
ブラックレディが相手では、エスメロードもそう長くは保たないだろう。ワイズマンがじきに追って来る。まだ、ここで死ぬわけには行かない。ペッツたちを無事に逃がし、デマンドにあの男の野望を告げるまでは。
己を叱咤しても、脳と筋肉が激痛と共にそれを拒否する。これでは細かい操作は叶わない。彼はついに拳骨を作り、小指の関節の尖った部分でキーを叩き始めた。時間がないのに打ち間違え、間違えればもう一度最初から。何度もそれを繰り返すうちに、目の前が白く霞がかってきた。
最後の数字を打ち込んでしばらく経つと、ゲートが開いた。ここは、閉じた星の中で唯一外に繋がっている場所だった。ドロイドはここから過去の世界へ送り出されており、円盤で攫ったマーキュリーたちも、デマンドが拉致したセーラームーンことネオ・クイーン・セレニティも、全てここから来た。
「……ヴェネティ。アクアティキ」
己が生み出した最後のドロイドを、サフィールは召還する。呼びかけに応じて現れた二体の美女は、重傷の彼に纏わりつくように飛んでいたが、やがて反応炉の中に飛び込んで吸い込まれるように消えていった。それを確認すると、彼は再び素早くキーを叩いた。
(いくらワイズマンでも、ゲートを閉じてしまえば過去の世界に移動は出来まい)
ここを封鎖すれば、地球に死の楔が打ち込まれる恐れはない。彼に協力しない限り、セーラー戦士たちも逃げられはしない。出口を塞ぎ、残った戦力で袋叩きにする。
背後に注意しながらロックをかけ、慎重に操作パネルを抜いた。しばらく経つと、耳を劈く轟音がぴたりと止み、久しぶりの静寂が訪れる。
(これでいい。これ以上反応炉を暴走させるわけには行かない)
反応炉の静止は、邪黒水晶の生産の停止と同義である。しかし、これが一時凌ぎにしかならない事も、判っていた。ワイズマンはまだ切り札を隠している。保身や防御には自信のあったサフィールにここまでの重傷を負わせ、産まれる前の魂にブラックレディと名付けて己の右腕とするほどの、得体の知れない力の持ち主だ。力の供給を断ったからといって、安心は出来ない。あの男の力の源は、恐らく邪黒水晶だけではない。
(あいつの正体は……ローブに包まれた、あの下にあるものは何だ?)
それさえ判れば反撃の手立てもあるのに、ワイズマンはデマンドにさえ素顔を見せなかった。
くらりと眩暈がし、サフィールは顔面から操作盤に崩れ落ちた。痛んだ内臓からせり上がってくる血が気道を塞ぐ。無理な移動をしたせいで、傷口が開いた。そして彼の血を止めてくれるものは、ここにはない。
(ここまでか、僕も)
ぼんやりとそう思う。もう少し持ちこたえられるかと思ったが、予想より早く限界が来た。ペッツとカラベラスは、無事にセーラー戦士に会えただろうか。そしてセーラームーンは、彼の目論見通りに恋人を手放し、友からも軽蔑され孤独に震えているだろうか。
(いい気味だ、セレニティ。兄さんの心を奪い、歪ませた罰だ)
そう思う一方で、こみ上げてくる苦い思いがある。ブラックレディの存在が、あの二人が結ばれない未来を予言しているのなら、彼女を抹消してしまえばそれも無に帰すのではないだろうか。
一番いいのは、デマンドがセレニティを諦めてくれることだ。そのためには何が必要かを考え、先程ブラックレディを唆した。悪しき娘が産まれると知れば、デマンドは狼狽し、セレニティを手に入れようなどと思わなくなるかも知れない。だが、その代わりにセレニティとエンディミオンが結ばれる事になり、またラビットが誕生して……そこまで考えて、きりがない事に気づいてやめる。恋など知らない自分が、他人の恋心を分析するのも妙な話だった。
───ヴィーナスでもペッツお姉さまでも駄目なら、あなたは一生そのままですわよ。
言われずとも、判っている。心を許せる友もいないうちから女に甘えようとしたのが、そもそもの間違いだった。彼はまだ、恋を始めるべきではなかった。
もしやり直しが利くのなら、今度は友人作りから始めよう。人の心を理解するために、他人と積極的に話をしてみよう。歳の近い同性なら兄がいるから、出来れば異性がいい。聡明で、サフィールと考え方が近く、それでいて彼にないものを持っているといい。うるさいのは御免だから、性格も控えめで、しかし議論を始めると一転して熱くなるような相手がいい。万が一にでも恋愛に発展しないよう、彼女自身にはちゃんと恋人がいて、たまにその恋人について相談に乗ったりする。そんな異性の友人が身近にいて意見してくれれば、サフィールもきっと色々と学べたし、ペッツに対して間違えずに済んだ。
巨悪を生み出す反応炉を、静寂が包む。そうした取りとめもないことを考えるうち、顔を伏せたままのサフィールの意識は、暗い暗い、底知れぬ闇の中に呑み込まれていった。



人の去った空間は、恐ろしいほど静かだった。爆破された部屋の中で、唯一原形をとどめている寝台に、レイは座していた。首筋から背中にかけて零れる艶やかな黒髪を、赤子が悪戯に引っ張ってはキャッキャと笑い声を上げている。見れば見るほどルベウスに似たその面差しに、彼女は目をそむけずにはいられなかった。
(いい気なものね……)
これが先程まで胎内に入っていた事が、信じられない。まるで夢の中の出来事のようだった。
産めば、確実に愛情は生まれるはずだとカラベラスは力説していたが、生憎、母親としての情などまるで湧いてこなかった。排泄行為に似ている。身体に注入された穢れが、凝り固まって出てきたとしか思えない。
赤子は、卵の白身に似た、薄い膜に包まれて出てきた。あまり産んだと言う感じがしないのは、そのせいかも知れなかった。母乳も出ない。卵から生まれた生き物は、産まれてすぐに自らを包んでいた白い膜を食い破り、それで満足したのか、乳を求めるような気配はなかった。レイの身に危険が降りかかりさえしなければ、とても大人しい。
(でも、あたしには育てられない)
悩んだ末の、それが結論だった。産んだだけでも、もう充分義務は果たした。デマンドは何やら喚いていたが、母親なのだからと言う脅し文句はレイには通用しない。そんな言葉で行動を縛ろうとしても無駄だ。政治を言い訳に家庭を顧みない父、一人ぼっちで寂しく死んでいった母。あんな風には決してならない。冷たいと言われようが、自分の生き方は自分で決める。
レイの髪を弄ぶ赤子は、額にほんの少しだけ赤い産毛が生えている。その額にくっきりとついたブラック・ムーンの印である逆三日月が、あの時の恐怖を思い出させる。炎の中で犯された時、舌を噛み切ってしまわなかったのは、セーラームーンがいたからだ。一度は自害も考えたが、自分が死ねば、セーラームーンは悲しむ。仲間に疑いをかけられた時も、産みの苦しみの只中にあっても、その思いだけがレイを支えていた。
そっと、赤子の額を指でなぞる。先程、この印が共鳴した時に垣間見た未来のビジョンは、レイの予知よりも遥かに信憑性があった。セーラームーンはいずれ、地球の女王として君臨するのだ。その未来を、彼女は友人のために手放そうとしている。
(あたしは、どうしたらいい?あの泣き虫のために何が出来るの?)
自らの子供よりも主を優先させるレイは、薄情だろうか。それでも、この胸の中の炎は誰にも消せない。もう一度変身し、セーラームーンを守るために戦いたい。
忌まわしい刻印のある内腿に触れる。何度も擦り、叩いても、決して消える事のなかった陵辱の証だ。いっそ焼いてしまおうかと思うほどに、この証が憎い。そして、この赤子も。
「っ、ぁあ」
それまで機嫌よく笑っていた赤子の声に、異変が起こる。何かを喉に詰まらせたような奇妙な声を上げ、黒髪の房から手を離した。自分の感情が伝わってしまったのかと顔を強張らせたが、そうではなかった。部屋の入り口に立っている人物を見て、レイは目を見開く。
誰よりもルベウスに心酔していたあやかしの四姉妹の末っ子・コーアンが、疲れ切った顔で佇んでいた。道化師のような衣装と末広がりの髪はそのままだが、化粧が剥がれかけている。目の下のくすみが、妙に気になった。
レイは、思わず膝の上の赤子を腕に抱き上げた。守ろうとしたのか、それとも盾にしようとしたのか、自分でもわからない。ただ、コーアンの目的がこの子供である事は彼女の表情を見れば判る。自分を痛めつけた女に、素直に渡す気にはなれない。
「元気そうね、セーラーマーズ。ルベウス様の子供が産めて満足?」
恋敵に話しかけるコーアンの口調は、妙に穏やかだった。それでいて、身に余る幸福に感謝しろ、と言わんばかりの圧力がある。
「満足なはずがないでしょう!!」
罵倒の言葉が口から飛び出した。コーアンが、レイの陵辱に一枚噛んでいたことは知っている。良い部下という立場を保持したいばかりに、ルベウスの言いなりになって火川神社を襲撃し、後になって逆恨みするのは筋違いもいいところだ。もしもあの時ルベウスを止めてくれていたら、今頃子供を産んでいたのはコーアンの方だったかも知れないではないか。
赤子が甲高く鳴き、例によって炎の球をコーアンに向かって投げつけた。当然、相手が避けるものだと思っていたから、レイは傍観していた。炎の固まりはコーアンを直撃し、裾の方から衣装を焦がし始める。メラメラと音がして、化学繊維が燃えるきな臭い匂いが立ち込めた。
「何をしているのよ。あんたならそんな火くらい、すぐに消せるでしょう」
立ったまま動かないコーアンに、レイは毒づく。炎は瞬く間に彼女の足元から胸にまで燃え広がった。顔を残して、まるで真紅の綿に包まれているようだ。相当熱いはずだが、微笑みすら浮かべているのが不気味だった。血色の悪い頬は、汗一つかいていない。
「懐かしいわ、この温度、この感触」
うっとりと目を三日月形に細めると、コーアンは胸を腕で寄せて上げるようにして、自らの身を抱きしめた。
「これは間違いなく、ルベウス様の炎。私たち姉妹が失敗すると、いつもこうやって、灼熱の炎でお仕置きして下さった……」
陶酔しきった声に、鳥肌が立った。コーアンは姉妹の中では最も好戦的な女だと思っていたが、好きな男に対してはマゾヒズムな面もあるらしい。こういう馬鹿な女がいるから、男が調子に乗るのだ。
「正気の沙汰じゃないわね。ルベウスは敵だけじゃなく、味方の女にも暴行するのが趣味だったわけ?」
無論、性的暴行もあっただろう。姉妹を始めとして、何人の女の膣を通ったかも判らないモノがレイの中に突き込まれたのだと思うと、身の毛がよだつ。
「いつもじゃないわ。失敗した時の折檻だけよ。人を支配するためには、ある程度の暴力は必要だもの。あなたも戦いの神なら、分かるでしょう?」
甘えるような口調が気に障った。炎を身に纏ったまま、コーアンがゆっくりと近づいてくる。顔には能面のような笑みが張り付いている。レイは後ずさりしたが、寝台の背後には壁しかない。
「セーラームーンはあたしたちを殴って調教したりはしないわ!いい加減目を醒ましなさいよ。いつまでルベウスの幻影を追っている気なの?」
訴えかけても、女の耳には届かない。炎に包まれた体が、じりじりと迫る。刻印がある限りレイに手は出せないと、コーアンは言った。それなのに、今頃になって、どうした心境の変化だろう。レイを殺して赤子を奪いたいなら、もっと早くそうしていたはずだ。
(刻印が……反応しない?)
コーアンの姿が間近にある。燃え続ける炎が肌に触れそうになる。レイは思わず内腿を見た。あの時、蔦を焼き払ってくれた光が、何故か今は発生しない。あれは、あの時一度きりだったのだろうか。刻印が守ってくれると言うのは、それでは……?
「幻影じゃ、ない!」
炎の中から突き出してきた二の腕が、レイの白く細い首を鷲掴みにした。喉を押さえられ悲鳴を上げる事も出来ず、寝台に倒れこむ。彼女を押し倒すような形で、コーアンが覆いかぶさった。薄汚れた敷布の上に、黒い扇のように長髪が広がる。赤子はレイの手を離れて床に落下し、それでもなお母親を守ろうと、炎の塊を何度も投げつける。
「やはり、そうなのね!その刻印には、最初からお前を守るような力はなかった!」
血走った瞳でコーアンは言い、激しくレイの首を締め付けた。真紅の熱に包まれながらも、手にかかった力を緩める事は決してない。
(なに……なん、ですって……?)
痛みの中、コーアンの手を引き剥がそうとするが、酸欠のため視界が霞む。触れた部分から火が燃え移り、全身に広がっていく。
「……っ、ぁああ、熱い……っ!!」
コーアンの言った通りだ。刻印が守ってくれるなど、嘘っぱちだった。あの光は死んだルベウスの気まぐれで、一度限りのもの。彼の魂がこの世を離れた今、レイの身を守ってくれるものはこの赤子しかいない。コーアンは恐らく、今までその事実を知らされていなかったのだ。
「刻印自体に、防御効果などない。お前たちに手を出さないよう、私たち四姉妹を牽制するためのものでしかない。ルベウス様が、はっきりそうおっしゃったのよ」
勝ち誇ったような声だった。男への欲情を糧に燃え続ける女は、死の恐怖に怯えるレイを見て嘲笑った。
「なぜ知ったのか、という顔ね。カラベラスお姉様は死者との交霊が可能なの。お前が呑気に子供と遊んでいる間、私はずっとルベウス様の魂とお話していた。まだ会話は交わせないってお姉様は仰ったけど、ずっと根気よく話しかけていたら答えて下さったわ。私の呼びかけに、答えて下さったのよ!」
狂気を宿した瞳が、苦悶するレイの姿を映し出す。コーアンが今まで姿を現さなかったのは、閉じた部屋に篭もりルベウスの魂と対話していたからだと判った。
何故、と真っ先に思う。ルベウスに裏切られたと考えてしまうレイは、何とおめでたかったのだろう。刻印に効果がないと知れば、コーアンは真っ先にレイを殺そうとする。それが判っていながらルベウスが真実を明かしたのだとしたら、まさしくレイを売るような行為だ。俺の女になれ、などと言っておきながら、最終的に、彼はレイよりもコーアンを選んだと言うことだろうか。
(馬鹿馬鹿しい!判りきっていた事じゃないの、あの男は最初から、あたしを愛してなんかいなかった!知ってたわよ、そのくらい!!)
胸に去来するものが、怒りなのか悲しみなのか判らない。友人たちにも告げた通り、セーラーマーズのルベウスに対する感情は明確に「憎悪」だと断言できる。陵辱されたことはもちろん、戦士としての一対一での、命を懸けた勝負に負けた。家に放火はされたものの、寝ているところを襲ったり、弱味を握って脅したりはしなかった、その点だけはあの男を評価してやってもいい。
ただ、勝負には負けても、精神的には勝ったと思っていた。何故ならルベウスは恐らくマーズに惚れていたから。だから命までは取らず、コーアンたちが手を出せないよう手配して逝った。惚れられていたことに虫唾が走る反面、その事が火野レイの心を支えていたのも否定できない。自分はルベウスを憎むが、ルベウスはマーズを愛していた。それが、体で負けても心では勝ったと思える、彼女の唯一の誇りだったからだ。その唯一の誇りが、今になって瓦解するとは、予想もしなかった。
「つまり、もうお前を殺してもいいと、ルベウス様から許可が降りたと言うことよ」
レイの内心を知ってか、コーアンがうっすらと微笑んだ。絶望に染まるレイの意識が、視界の端で転がっている赤子に向けられる。ルベウスによって孕まされた憎しみの結晶。それが今ここにあり、レイは首を絞められているという現実。自ずと浮かび上がってくる真実。
「そう……いう……こと、ね」
痛みの中、レイはかすかに呟く。反撃に遭ったルベウスは、マーズを道連れにするよりも、自分の血を引く者をこの世に残すことを選んだ。そのために、子供を産むまでは彼女に生きていて欲しかったのだろう。そのための、刻印だった。
「あたしは……子供を産むための、器……だから、もう要らないと……」
今まで刻印を盾にして生かしておいたのは、子供を産んでもらうためで、それが済んだらマーズ自身にはもう用はないということか。
確かに、実の母親でなければ子を育てられない理由などないし、この赤子は母乳を必要としない。それに、子供を憎悪する母親が傍にいては、赤子の将来のために良くないだろう。今は良くとも、子が成長するにつれてそこに強姦者の面影を見出し、いずれ殺すかも知れない。そうなる前に母親には消えてもらった方がいい。子を残したい男の目線で考えれば、自ずとそうなる。
胸に、冷たい風が吹き抜けていく。あの男の愛情を信じていた自分が、情けなくて笑えてくる。全く、迂闊だった。コーアンの言うことなど真に受けて、ルベウスが自分を守るために刻印を残して「くれた」などと、勘違いして。やはりただ利用されただけなのだ、産むための道具として。それなのにあの男に勝ったなどと自惚れていた。
「そうよ!私としたことが、ルベウス様の御本心にも気づかずに、嫉妬したりして……自分が恥ずかしいわ。セーラーマーズ、そういう事だからお前は安心して死になさい。子供もすぐに後から送ってあげるわ」
「子供も……ですって…?」
それはルベウスの遺志に背くことになる。そう言おうとしたが、出来なかった。あの男の本心が判ったのに、少しも嬉しそうではなく、むしろ憔悴しているコーアン。恐らくルベウスに、残される赤子の世話役でも頼まれたのだろう。好きな男の本心を知って安心したのも束の間、違う女との間に産まれた子供の養育を託され、コーアンはどうしていいかわからず、ここに来た。
「あたしと……ルベウスの子を、殺して、死ぬ気、ね……?」
そこだけは、コーアンの気持ちが理解できる。女なら自分の子でなくとも愛せるはずだという、男の身勝手な論理を否定するには、それしか方法がない。男が残した種を握りつぶし、嘲笑ってやるしか、女の勝利を証明できる手段がない。コーアンはルベウスを愛してはいるが、自分の気持ちをここまでないがしろにされて、黙っていられるほど殊勝な女ではなかった。好きなら、言いなりになるはず。命令に従わないのは、愛情がないから。そう思っているのは男だけだ。
(でも、そのためにあたしが巻き添えになる理由なんてない!!)
コーアンはレイや赤子を殺す事で、自分を省みてくれないルベウスに報復しようとしている。何故、何の罪もない命が、犠牲にならなければいけないのか。まるで自分だけが辛いようにコーアンは言うが、あの男が生きているうちに、きちんと捕まえておかなかった彼女に罪はないのか?
「冗談……じゃ、ないわ。死ぬならあんた一人で死になさい!」
額に怒りの血管が浮き上がる。赤子を殺すのは産んだ自分だけに権利がある。他人の手など借りない。衣服を舐める赤い舌の勢いは衰えることを知らないが、レイの顔には熱さを凌駕する意思の強さがあった。どのような陵辱を受けても、卑屈になったりはしない。間違っているのは敵だと言う確固たる信念が、彼女を炎以上の強さで包み、守っていた。そのさまはまるで、火刑に処されるジャンヌダルクのように美しかった。媚びない瞳で、己を害さんとする敵を睨み続けていると、不意に腕の力が緩んだ。コーアンの目は焦点が合っておらず、口だけが餌を待つ雛のように、ぼんやりと開いていた。
『言われなくとも、そうするつもりだ』
コーアンの口から、忘れられるはずもない男の声が、低く漏れてくる。心臓を貫かれるような痛みと胸を焼く憎しみに、レイは声も出せずにその口元を見つめていた。
間違いなく、それはルベウスの声だった。祖父の身体を乗っ取り、レイの世話をしていたコーアンのように、彼は今この女の身体を借りて会話をしている。
「ルベ……ウス……」
蔦を焼いたあの光と同時に、レイの前に現れた時には、声を発することなどなかった。あの時は媒介となる肉体がなかったから、不可能だったのだろう。カラベラスによって再び魂を引き戻された彼は、今度こそレイに釘を刺しに来たに違いない。
『こいつは俺が連れて行く。だからお前は』
「育てないわよ!」
相手がその先を言うより先に、レイは叫んだ。上に圧し掛かられている状態は相変わらずだが、腕の力が緩んだ事に、彼女は戸惑いを隠せない。ルベウスの声が、あの時とは比較にならないほど穏やかである事も。
───やっぱり愛されてたんじゃない。嬉しいんでしょう?
コーアンや、マーキュリーのあざ笑う声が脳裏に響く。レイを殺すつもりなら、コーアンの身体を乗っ取る必要もない。
(やめてよ!こんな男大嫌いよ!!嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い!!)
「あんな事をしておいて、どの面下げて現れたの!?図々しいにもほどがあるわ!あたしはカラベラスとは違う!犯されたからって従順な母になると思ったら大間違いよ!」
心を折られたマーキュリーたちの分も、せめてレイだけは毅然としていなければ、セーラームーンは本当に孤立してしまう。
『真っ直ぐな女だな。口だけでも育てると約束しておいて、後で殺せばいいものを。まあ、そういうところがいいんだが』
勝手な事を言いながら、ルベウスは床に転がされた赤子に目を向けた。それまで炎を投げつけて母親を守ろうとしていた赤子の動きが、ぴたりと止まる。コーアンの姿をしていても、中にいるのは父親だと、気づいたのだろうか。
身を焦がす炎も、いつの間にか消えていた。それが判ると、レイは素早くコーアンの肉体を突き飛ばし、着物の前を合わせて起き上がった。
「子供を産んで用済みな女は、始末するんじゃなかったの……」
ルベウスにそのつもりがないことは、目を見ていれば判る。それなのに、わざわざ確認したくなる自分が嫌だった。この男の口から、実際に否定の言葉を聞きたいばかりに。
レイの憎悪の眼差しをものともせず、ルベウスは肩を竦めた。
『魂だけでは移動もままならん。ああ言っておけば、コーアンがお前のところまで連れて行ってくれると思ってな。……まさか本気にしたのか?かわいい奴』
レイの頬がかっと熱くなった。わなわなと震える手で拳を握り、目の前の焼け爛れた女体に向かって大きく振りかぶる。
「死ね!!」
他人に対してここまで直截的な言葉を口にするのは、初めてだった。これでも一応、彼女はお嬢様育ちなのである。恨みを込めた渾身の拳を、ルベウスはひらりとかわした。
『俺はもう死んでるだろう』
「だから禊は済んだとでも?死ねば罪が帳消しになるわけじゃないわ!傷は残るし、命はずっと続いていくのよ。この子にだって申し訳ないと思わないの!?」
身体の構造上仕方ないのかも知れないが、男は強姦を軽んじすぎる。暴力を受けて妊娠する苦痛を、そして世間の非難の目を、この男にも思い知らせてやりたい。
『謝れと言うのなら謝るが。口先だけの謝罪など、お前は望んでいないだろう。今の俺にできる事は、こうしてお前を死なせないように守ってやるくらいだ』
コーアンの殺意に火をつけた本人が、ぬけぬけと何か言っている。反論するのも馬鹿らしいのでレイは今度は何も言わなかった。この男は、レイを犯した事を後悔はしていない。彼には彼なりの信念があるのだろう。死んだ彼に対する復讐とは、その彼の信念を否定する事だ。
───つまり、女が男の所有物ではない事を、証明してやればいい。
「ルベウス。あたしを蔦から守ってくれた時のこと、覚えてる?」
少し声の調子を落として、レイは言った。くれたという言い方に、ルベウスは一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐにいつもの傲慢な笑みを浮かべ、頷いた。
『ああ。お前の身体は俺のものだからな。蔦だろうが何だろうが、好きにされるのは許せなかった』
彼の嫉妬はあくまでも、大切なオモチャに対して向けられるものだった。お前に決めさせてやると言いながら、結局はレイの意思を尊重する気などない。
「じゃあ、あたしが他の男に抱かれたりしたら、もっと許せないわよね」
『当然だろう。だからこそ、所有の焼き印を付けてやったんだから。それでもなお、お前に手を出そうとする男がいたら、八つ裂きにしてやる』
ルベウスは笑っていたが、目は笑っていなかった。愛情があるかはさておき、所有物としてレイに執着しているのは確かだ。
「……だ、そうよ、セーラームーン。どうするの?」
入り口の外に潜んでいた小さな影が、びくりと震えた。レイの呼びかけに答えて、お団子頭の少女がおずおずと出てくる。ようやく変身能力を取り戻した、美少女戦士セーラームーン。その後ろには、タキシード仮面の姿もあった。
「よ、よくわかったね。いつから……」
瓦礫を慎重に跨ぐようにして近づいてきた少女の太腿には、薄く白い液体が伝った跡がある。拭いている時間も惜しい、と言う事か。だったら立ち聞きなどしている場合だろうか。
「『かわいい奴』のあたりから聞いてたでしょう。全く、覗きなんて悪趣味なのよ、衛さんまで」
レイはタキシード仮面に目を向けた。彼の表情は硬く、セーラームーンとの間に一定の距離を取っている。彼が何を考えているのか、勘のいいレイには理解できた。
「邪魔しちゃ悪いかと思って、その、えっと……見た目はコーアンだけど、ルベウスだよね?」
ルベウスとの仲を疑っているのは、マーキュリーだけではない。加えて今の会話では、いちゃついていると思われても仕方ないかも知れない。レイの心には、依然として黒い憎悪が渦巻いていると言うのに、心の中は他人には見えない。友人でさえも、目に見えるものしか信じないのだから、これから戻る予定の地球の、世間の目の厳しさは並大抵ではないはずだ。
「そうよ。あたしがこの世で一番大嫌いな、最低で最悪の男よ」
ルベウスを滅ぼしていいものか迷っているらしいセーラームーンに、念を押して言い聞かせるようにレイは告げた。誰よりも仲間思いで、地球の未来や友人のために、自分の命どころか恋人すらも捧げようとしている少女だ。もしもルベウスとレイが相愛ならば、見逃そうなどと甘い事を考えているに違いない。サフィールに対してもそうだ。亜美は彼に興味を持ち、罠と知りながら彼の元へ赴いた。だから彼のこともきっと殺せない。
しかし、デマンドはどうだろう。彼が犯したのはセーラームーンだけであり、四守護神に直接危害を加えてはいない。それでいて、全ての元凶でもある。彼の事も、許す気だろうか?
「もう、友達に誤解されて傷つけられるのはうんざりよ。セーラームーン、あなただって身を以って知ってるでしょう。好きでもない男に抱かれるのがどんなに辛いか」
「知ってるよ。でも……」
セーラームーンは一瞬口ごもったが、やがて葛藤を振り払うように頭を振り、きっと顔を上げた。
「それでも、あたしはレイちゃんに今すぐ元に戻って欲しい。陵辱にも負けないレイちゃんの強さを、すごく尊敬してるし、何度励まされたか知れない。セーラーマーズの出す炎が、もう一度見たいんだもの。みんなだってきっとそう思ってるよ……」
友人を抱いてくれ、とタキシード仮面を説得するには、どれほどの覚悟が要っただろう。加えて、レイに冷たく拒否されてしまえば、その友人さえも失う事になる。それだけのリスクを負いながらも、セーラームーンは敢えてその選択肢を選んだのだ。その気持ちに、レイは応えてやらねばならない。
『おい、何を言ってるんだ?話がまるで見えないんだが』
余裕の表情で、ルベウスは笑う。死をも恐れず暴虐の限りを尽くし、女をモノとしか思わないその頑なな思想を、レイの炎が焼き尽くす時が来たようだ。
『俺は既に死んだ身、浄化でも何でもするがいいさ。だが、セーラーマーズが俺に敗北したと言う事実は変わらん。その証拠がこの子供だ。お前らが何を言おうが、俺の勝利は揺るがないんだよ。はははは!!』
不快な笑い声が室内に反響する。レイは、着物の合わせに手をやった。胸元を覗き込むようにして、目立った火傷がないことを確認する。赤く腫れてはいるものの、この程度なら命に別状はない。着物の方は焼け爛れて、もう使い物にならないが。
「レイちゃん?」
セーラームーンが驚きの声を上げたのは、レイが突然着物の前をはだけたからだ。座った状態では一度に脱ぐ事は出来ず、はだけた部分が帯の位置で引っかかって止まる。薄い暗闇の中、レイの汗ばんだ白い双丘が浮かび上がった。
ルベウスがあんな事さえしなければ、生涯清いままでいるはずだったこの身体は、孕んでいる間も乳首は変色せず、不自然なまでに腹が出っ張る事もなかった。赤子に愛情を抱けないのが、そのせいかどうか判らない。母になる自覚を得るには、期間があまりにも短く、苦しみの時間もまた短かった。通常の妊娠とは明らかに違い、殆ど便秘状態と変わらなかった。カラベラスは何故、子を産んで変わったのだろう。あの女を見ていると、自分の方が間違っているのではと流されそうになる。
(違うわ。カラベラスには守るべきものがなかった。だから子供をダシにしているだけ)
レイには赤子以上に庇護すべき存在がある。世界の主、地球の頂点に立つ女王の傍らで、ずっとその営みを守っていくのだ。この行為が間違っているはずがない。
「セーラームーン、ルベウスを押さえていてくれる?出来るわよね」
ルベウスに引導を渡すために、レイは静かに告げた。あらわになった乳房には傷一つない。陵辱の跡は、とうに消えている。代謝がいいのか、あるいはレイが自宅で寝込んでいた時、コーアンが揉み消したのかも知れない。
セーラームーンのあどけない顔に、さっと緊張が走った。こうと決めた時の彼女の動きは素早く、状況が掴めないでいるルベウスの身体、正確にはコーアンの焼けた身体を壁に押しつけた。
『何をする気だ、おい。俺はこの世に未練なんかないんだよ。浄化するならさっさと──』
笑いながら言っていたルベウスの表情が、ふと強張った。彼は、壁となっているセーラームーン越しにレイの背中を見ていた。
そしてレイが見ているのは、目の前で困惑した表情を見せるタキシード仮面だった。しかし彼も、少女が裸体を晒したまま近づいて来るのを見ると、小さく声を漏らす。
「……セーラーマーズ」
レイは思う。もしもルベウスが強姦などという獣じみた手段を使わず、正面から告白してきたら、自分はどうしただろうか。炎の属性を持ち、戦いを好むこの男を、恋人としては無理でも友人として受け入れていただろうか。いや、考えても栓の無い事だ。
対等な好敵手として扱ってくれたサフィールに好意を持った亜美とは、場合が違う。殴り合いの喧嘩なら仲直りは出来ても、レイプは一方的に行われる暴力だ。それを理解していない男が、この男のほかにもまだまだ存在する。仮に地球に戻れたとしたら、その後レイがすべき事は、男からの性暴力に苦しむ不幸な女を一人でも減らす事。
「誤算だったわね。ルベウス」
傷一つない、透き通るような背肌を彼に見せつけながら、彼女は哂う。正面にいるタキシード仮面の姿だけを見て、ルベウスを振り返りもしない。
「あんたたちは、セーラームーンを侮っていた。清らかなプリンセス、誰にでも寛大で、過ぎた事は水に流し、敵を許す。仕返しなど下らない───そんな思想に取り付かれている、甘いお姫様だと思っていた」
銀水晶は本来、癒しの力。今までの敵も、全て浄化によって倒してきた。ただの無垢な少女だった月野うさぎを、亜美の陵辱によって毒に染めたのは他ならぬブラック・ムーンたちだ。それを皮切りにセーラー戦士たちは変わった。異性に怯えて従順になることもなく、性奴隷に堕ちる事も無く、むしろ冷静に己の中に生まれた変化を受け止め、成長しつつある。その変化を認めようとしないのが、ルベウスの性だ。
「セーラームーンはそんなに弱い娘じゃない。それを証明してあげるわ」
裸の両腕を伸ばし、レイはタキシード仮面に抱きついた。滑らかでふっくらした張りのある乳房が、青年の胸にぎゅっと押し付けられる。
何が起こっているのか、ルベウスだけが理解できない。「うさぎ」と小さく呟いたレイに、セーラームーンは心得たように頷く。
『お前ら……一体何を……』
少女たちの強い意志の力を目の当たりにして、コーアンの肉体を借りたルベウスが、かすれた呟きを漏らす。焼け爛れたその身体は隙だらけで、防御する事すら忘れているようだった。
そんな彼の首を片手で絞めたまま、セーラームーンは額に冠したティアラを外し、もう片方の腕を振りかぶる。
───ガキッ。
金属の先端が壁に埋め込まれる、硬い音でルベウスは我に返る。ティアラを首輪代わりに拘束され、身動きが取れない。タキシード仮面にしどけなく凭れ掛かっているレイの姿が、彼の目には映っているはずだ。
汗に塗れた黒髪を頬に張り付かせ、少女は友人の恋人にゆっくりと身体を預けていく。裸体を隠そうともしないその姿には、恥じらいを束の間忘れた経産婦特有の婀娜っぽさがあった。新たな命を生み出しながらも、その命を捨てようとしている大人の女性の色気だ。
子供という枷で女の生涯を縛り付けようとする愚かな男の目には、レイのその姿は傲慢に、そして未知の生き物のように映るだろう。証拠にルベウスは、明らかに動揺していた。
『おい、放せ。マーズの姿が見えん』
視界を遮っているセーラームーンに、焦燥した声が投げかけられる。セーラームーンはその場を動かなかった。己の意思に反して男性に媚びる友人の姿を見たくないのと、ルベウスの抵抗を阻むためと、双方の理由で。
「衛さん……」
ほんの一時期、憧れていたこともあった青年の頬に、レイはそっと両手を添える。自分から触れる分には平気かと思ったのだが、やはり身体の震えが止まらない。見知った相手とは言え、男に対する恐怖は今も根強く心の底に残っている。それでもレイが立っていられたのは、ルベウスに見せ付けるため、それともう一つ理由があった。この青年の、同情と労りに満ちた表情が、酷く不愉快であったからだ。
暴力を受けた過去を語れば、世の「まとも」な男性は恐らくみんなこんな顔をする。気の毒だと思いながらも、明らかに自分より格下の者を見る目だ。この目に、レイはずっと耐えなければならないのか。
男が童貞を奪われてもこうはならない。エスメロードとのことはうさぎから聞いている。それなのに、タキシード仮面はうさぎの発言ごときに傷ついて、被害者気取りだ。女の苦しみなど、判ろうともしないくせに。
「あなたの力で、あたしの刻印を消して」
忌まわしい子供を産み落とした身で、もう怖いものなど何も無い。そう言い聞かせ、レイは男の胸板に乳房を更に押し付けた。
室内の異様な空気を悟ったのか、床に転がった赤子が再び泣き声を上げる。
『待て!何をする気だ!』
背後で、ルベウスが声を上げる。こちらに駆け寄ろうとしている気配も、激しい怒りと共に伝わってきた。
「レイちゃんたちの邪魔はさせないよ」
セーラームーンの声は、とても静かだった。ドジで泣き虫で、そそっかしい中学生の面影は、もう戻っては来ない。そのようにしてしまったのは、他ならぬブラック・ムーンだ。
『正気か。仲間がお前の男を寝取ろうとしているんだぞ!?はなせ、この手を離せっ!!』
どんなに暴れても、首に食い込んだティアラは外れる事はない。ルベウスは、レイの体を気遣っているわけでも、タキシード仮面に嫉妬しているわけでもない。単に、女が自分の思い通りにならない現実に、パニックを起こしている。
手酷く強姦したはずの女が、他の男と愛を育むことが認められない。この手の男は、所有物であるはずの女が自分の目の届かぬところで幸せになる事を、心底嫌う。ルベウスの望みは、彼が死んだ後もレイが彼の影に怯え続ける事なのだ。心を犯し、支配するとはそういう事だった。
(こんな奴の思い通りになんか、ならない)
神社で襲われたセーラーマーズは、最後の力を振り絞ってルベウスの男根を締め付ける事で、彼の命を奪うことに成功した。そして、カラベラスの力でなおも蘇ってきたこの男に、今度は心で、一矢報いる。
「セーラーマーズ、待ってくれ」
爪先立ちしたレイの赤い唇が触れる寸前、タキシード仮面が言った。青年の吐息を頬に浴びながら彼女は眉を顰める。この期に及んで、彼はまだ綺麗事を口にしようとしているのか。
「……なあに、衛さん」
うさぎを護れなかった、役立たずの王子様。そんなことを、心の中で呟く。サフィールに甘えていたヴィーナス同様、エスメロードに篭絡されたタキシード仮面を、レイは軽蔑していた。
もっとしっかりした、大人の男性だと思っていた。単純な戦闘力の話ではない、辛い時は精神的に、セーラームーンの支えになってくれるはずだと。それが蓋を開けてみれば、彼女を守るどころか他の女に心を動かし、うさぎとの間に険悪な空気すら漂わせている。
「君たちは充分傷ついたじゃないか。もうこれ以上は」
「いいえ、まだよ」
知ったような口をきくタキシードの紳士に、レイはきっぱりと言いきった。
「傷ついたのは、あたしたち女だけ。肝心の男は誰一人傷ついていないわ」
「………」
「女を強姦しておいて、もういい、済んだことだと思うのは、所詮衛さんが男だからよ。違う?」
美少女戦士のピンチに駆けつける事に己の存在意義を見出している正義の仮面(マスク)は、言葉に詰まる。レイは意地悪く笑った。
どんな紳士でも、戦争や強姦の無い世界など望んでいない。自分が犯したいからではなく、犯されそうな女性を助ける自分の「正義の味方」としての地位が、失われてしまうのが怖いからだ。
犯罪者や最低な男を引き合いに出して、それに比べたら自分は紳士だと主張する事で女の見る目の無さを嘆く、そんな程度の低い男はレイは必要としない。真の紳士ならば、悪人がいなくとも存在が成り立つはずなのだ。
「ルベウスは確かに一度死んだわ、でも死ねば許されるの?確かに法的には何の問題も無いわね。でも、曲がりなりにも宗教に携る身として、あたしはそれが許せない」
罪を犯せば、報いがある。死した後も地獄の業火に焼かれるべきだ。それを後世の人間に示し、悪事を未然に防ぐのが、巫女としての役割である。
「しかし、マーズ」
強姦の恐怖も妊娠の現実も知らない男が、今度は何を言うつもりだろう。女は復讐など考えず、笑って子育てをした方がいい、とでも言うつもりだろうか。憤りを込めて睨みつけると、青年は口を閉ざした。ルベウスはもう救いようが無いが、この青年にはまだ救済の余地が残されている。
「衛さんが真面目な人だって事は知ってるわ。だからこそ、うさぎの気持ちを察してやれないあなたが歯痒い。悪いのはうさぎを拉致して犯したデマンドなのに、どうしてうさぎを許す許さないの話になるの?責めるべきなのは、うさぎじゃなくてデマンドでしょう!?」
「それは……」
外見上は大人に見えても、彼もまた学生で未熟な身である。レイには、それがわからない。十代の二・三歳差はかなり大きく、それでなくとも彼は地球の王子として精神性の高さを要求されていた。
「わかって。恋人を護ってもやれないくせに、嫉妬や責めることだけは一人前な───あたしは、衛さんにはそんな下らない男になって欲しくないのよ!」
それは、背後にいるルベウスに向けた痛烈な皮肉であった。叫びながら、レイは言い訳の言葉を封じ込めるように、無理に衛の唇を奪った。酷く苦い味がした。
それは、八つ当たりに近かった。自分だけではない、大事な友人たちも傷つける男という存在全てに、レイは燃えるような怒りを抱いていた。唇を強く吸う、この程度ではレイプの代わりにもならない。なぜ、男には子供を育てる子宮が無いのだろう。母乳の出ない、役立たずの退化した乳首だけを、厚い胸板に貼り付けて。なぜ神聖な性行為を、暴力で汚すのだろう。
タキシード仮面は身じろぎもしない。レイを突き放すことも、抱きしめる事もしない。これでは自分はただの汚れ役だ。彼は、ずるい。何もかも女に決めさせて、何もかも女に責任を押し付けて。それが彼の答えならば、セーラーマーズとしてはもう何も返すことが無い。怒りを込めて、唇に強く歯を立てる。舌先に鉄の味が滲んだ。
『ふざけるな!セーラームーン、なぜ止めない!』
ルベウスが唾を飛ばして怒鳴った。そこまで動揺するようなことか、とレイは人事のように思う。
それまで余裕ぶっていたのが、嘘のようだった。女を物のように扱ってきた彼は、女が男の性を支配する事など、考えもしていないのだろう。
「どうして?地球の人と交われば刻印が消えるってわかってるのに、止める理由なんて無いよ」
セーラームーンは相変わらずレイたちに背中を向けたまま、醒めた声を漏らした。彼女の中にほんの少し残っていた、ルベウスに対する憐憫は、すっかり消え失せたようだった。友人を傷つけた悪に対する迷いの無い目が、ルベウスを射抜く。
『俺に見せ付ける気か。残念だったな、そんなことをしても無駄だ!』
ルベウスの叫びがはっきりと室内に響いた。他の男と唇を重ねながらも、レイの耳にはその声が正確に届いていた。
『地球の男との性行為などに、意味は無い!!聞いているのか、セーラーマーズ!無駄だと言っているんだ!!』
(馬鹿な男……ううん、『男は馬鹿』が正しいわね)
女を見下すあまりに、自分から墓穴を掘った。その瞬間をレイは見逃さず、また聞き逃さなかった。硬く閉ざしているタキシード仮面の唇から、自分のそれを浮かす。
「……どういうこと?」
内心笑い出したくなるのを堪えながら、レイは振り返った。セーラーマーズが捨て身の戦法を得意とすることを、以前の戦いで知っているはずなのに、この男は本当に学習能力がない。
『馬鹿め!』
振り返ったレイが驚いているとでも思ったのか、ルベウスは嬉々として、己が埋まるための穴を掘り続ける。
『闇の刻印を焼き付けられるのは、我が主プリンス・デマンドのみ。配下の俺たちには、勝手に同胞を増やす権利など無い。マーズに付けたのはただの所有痕(マーキング)だ!』
タキシード仮面の顔が強張った。
「では……」
セーラームーンの震える声が、それに重なる。
「あやかしの四姉妹が言った事は、嘘だって事?だって、サフィールも確かにそう言って……」
『女如きに、真実を教える必要がどこにある?お前らも四姉妹も、踊らされただけなんだよ!!』
その台詞が、決定打となった。黒い髪を揺らし、レイはセーラームーンの背中越しに、壁に固定されたルベウスを凛と見据える。
「ありがとう。それが、聞きたかったのよ」
言葉は炎の矢となり、ルベウスの胸を的確に貫いた。そこに到ってようやく嵌められた事に気づき、男の顔が歪む。
『お前……!最初から、そのつもりで』
コーアンの姿を借りたルベウスは、この上ないほど醜い顔をしていた。その顔が拝めただけで、レイは満足した。
どうやったらこの傲慢な男の鼻をへし折れるのか、犯された後もずっと考えていた。既に死んでいる男を暴力ではなく、精神的に打ちのめすにはどうしたらいいのか。
ずっと、考えていた。見下している相手に裏をかかれたら、この男はどんな顔をするのかと。友人の拒絶にも耐えて、耐えて、耐え忍んで機会を待った甲斐があった。
(勝った。あたしの勝ちだわ。あたしはルベウスに屈しなかった!!)
戦いの神として、敵に勝利したという結果は、何よりの喜びであった。目論見が崩れたルベウスは、信じられぬものを見るようにレイを見ている。
「セーラームーン。あたしを銀水晶で癒して」
己が仕えるべきただ一人の主に向かって、戦いの神は告げる。内腿に焼き付けられたこれがただの焦げ跡だと言うのなら、水晶の力で元に戻るはずだ。足の間にまだ残る異物感も、全身の倦怠感も、一刻も早く取り去ってもらいたい。
「男の汚らしい身体や、偽りの優しさなんかじゃなく。あなたの、本物の母性で癒して」
そう言って、レイはその場に膝を着いた。同じ内容のことを告げていても、タキシード仮面の時とはあまりにも違う。恋人に薄情者と罵られ、自分が泥を被っても友を救おうとし、命さえも削ろうとしている相手を、どうして敬えずにいられようか。レイが心から尊敬し、甘すぎる性格に苛立ちながらも護りたいと願うのは、目の前のこの少女だけだ。
ルベウスの発言に硬直していたセーラームーンは、レイの慇懃な態度にようやく我に返り、彼の戒めを解いた。首から離した手を胸のブローチに持っていった。触れれば眩い輝きが、さながら絹のカーテンを広げるように室内に満ち溢れた。うさぎの魂そのものを現す穢れなき光は、レイの全身を優しく包み、瞬く間に癒していく。
白い粉を被った黒髪は、元の艶やかな烏の濡れ羽色に。苦痛に伏せられていた瞼はくっきりとした勝気な二重に、下がり気味だった口角は強い意志を秘めてきゅっと上がり、肌理の細かい肌は元の張りと潤いを取り戻す。
光が消えた後、レイは内股の刻印が消えていることを確認し、ようやく微笑んだ。見せる必要の無くなった白い胸を合わせの中に押し込み、悠然とルベウスの前に立ちはだかる。
『く……!』
屈辱と共に刻み付けた所有の証が消えたことに、ルベウスは心底悔しそうな顔をしている。背中に流れる黒髪をさっと払い、レイは陵辱者に決別の言葉を与えた。
「覚えておきなさい、ルベウス。頭の悪い男に侵略されようが、自分の力で何度でも立ち上がる、それがあたしたちセーラー戦士よ!」
この場にいない仲間たちの分も、彼女はそう言い切った。マーキュリーたちもいずれは自力で傷を克服し、うさぎの元に戻ってくる。レイはそう信じている。
ティアラが外されたセーラームーンの額には、白い三日月が輝いている。デマンドによる刻印は、既にタキシード仮面の愛で上書きされ、消えた。唯一、地球の男との交わりが必要だった彼女の身体が元に戻った事を知れば、デマンドも恐らくルベウスのように見苦しく喚くに違いない。
『傷ものの分際で……!今更まともな女に戻れると思っているのか!次にお前を抱く男は、中古と知ったらどんな顔をするだろうな!!』
全く男という生き物は、容姿や貞操絡みでしか女を傷つける言葉を知らないのだろうか。もう、彼が何を言おうと、レイの心に波風が立つ事は無かった。勝敗は決したのだ。長くレイを苦しめてきたルベウスはもういない、ここにあるのは無様な残り滓だけだ。後は速やかに、彼岸へ送ってやればいい。
「見事です、セーラーマーズ」
しっとりとした大人の声に、レイはセーラームーンを見返る。額の三日月を輝かせ、慈愛に満ちた表情で彼女を見つめるセーラームーンは、プリンセスと呼ぶことすら恐れ多い風格を漂わせていた。
(クイーン……?)
ダークキングダムとの戦いの際に会った、前世でのうさぎの母親、クイーン・セレニティを思い起こさせる。その慈母的な微笑みのまま、セーラームーンは告げた。
「あなたの闘志は、常に私の進む先を行き、魔を焼き払ってくれる。───あなたがいるから私は私でいられる。さあ、その炎で彼を清めるのです」
白い両手が伸びてきて、レイの手に何かを握らせる。よく馴染んだ、覚えのある感触だった。
「これは……」
「さあ」
促され、レイはこくりと頷いた。赤い変身スティックをきつく握り締め、ずっと叫びたかった言葉を口にする。
「マーズ・スターパワー・メイクアップ!!」
スティックから赤い炎が噴出して、身体に纏わりついていく。その炎はレイの身体を焦がす事は決して無い。炎の輪が裸足に着火すると、深紅のハイヒールに転じた。滑らかな太腿も同じ色のスカートに覆われ、うねる黒髪に隠れた額にはティアラが装着される。炎が引いていくと、そこには以前より一層凄みを増したセーラーマーズの姿があった。
(変身できた)
赤いヒールでしっかと床を踏みしめて立つ己の勇姿を見下ろしながら、セーラーマーズは頬を紅潮させる。身体の中に、マグマのような熱い力が沸き立つのを感じる。目の前の敵に対して押さえ込まれていた破壊衝動が、出口を見出して今、爆ぜんばかりになっている。恨みを晴らす、という怨念じみた感情とはまた違う。壁に戒められたルベウスが、コーアンの身体を借りているせいか妙に小さく見える。
『ま、待て……待ってくれ!』
後ずさりも出来ない彼が気の毒だと思えるほどに、マーズの心は澄み切っていた。考えている事も、手に取るようにわかる。彼が感じているのは死への恐怖ではなく、もっと、得体の知れないものに対する恐怖だ。
『なぜ心が折れない?その強さは、力の源は一体どこにあるんだ!?教えてくれ、それさえ手に入れば、俺はもっと強く……!』
力の源。彼らは銀水晶がそれだと思い、あらゆる手段を使って手に入れようとする。愚かな話だ。大切なのは人の心なのに。気高い心の宝石は、誰もが最初から胸の奥に、一個ずつ持っているのに。
『もうおやめなさいませ、ルベウス様』
力に焦がれるルベウスの訴えは、静かな女の声にかき消された。コーアン、と小さくマーズは呟く。それに応え、女の声がボリュームを増す。
『あたしたちは負けたのです。マーズにも、お姉さまたちにも』
『黙れ!』
部下の女の諭すような言葉に、ルベウスは激昂した。
『俺は負けてなどいない!お前と一緒にするな!』
『いいえ、同じですわ。お姉さまのことが大好きなのに、あたしを置いて他の男と幸せになることが許せなくて、殺そうとしたあたしと同じ』
その殺伐とした内容に、セーラーマーズたちは息を呑む。あやかしの四姉妹、もとい三姉妹が、四守護神と同様に仲間割れを起こしている事を、彼女たちはそれまで知らなかった。使命を忘れ子供を最優先するようになったカラベラス、サフィールに加担したペッツ、ルベウスに焦がれ続けるコーアンは、もう昔の、険悪ながらも統率の取れた動きを見せる事は無い。それぞれ違った形で愛を知り、戦いを忘れ、ただの女と化していた。
「殺そうとした、ですって……?」
長きに渡ってセーラー戦士を苦しめてきた四姉妹。出産したカラベラスの例もあったから、その精神は鋼のようだと思っていた。しかし、敵もまた人であったのだと、この後レイは思い知らされる。



サフィールが開けてくれた暗黒ゲートを目指し、カラベラスは音も立てず城内を移動していた。ペッツと赤子を抱いての行動は、ダークパワーの弱まっている彼女の身体に多大な負担をかけた。邪黒水晶のピアスをしていない彼女はただの力持ちに過ぎず、頼りのドロイドも今はいない。
「ん……サフィール様……」
気を失った長女は、なおも想い人の名を呟き続けている。最後に受けた接吻の名残を噛み締めるように、時折血のついた唇をもぞもぞと動かす。
末っ子はずっと部屋にこもりきりで、無駄だと言うのにルベウスの魂と会話を試みている。姉といい妹といい、薄情な男に惹かれる性質があるらしい。
その点においては、死んだベルチェやカラベラスは現実的であった。恋を愉しむには余裕が必要で、己の命すら危ういというのに男のことなど考えている場合ではない。
(先に部屋に寄って、コーアンを回収しなければ……)
あまり移動に時間がかかっては、ワイズマンに発見されやすい。こんな時ドロイドさえいれば、と歯噛みしたカラベラスは、前方にそのドロイドがうずくまっているのを発見して、思わず声を上げる。
「ジャーマネン?お前、どうしてここに!?」
赤い粘液で構成された艶かしい女性姿のドロイドは、移動に必要ではあるが、今その場にいてはならない存在だった。プリンス・デマンドを軟禁しておくよう、かたく命じておいたはずなのに。
果たして、ジャーマネンは苦しげな顔をして、デマンドを取り逃がした失態を詫び、ワイズマンの魔手がとうとう彼にも及んだ事を語った。彼女も攻撃を受けたが、辛くも逃げおおせたのだと。
守ってくれると口先だけでも約束したサフィールはあのざまで、デマンドまでもがワイズマンの手に渡ったとなれば、もはや挽回の手段は無い、待つのは死あるのみだ。
「冗談ではないわ!こんなところで死んでたまるものですか」
カラベラスは二人分の命をしかと抱えながら、不安になる心を必死で奮い立たせた。
「ジャーマネン、お前はすぐにコーアンを探して、私のところに連れてきなさい。一緒に逃げるのよ」
主の言葉に、ジャーマネンは驚いた顔をした。コーアンたちはともかく、失敗した自分も連れて行ってくれるのか、と表情が物語っている。カラベラスは少し笑った。
「何を驚いているの、お前だって仲間よ。ずっと共に戦ってきたでしょう」
半分は、このドロイドはまだ使えるという計算高さによるものだったが、もう半分は心からの発言だった。ジャーマネンはひたすら恐縮しながら、肢体を素早くゲル状に変化させると姿を消した。それを見届けると、カラベラスは再び歩き出した。
地球の男たちに陵辱を受けたこの身体は、今でも連中への憎悪で渦巻いている。それでも子供は可愛かったから、復讐は後回しにしようと考えていたのだが、コーアンは先回りして、マーキュリーを輪姦した男たちともども、連中を始末してしまった。ジュピターの方は不明だが、今のセーラー戦士ならば、地球の人間であろうと平然と殺すかも知れない。
その地球にこれから脱出しようとしているのは、複雑な気持ちだった。補給物資を失った彼女たちが、セーラー戦士の陣地で戦闘を続けられるはずが無い。それを承知でサフィールは姉妹たちを逃がした。侵略どころか、敵に頭を下げて養ってもらえと言う。それが出来なければ潔く死ねと。
「悔しい……」
現在のカラベラスの心中を吐露したような声に、彼女はぎくりとして足を止めた。背後を振り返ると、やつれきった顔をしたコーアンが、亡霊のようにのっそりと立っていた。
コーアン同様霊感の強い彼女には、何が起こったのか見えていた。妹の中に、かつての主・ルベウスの気配を強く感じる。魂だけの存在が身近にいる誰かしらの肉体を乗っ取るには、相手の身体が著しく弱っているか、もしくは相手の合意が必要だ。困った事にコーアンはその両方を兼ね備えていた。
「悔しくは無いのですか、カラベラスお姉さま」
緩慢な足取りで、コーアンはルベウスの魂を宿したまま近づいてくる。疲労のせいかその目に光はなく、カラベラスに横抱きにされたペッツに、憎悪にも似た視線を注いでいる。妹の身に起きた異変に、彼女は焦りを覚えつつも、どうにか口を開いた。
「何を言っているの、コーアン……ちょうどよかった、私はお前を探していたの」
ジャーマネンと行き違いになったのは残念だが、あのドロイドが戻ってくれば移動時間も短縮される。カラベラスにはもう一つ、セーラー戦士たちにこの変身スティックを返すという重要な使命があった。敵の手を借りてでも生き延びる、そんな気概が今の彼女にはある。
「なぜ?」
目の下に隈を作ったコーアンの耳朶には、エスメロードのものと同じ漆黒のピアスが揺れていた。それが示す意味も判らずにカラベラスは告げた。
「なぜって、地球へ脱出するのよ。サフィール様が秘密裏にゲートを開いて下さったから、そこから一刻も早く」
計画が頓挫した時の段取りは、ペッツとカラベラスのみが伝えられていた。サフィールに性格の面で信用されていなかったコーアンは表情を変えず、冷たく言い放った。
「なんだ、あの方はやはりしくじったんですのね。大口を叩いておきながら、ワイズマンにあっさり嗅ぎつけられて」
違う、サフィールは最初から死ぬつもりだったのだ。カラベラスはそう確信していた。セーラー戦士の協力が得られようが得られまいが、恐らくは姉妹たちやエスメロードの命も、まとめてワイズマンに捧げる気だった。
部下たちやサフィールが殺されれば、さすがのデマンドもワイズマンに不審を抱くだろう。そのためにカラベラスたちは利用された。だからサフィールを完全には信用せず、いつでも寝返る事が出来るように準備はしていたし、邪黒水晶のピアスも破棄しなかった。
だが、サフィールは少しずつではあるが変化していた。彼自身気づいていないのかも知れないが、ペッツに向ける優しい眼差しは、これまでとは明らかに違う。姉を連れて逃げるように言われた時、カラベラスは怒りはしたが、本心では拍子抜けしていた。あの場で用済みと始末されなかったのは、彼が傷を負っていたから?果たして本当にそれだけだろうか。
『捨てるのではない、解放してやるんだ』
別れ際にペッツと交わした、あの熱のこもった口付け、辛そうな横顔は、本心からだったと思いたい。
「愚痴は後回しよ。手伝いなさい、私はこれから行くところがあるの」
感傷を振り切るように、カラベラスは頭を振った。サフィールの安否より、今は姉と妹を連れてここを脱出する方が先だ。
「お姉さまと子供をあなたに預けておくわ。そうそう、ゲートの場所は……」
この後、セーラー戦士の元に行く事を伝えなかったのは賢明だった。
コーアンはカラベラスの言葉を遮り、後ろに組んでいた手をすっと前に出した。その両手には、青紫色のダークパワーが凝結されている。
「コーアン?何のつもり?」
離れているのに、その熱気が確実に伝わってくる。照明のためではない、危害を加える目的があると判ってしまったから、カラベラスは後退した。
姉である自分に炎を向ける妹の意図が、まるで読めない。何か、怒らせただろうか。一緒に逃げようと誘っているだけなのに。ルベウスのことがあるから、むしろ感謝されていいはず。それに、今のコーアンはダルクファイヤーは使えないはずだ。サフィールが用意した、偽のピアスを着けているから……。
突然、視界いっぱいに青が映り、カラベラスは咄嗟に身を捩った。妹が放った炎が耳元を掠め、回廊の奥へと消えていくところだった。二人を抱えては思うように動けず、彼女はよろめいて壁に背中を打ち付ける。微細な震動で赤子が泣き出し、その泣き声でペッツが意識を取り戻した。
「……カラベラス?」
「お姉さま!よかった、起きてください、コーアンが……!」
この体勢では身動きが取れない。ペッツに赤子を抱いてもらい、二人一緒に床に下ろそうとしたその瞬間、カラベラスの背を再び衝撃が襲った。
「う、あああああああっ!!」
腕の力が緩み、二人を取り落としそうになる。幸いにも、それより先にペッツは赤子を守って着地し、数歩退いていた。そして目の前で繰り広げられている光景、即ち、コーアンが姉である自分たちを攻撃している現実を、受け止め切れていない様子だった。攻撃の殆どをまともに受けてしまったカラベラスも、また同じだ。
「な、にを、するの、コーアン……」
心臓が移動したかのように、背中が激しく脈打っている。炎の塊と共に投げつけられた邪黒水晶のピアスが、深々と突き刺さっていた。滴り落ちる血に青ざめて崩れ落ちるカラベラスをペッツが支えようとするも、赤子を抱いているため叶わない。
「悔しくはないのですか、お姉さま」
虚ろな目をしたまま、もう一度コーアンが繰り返した。耳元で揺れているピアスの妖しい輝きにカラベラスは気づく。あれはサフィールの拵えたイミテーションではなく、本物の邪黒水晶だ。そして、今自分の背中に刺さっているものが、偽物。
部屋にしまっておいたものを、コーアンが勝手に持ち出したのだ。外せと命じたにも拘らずそうしている事が、彼女の翻意と裏切りを意味していた。
「サフィール様に利用されて、襤褸きれのように捨てられて。悔しいとは思わないんですの?」
ルベウスとの交霊を図ったのは間違いだったかも知れない。今になってカラベラスは後悔していた。妹の執念を甘く見ていた。まさか、本当にルベウスと『一つ』になってしまうとは。
「お前こそ、血迷ったか。姉に手を上げるとは!」
痛みに動けないカラベラスに代わって、噛み付いたのはペッツだった。
「私もカラベラスも、過去を乗り越えて新たな道を切り開こうとしているのに、お前はいつまでも駄々っ子のような事を。恥を知れ!」
長女の一喝にも、コーアンは怯まない。それどころか、姉たちを馬鹿にするように目を眇める。
「新たな道ですって?ベルチェお姉さまを殺したセーラー戦士たちと手を組む事が?」
その声には激しい怒りが込められていた。ベルチェの名を出され、さすがにペッツが怯む。カラベラスとて忘れたわけではない。憎しみも完全に消えたわけではない、しかし。
「……コーアン、お前、何故知っている?」
カラベラスは変身スティックを隠した胸をそっと押さえた。刻印を焼き付けられたマーキュリーたちは、このままでは変身できない。刻印を消すには地球の男との交わりを必要とする。それを知ったセーラームーンが、恋人を仲間に売る。二人が結ばれなければ月の王国も誕生しない。それがサフィールの弁だった。
コーアンにはそれを伝えなかった。マーキュリーたちを再び変身させるつもりだと伝えたら、きっと激昂するだろうから。そのためにルベウスの霊を見せて部屋に足止めまでしておいたのに、彼女は計画を見抜いていたというのか。
「可哀想に、何も知らないんですのね。あたしはルベウス様にはっきりと聞いたんですのよ。あの刻印には、何の効力もないということ」
「な……」
カラベラスはうろたえ、一方霊感の低いペッツは鼻で笑った。
「ふざけたことを。死んだルベウス様と話したとでも言うのか?夢ならば、部屋で一人で見ているがいい」
その顔が凍りついたのは、次の瞬間だった。妹の口から、信じがたい言葉が飛び出してきたからだ。
『言ってくれるものだな、ペッツよ』
それは間違いなく、恐れ敬っていたかつての主、ルベウスのものだった。自信に溢れたその声を耳にしただけで、カラベラスもペッツも血の気が引いた。鈴の音を聞いた途端に涎を垂らす犬の如く、条件反射でその場に跪く。長年染み付いた習性は、そう容易に消えるものではない。
コーアンの中に息づくルベウスの魂は、縮こまっているペッツを可笑しそうに見下ろしながら、告げた。
『こいつに聞いたぞ。俺がいなくなった途端にサフィールに乗り換えるとは、見上げた根性だな』
「も、申し訳……ありません……」
ペッツの額には大量の汗が浮かんでいた。ルベウスらしくないと、かつて彼に恋していたカラベラスは思った。ペッツがサフィールを好きだった事は、彼も承知の上だったはずだ。嫉妬するほど、彼がペッツに思い入れていたとは考えられない。四姉妹は、ルベウスの性処理を兼ねた奴隷に過ぎなかった。
『プリンス・デマンドに忍従してきたサフィールが、何がきっかけかは判らんが反逆を企てた……お堅いあいつが、俺専用肉便器のお前に手を出したということは、恐らく奴は本気だろう』
相変わらず、言葉遣いの悪い男性だ。慇懃無礼なサフィールもどうかと思うが、肉体だけでなく精神的にもルベウスに奉仕してきたペッツに向かって、あんまりの言いようだった。
『サフィールは、お前ら姉妹とセーラー戦士の力を利用して、ワイズマンを退ける気だな?そのくらいのことは、俺にもわかる』
ルベウスの瞳が得意げに細められる。カラベラスは胸に手を当て、変身スティックを持っている事を悟られてはいけないと強く思った。
『なぁペッツ、あいつがそんなに良かったか?大きさは、色は、形は?俺と比べてどうだった?』
嬲るような詰問に、ペッツは耳まで赤くなり、気の毒なほどに萎縮していく。
「そ、それは……」
『聞こえんな。もっとでかい声で言え。今さら純情ぶるな、どうせ突かれてヒイヒイよがってたんだろうが』
「ルベウス様、あの……っ」
いたたまれなくなり、カラベラスは口を挟んだ。背中の激痛は呻きとなり、口をついて漏れそうになる。それでも、どうしても尋ねたい事があった。彼は、この世に未練を残すような男ではなかった。それが、コーアンの身体を借りてまで、何を告げに来たのだろう。
『おうカラベラス。お前には感謝してるぞ。マーズに言い残した事があったからな』
珍しく優しい言葉をかけられ、彼女は戸惑う。てっきり、勝手に呼び戻した事を叱責されるものだとばかり思っていた。
「言い残した事……?」
『俺の子供を育てろと。それと、たまには俺のことを思い出して苦しむように』
死してもなお、セーラーマーズを解放する気はないと見えるその台詞に、カラベラスは心からマーズに同情した。子供を使って、身体だけではなく心も支配しないと済まないらしい。
自分も犯されて孕んだ身だが、あの男たちが未だにカラベラスを「モノ」と考えているのだとしたら、八つ裂きにしても飽き足らない。そういう輩に限って、子供を育てられない母親を鬼のようだと責める。どちらが鬼なのか、深く考えずとも判りそうなものだ。
「まだ、セーラーマーズを苦しめるおつもりなのですか。子供を産ませたのですから、もう充分なのではありませんか?」
自然と責める口調になったのは、マーズの子供を案じての事だ。父親がどうあろうと子供に罪はない。
『なんだ、やきもちか?』
「あなたはマーズを愛しているわけではない。強い女を貶める事に、欲望を感じているだけです」
ルベウスの霊を呼び寄せた責任は自分にある。カラベラスは危険を承知で、挑発の言葉を口に乗せた。操られている妹が、正気を取り戻すように呼びかける。
「目を醒まして、コーアン。もうルベウス様に引きずられる必要はないのよ!」
彼女の声は、回廊に空しく響いて消えていくだけだった。ペッツが、背に刺さった邪黒水晶を引き抜いてくれる。しかし、流れ出る血液は止まらない。どうして気づかなかったのだろう。コーアンはずっと姉たちに嫉妬していた。その心をルベウスにつけ込まれたのだ。
『俺に意見する気か。お前らもサフィールに欺かれているとも知らずに』
コーアンは自らの肉体を捧げ、ルベウスと一つになる事を選んだ。やはり、ルベウス以外の男に従えと言うのは無理な話だった。妹の性格を把握できなかった己の甘さをカラベラスは悔いた。そして、背後で固まっている姉に向かって声を投げた。
「お姉さま……まだダルクサンダーは打てそう?」
赤子を抱えているペッツも、敵の攻撃で既に傷だらけだった。カラベラスは知らなかったが、ワイズマンたちと一戦交えた際に一撃を放っており、これ以上は限界だった。力なく首を横に振る、その耳にはパワー増幅のピアスはない。サフィールへの服従を証明するためだけに、彼はペッツたちにピアスを外させた。そのせいで、いざ自分の身に危険が降りかかった際に反撃も出来ない。
『そら見たことか。俺は少なくとも、お前たちに戦うための力は残しておいてやった。それが今のざまは何だ、やられっぱなしで、殺されるのを待つだけの地球の女と変わらんじゃないか』
ルベウスが嘲笑う声に、赤子の鳴き声がますます大きくなる。うるさいだけのはずのその声を心地よく感じるのは、母親ならではの感情だった。本来の目的を思い出し、カラベラスは鞭を取り出すときつく握り締めた。
「失礼ながら……申し上げますわ」
陵辱の後、彼女は戦う意欲を失い、ルベウスの折檻を受けながらこのまま死んでもいいとさえ思っていた。しかし身体の中に命が宿ったと知り、その命を生み出す許可を彼から得た時、何があっても子供を守る、そのために自分はこれから生きていくと誓ったのだ。
「私たちはもう、あなたとは違います。大切なものを守るための戦いを覚えました」
子供を拒絶し続けるマーズに対して、憤りや優越感があったのは事実だった。陵辱を乗り越えて子を産んだ自分は、女としてマーズより数段優れている、と信じ込んでいた。加えて、セーラー戦士たちに女の幸せを与えてやらずに、自分だけの部下として囲っているプリンセス・セレニティの存在が許せなかった。本人は結婚して子を成しているのに、四守護神には戦士だからというわけの判らぬ理由で、恋人すら作らせない。
何が平等だ、不老長寿だ、そんなものはまやかしだ、とサフィールは告げた。人の心の闇から目を背けてそ知らぬ顔をしているあの魔女に傷をつけてやりたい、そして魔女に捕らわれた兄の目を醒まさせてやりたい。
彼の思想には大いに共感するところがあった。姉のことや保身だけではない、意見が合ったからこそ手を組んだのだ。セレニティを潰して月の王国の誕生を阻止すれば、四守護神も任務から解放され、ペッツもカラベラスも戦う理由がなくなり、自由に生きられる権利を手に入れると思っていた。
だが、知らないうちに、カラベラスも洗脳されていたらしい。サフィールに言われるままピアスを外してしまったのは確かに失敗だった。背中の痛みもあって、彼に対する不審がますます芽生えてくる。造反を警戒して武器を取り上げるやり方は、一時的に力は奪えても、心までは決して奪えない。
邪黒水晶は身体に負担がかかる、それは事実だ。しかしその理屈ならば真っ先に外すべきは大事な御身であるプリンス・デマンドであり、彼よりも先に姉妹たちの身体を気遣うのも妙な話だ。姉妹は子供ではない。自分の体調くらいは管理できるし、案じられるまでもなく限界がきたら手放すことも出来る。それに攻撃の手段を残しておけば、サフィールの役に立つこともある。
半ば強制的にピアスを奪ったのは、何のかんのと理由をつけても、要はサフィールのお気に召さなかっただけだろう。その根底には強い差別意識がある。
喫煙行為に喩えれば判りやすい。身体への悪影響云々よりも女が吸っていること自体が嫌だという、男性特有の感情論だ。邪黒水晶には副作用に勝る攻撃力があるというのに、サフィールは作戦上の利点よりも己のポリシーを優先させた。
『守る以前に戦えなくなっては意味がないな。あいつは所詮、お前らを支配できる器じゃなかったんだ』
ペッツが何か反論しようとしたが、それより速くカラベラスが告げた。
「いえ、あなたもサフィール様と同じです。私はもう、男には決して従わない。自分の頭で考え、自分の思うように動くのです」
セーラー戦士にスティックを渡し、彼女たちの協力を得るまではいい。そこから先は、カラベラス自身が決める。サフィールに庇護されていた時の、赤子との静かな生活は、カラベラスの心に確かに安寧をもたらした。けれど、人はいつか裏切る。いつまでも他者に人生を預けておくことはできない。
戦う力を手放すなど、なんと愚かなことをしたのだろう。出産後も闘志を捨てなかったマーズのように、母であることと戦士であることは両立するのに。守ってやるなどという男の甘言に惑わされて、子供の命を危険に晒しては本末転倒だ。
『ふざけるな、誰も貴様らの自立など望んでいない!ただ、俺たちの言う通りに動いていればいいんだ!』
ルベウスは激昂したが、カラベラスは意に介さない。背後で泣いている赤子の健気な声が、母である彼女に力を与えてくれる。怖いけれど、守るべきもののために勇気を出せば、邪黒水晶などなくとも、こうしてルベウスに意見する事が出来る。強さは他人から与えられるものではない、自分の心から生まれるものだ。セーラームーンが強いのは銀水晶の力ではない、仲間を信じ、慈しみ、時には己を犠牲にしても正義を貫く、気高い心。それがプリンス・デマンドには欠けている。
「思想の制限、自由意志の剥奪……ですか?それではまるで、あなた方が嫌うセレニティの治世と同じではありませんか」
ペッツがかすかに息を呑んだのが判った。彼女もまた、デマンドやサフィールたちの歪みに気づいてはいたが、恋ゆえに盲目であった。それが、命を賭して赤子を守ろうとしている妹の姿に打たれ、従順であることの意味について考え始めていた。
「私たちが四守護神を痛めつけたのは、彼女らが悪しき思想に取り付かれた、セレニティの操り人形だと思っていたからです。何も考えず、言われるがままに姫君を守り続けるでくの坊。そんな人形に人格も人権もない。だからドロイドや男たちに襲わせても、まるで心は痛まなかった」
セーラーヴィーナスをステージ上で陵辱したことが、昨日の事のように思い出される。ペッツもまた自らの行いを悔いていることが、表情から見て取れた。
「しかし、彼女たちには心がありました。口を閉ざす者、友人を妬み自己嫌悪する者、復讐に燃える者、変わらぬ日常を送る者……苦悩は、思想は、それぞれ違った。あなた方が『女』と一括りにするセーラー戦士の人格は、誰一人として同じではなかった!」
文字通り血を吐くようなカラベラスの訴えは、ペッツを開眼させ、ルベウスの眉を不快に顰めさせた。
「私たちの言論を規制しているのは、デマンド様たちではありませんか!女が自由に力を持ち、発言することすら許されないなんて。四守護神は少なくともセレニティに反抗する機会を与えられ、力を奪われながらも自ら主の元へ戻ろうとしている。それに比べて、今の私たちは何なのです!?」
『……セーラー戦士どもの肩を持つ気か』
「そう思って下さっても結構。私はただ、ずっと騙されていた事実が許せないだけです。刻印のことも───」
サフィールを信じきっているペッツの心中を思い、カラベラスは瞼を伏せる。仲間割れを防ぐための刻印だ、同族殺しは出来ない。四姉妹たちはルベウスやサフィールにそう伝えられていた。それも全て嘘だった、とコーアンは告げた。
「本当なのですか、ルベウス様。それではセーラー戦士たちは、男の肉体を必要とせずとも元に戻れると?」
今すぐにでも、彼女たちの元へ駆けつけなければ。逸る心を、ルベウスに嗅ぎつけられる。
『よもや、それを連中に教える気ではないだろうな。サフィールへの……いや、ブラック・ムーン一族に対する裏切りだぞ』
四守護神とタキシード仮面との交わりは、セレニティと地球の王子との恋が破局を迎えるための布石だった。二人が結ばれなければ四守護神の役目も終わり無駄な血も流さずに済む、サフィールらしい比較的穏和な手段ではある。
その作戦を否定すれば、また新たな戦いが始まる。力を取り戻したセーラー戦士は、姉妹たちに相応の殺意を向けるだろう。それでも今のカラベラスは、彼女たちに賭けてみたい気持ちがあった。
「私は、子供が健やかに育つ環境が用意された道を選びますわ」
『己を辱めた男の子供など、よくも育てる気になったものだ』
ルベウスはカラベラスの母性を、肯定も否定もしなかった。産むことを許可したのは他ならぬ彼であるが、それは赤子を案じての事ではない。女が苦しむ姿を間近で見るのが目的だった。
赤子を虐待でもすれば残酷な女だと罵り、赤子と幸せそうにしていれば、犯されたのではなく合意だったのではないかと中傷する。男の身勝手さもここに極まれりといったルベウスの態度に、カラベラスは失望を隠しきれなかった。
昔の彼は、傲慢は傲慢なりに筋が通っていた。粗野で横暴な振る舞いも、男らしいという都合のいい言葉に変換されていた。異変が生じたのはマーズを犯してからだ。子供が出来て気が大きくなっているのか、己が死んだ後の世界などどうでもいいと言わんばかりの言動は目に余る。刻印の秘密を明かしてしまった事はもちろん、コーアンに取り憑いてまでマーズの元に行って、今更何を言おうというのか。
「マーズに子を産んでもらったルベウス様が、そのようにおっしゃるのはおかしいですわね」
カラベラスの皮肉に、男は肩を竦めた。
『そりゃあ、あの女が俺を愛しているからさ。お前は違うだろうに、平然と産んだ』
それは誤解です。そう言ってやりたかったが、さすがにそこまで命知らずではない。嫌いな男の子供なら産むはずがないという、男の極めて単純な思考回路には呆れる他なかった。
「子供を愛すか憎むか、その二択しかないのですか?女は聖母でも魔女でもありません。あなた方と同じ人間なのです。なぜそれがわかりませんの」
男は母親という生き物に完璧を求めすぎる。子供を無条件に愛さなければ母とは呼べないのだろうか。憎みつつも産み、疎ましく思いながらも育てる親がいてもいいではないか。
カラベラスが出産に踏み切ったのは、母性本能からだけではない。己の体が大事だったことと、任務失敗の咎を逃れるためだ。子供を盾にして危険から逃れようとしている自覚もある。
しかし、それが結果的には子供のためになる。まず母親自身が幸福になることが必要なのだ。それなのに男は、女が女の力だけで幸せになることを認めない。セーラーマーズに対する執着も、そういうことだ。犯しただけでは飽き足らず、その後楽しそうに子育てをするのが気に入らない、育児に苦しみ喘いでいる姿を見て安心したいという心理は、動物の雄としても明らかに異常である。
「コーアンの気持ちはどうなるのです。そんなになってまでもあなたを慕っているコーアンは」
『もちろん、必要だとも』
女の体では何かと不便だろうに、ルベウスは彼女の体から抜け出そうとはしない。ひとつの体にふたつの魂が宿っていては、その肉体も長くは保たない。
道連れにする気だ、とカラベラスは悟った。姉妹たちへのあてつけか、単に一人で逝くのが寂しくなったのか。
『サフィールに尻尾を振る売女に用はない。俺を裏切らなかったこいつとマーズだけは、地獄まで連れて行く』
「それは、どういう……!」
問いかける声を遮り、コーアンはもう一度ダルクファイヤーを放った。炎を寸前で交わしたカラベラスの耳に、妹の狂気じみた声が入ってくる。
『マーズを殺してもいいんですのね!?』
語尾を弾ませながらコーアンは言い、それきり姉たちに興味を失くしたかのように背を向ける。
「待ちなさい、コーアン……!」
カラベラスは立ち去ろうとしている妹の背中に向かって叫んだ。それでも、妹の足は止まらない。ふらつきながらも、全身から陽炎のように殺意を迸らせ、セーラーマーズの元へ向かおうとしている。
『………してやる……マーズ……』
末の妹は、マーズとその子供の死を強く望んでいた。そしてルベウスの口から、あの刻印に防御の効果がないと知り、その殺意を今度こそ確実に実行に移そうとしている。
しかしあれは、そう簡単に殺されるような女ではない。カラベラスには判っていた。犯され、孕まされても決して屈服せず、炎のような瞳からは、いつまでもルベウスに対する憎悪が消えなかった。
今までは、そんな彼女に反感を抱いていた。いくら不本意な妊娠だったとは言え、産んだ子供に愛情を抱けないとは何事か。そんな憤りを勝手に抱き、女として「勝った」とすら思っていた。
それは大きな間違いだった。自分の方こそ、良い母親の顔をしていたいばかりに、知らず知らずのうちに男に洗脳されていたことに気づけないとは。
セレニティを守る戦士で在り続けるために、我が子を捨てる。唯一の存在のためだけに尽くしたいと思う気持ちを「女らしさ」と呼ぶのなら、マーズの生き方もあれはあれで正しい。多様な価値観、多様な生き方を認めないルベウスたちの思想こそが、過ちだったのだ。
カラベラスとて、子供が男と知った時、最初に胸に浮かんだのは痛みと憎しみの記憶だった。今は無力な赤子だから、まだ無条件に愛情を注いでいられる。しかしこの先子供が成長し、自我を持ち、反抗期を迎えて、カラベラスにとって都合のいい生き物でなくなったその時は?
「……コーアン……」
止めようとしていた声が、次第に小さくなる。歪んだ形ではあっても、ルベウスへの愛に殉じようとしている妹を止めるのは、己の傲慢でしかないと気づいたからだ。
姉妹であっても、考えは違う。いや、違ってしまったのだ。セーラー戦士各々の個性に触れ、人とは本来そうあるべきだと気づかされた。銀水晶で洗脳されているなど、とんでもない出任せだった。彼女たちは立派な一人の女性として生きており、セレニティもそれを認めている。それに比べて、自分たちは。上に言われるままに動いていた人形だったのは、四姉妹たちの方だった。
コーアンの姿は、回廊の角を曲がって消えた。ペッツが、追わなくていいのか、と言いたげに、カラベラスの顔色を伺う。彼女は力なく笑い、静かに首を横に振った。
「私たちはもう、同じ道を進む事は出来ないのですわ……お姉さま」
二人の姉はコーアンを見くびっていた。姉が導いてやらねば何も出来ない、知恵が足りない暴走しがちな末っ子だと侮っていた。その報いがカラベラスの背中の痛みであり、今の自分たちの現状だ。
既にコーアンは姉たちの手を必要としていない。ここから先は、死ぬも生きるも彼女一人で決める事だ。喩えもう二度と会えることがなくとも。姉に炎を向けた時点で、コーアンはきっと自分の運命を自覚していた。
「私は、ルベウス様の言ったことを信じます。刻印の件、私たちはまんまと騙されていたのだと。……でも、お姉さまはまだ、サフィール様を信じていらっしゃるでしょう」
カラベラスの指摘に、ペッツは恥じ入ったように俯く。普段のカラベラスなら姉の無責任を詰っていただろうが、今は違う。恋に溺れるペッツを、優しい目で見られるようになった。
「責めるつもりはありませんわ。好きな男にどこまでもついていく、それもまた一つの道でしょう。私は、コーアンやお姉さまとは違う。ですからここでお別れですわ」
その言葉に姉は顔を上げた。険のある顔立ちが、サフィールといる時だけは和らぎ、優しい表情へと変わっている。その幸せを、自分が壊すわけにはいかない。
「サフィール様にはもう従いません。私は私のやり方で、セーラー戦士とコンタクトを取ります」
セーラーヴィーナスの顔が鮮明に思い浮かんだ。四守護神の中で唯一、処女を散らされていない幸運な───いや、幸運だと「思い込まされていた」少女の姿が。
ペッツの暴行を受け、気を失って運び込まれた彼女を最初に手厚く介抱したのは、どこの誰だったのか考えてみる。サフィールの言う事は、頭から疑ってかかるくらいの方が良い。
「待て!では、この子はどうするのだ!?」
腕の中で泣く柔らかい生き物を見て、泣きそうになりながらペッツは叫ぶ。一族を裏切ってセーラー戦士につくことは、子供をも危険に晒す意味を持つ。だから、カラベラスの腹は既に決まっていた。
「いくらサフィール様でも、子供までも殺そうとはなさらないでしょう」
「カラベラス!!」
「私は気づいたのです。ずっと傍にいる事だけが、母の愛ではない。この子が出生を知って、母親を憎む前に……私は消えるのがいい。美しい思い出として」
連れて逃げても、子供に幸せな運命は訪れない。洗脳が解けた今、カラベラスはマーズの考えが理解できるようになってしまった。信じられるのは自分だけだ。これからは子供のことは考えず、思う通りに生きていく。
セーラーマーズが母性より使命を優先させたように、カラベラスも子供と共倒れする事よりも、ネメシスの未来や己の将来を選んだ。
こぽ、と足元の床が泡立つ。床に広がった赤い液体が霜柱のように立ち上がり、負傷したカラベラスを守るように包み込んだ。
「来てくれたのね、ジャーマネン。話は聞いていた?」
ジャーマネンが包んでいるのはカラベラスのみであるから、それは愚問であった。守るべき存在と切り捨てる存在、それを瞬時に読み取り、ドロイドは行動に移す。
ペッツは、まだ呆然としながら妹を見つめている。己の庇護下にあったはずの可愛い妹たちの裏切りに、思考が追いつかない様子だ。
「……コーアンのみならず、お前まで気が触れたか」
違う、正常に戻ったのだ。長い悪夢から醒め、カラベラスの表情は晴れやかだった。妹にやられた傷すら誇らしく思える。鞭を操る戦士として、自分にはまだやるべき事が残されている。
「サフィール様に、何と申し開きすれば……」
何故だろう。この期に及んでも星の未来より男に媚びる事しか考えていない姉を、今は愛しいとすら思えるようになったのは。他人の価値観を頭ごなしに否定する事がなくなったのは、きっとセーラー戦士のおかげだ。どんなに辛い道が待っていようと、自分で選んだ事だから、胸を張って生きて逝ける。そう、もっと自由に生きていいのだと、彼女たちに教えられた。
マーズは強いし、ペッツも正しい。コーアンも間違ってはいない。ベルチェは戦士として散った。それで良いではないか。
「お別れですわ、お姉さま。サフィール様のご無事をお祈りしています」
瞼を伏せ、決別の言葉を告げる。今生の別れかも知れないのに、不思議と穏やかな気持ちだった。あれほど拘っていた我が子との触れ合いも、ただの依存だったのだと思える。子供の安全を確保する事が、カラベラスの母としての最後の仕事だった。後ろ髪を引かれる思いで、と言いたい所だが、髪をアップにしている彼女にはあまり適切な表現ではない。
肌に触れる空気が一変する。再び瞼を開いた時、目の前に姉の姿はなく、ただ視界いっぱいにジャーマネンの赤だけがあった。ワイン色の美しい粘液が背中を這い、痛みを緩和してくれている間、カラベラスは自嘲気味に囁く。
「ふふ……結局、お前まで巻き込むことになってしまったわ」
ブラック・ムーン一族に歯向かった以上、死は覚悟している。そしてこのドロイドの力は、最後まで必要だった。
「一緒に逃げるって約束、なしにしてちょうだいね」
モノとしか扱わなかったドロイドに対してこのように詫びるのは、初めてだった。主人らしい事など何一つしてやれなかったが、一緒に死ぬのも悪くはない。
ジャーマネンは返事をしなかった。代わりに、伸ばした触手の一つを使って、カラベラスの痩せた頬をさわさわと撫でた。
───最後まで、ご一緒です。そう聞こえたような気がした。




愛野美奈子ことセーラーヴィーナスは、困惑した表情でカラベラスを見つめていた。
傷だらけの身体で、突然目の前に現れた、あやかしの四姉妹の次女。子供を産んでからマーズに対して親身になっていたという彼女に、害意があるとは思えない。
しかし、美奈子の足首は彼女の鞭によってしっかりと固定されており、逃れる事は出来そうになかった。話がしたいだけなら、どうしてこんな乱暴な真似をするのか。セーラームーンやタキシード仮面と引き離す必要があるのか……。
「カラベラス、離して」
足首の痛みに顔を顰めながら、ようやく美奈子はそれだけ言った。ヴィーナスの名に恥じぬ細く白い足の先には無骨な鞭が、そしてそれを辿っていくとカラベラスの血塗れの手に行き着く。
いつも大事に抱いている子供の姿が、今はない。何があったのか、同じ女として気になりはした。時間がないのだから手短に説明して欲しい。
「何か事情があるのね?だったら、逃げたりしないわ。だから離して」
傷を負って逃げてきた様子のカラベラスに対して、銀水晶のヒーリングを受けた美奈子は元の健康的な姿を取り戻していた。床に広がる豊かなブロンドの髪は、赤いリボンこそ紛失してしまったが、以前と変わらず蜜色に輝いている。それを目の当たりにして、カラベラスはどこか不吉な笑みを浮かべた。
「無いな」
そう呟くカラベラスの視線は、捕らえた美奈子の足に注がれていた。言葉の意味が判らず美奈子は戸惑うばかりだ。
ぐい、と再び鞭が引き絞られ、彼女の足首は宙吊りにされる。ドレスを纏ってはいるものの、下着は履いていない。自然と開脚してしまう際、足の間に涼しい風が当たる。ステージ上で辱めを受けた嫌な記憶を思い出し、身体が強張る。カラベラスはそんな彼女の内心を知ってか知らずか、その足の裏をしげしげと眺める。
「……もしや、目立たぬ場所に焼き付けられているかと思ったのだが。やはり、お前の身体に刻印は無い」
転倒させたのは、それを確認するためだったらしい。不躾なやり方に、美奈子はむっとした顔をする。
「誰がそんなことをするってのよ。っていうか、今更確かめてどうするの?」
セーラー戦士の中で美奈子だけが性的陵辱を受けていない事実は、彼女の心に暗い影を落としていた。敵の女にまでそれを指摘され、詰られているような気がして、無性に苛立つ。
カラベラスも人間に犯され、子供を産んだのだから、美奈子を恨んでいるのかも知れない。だからと言って無闇に責めを受けるのは心外だった。
しかし、敵の言いたいことはそれとは別にあったようだった。鞭をほどき、美奈子の足首を解放する。力を失った足が床に落ち、ドレスの裾がひらりと舞った。
「セーラーヴィーナス、私はもう、自分しか信じない。この目で直接確かめたことしか、信用しないことにしたの」
カラベラスの表情は以前とは違っていた。母性に酔っている風でも、美奈子を詰る様子でもない。憑き物が落ちたように吹っ切れた、明晰な顔をしている。
再会した時の亜美と同じだ。苦しみもがいて自分なりに結論を出した人間独特の、迷いのない顔だった。離れていた友が辛い経験を積み、大人びた様子で現れた時、美奈子はまるで、自分だけが置いていかれたような心細い錯覚に陥ったものだ。
「何を言っているのか判らないわ。あたし、早くみんなのところに行かないと。このままだとセーラームーンとタキシード仮面の関係が危ないのよ」
仲間の変身スティックを返してくれたカラベラスが、味方であることは間違いない。だから美奈子は正直に、焦る気持ちを伝えた。
セーラームーンは仲間たちを元に戻すために、タキシード仮面の身体を捧げようとしていた。他に方法が無いとは言え、強姦によって男性に対する恐怖を植え付けられたあの三人が、はいそうですかと従うはずがない。
そして現在、何事も無くセーラーヴィーナスに戻れるのは、処女である上に刻印を焼き付けられていない美奈子しかいないのだ。最悪の場合、生身のレイたちを守りながらセーラムーンと二人だけで戦う覚悟もしていた。
「戦える身体なのは、あたしとセーラームーンだけなんだから。急いで戻って……」
「連中なら心配ない。あのスティックさえあれば、すぐにでも変身できる」
皮肉げなカラベラスの言葉に、美奈子は意表を突かれ、青い目を驚きに瞬かせる。
「え、だって刻印が……」
月野うさぎに焼き付けられた額の刻印が、タキシード仮面との交わりによって消滅したのを、彼女は目の前で見ている。だから、再変身には地球の男との交わりが不可欠であるという虚言をすんなり信じた。
「一族の証である『闇の刻印』を操る資格を持つのは、デマンド様だけだ。私たちのような下っ端には、そのような力は無い。……もっとも、私とてつい先刻それを知ったのだけど」
「何ですって!?」
「私たちはずっと、デマンド様たちに欺かれていたわけだ。これで理解してもらえるか?私が、もう自分しか信じないと告げた理由を」
淡々とした口調の奥に、激しい憤りが隠されている。誠心誠意尽くしてきた相手にまるで信用されていなかった屈辱を、カラベラスは噛み締めているようだった。
一方美奈子は、セーラームーンと二人だけで戦わなければならないという不安が一掃され、ようやく笑顔を浮かべる。
「それが本当なら、すぐに知らせないと!きっと亜美ちゃんたちも喜ぶわ!」
敵の言う事を疑おうともしない美奈子に、カラベラスは呆れたような視線を落とす。
「……まあ、待ちなさい。礼を言うのはまだ早いと、先程も言ったでしょう」
姉のような口ぶりが、どうにも奇妙な感じだった。カラベラスは美奈子よりは年上であろうから、そんな口の利き方をされても間違いではないのだが。かつて憎しみあったはずの敵が、なぜこんな諭すように、訳ありげな表情で見下ろしてくるのか。
「そこで、一つ聞きたい。セーラーヴィーナス、お前は本当に処女なの?」
一瞬、頭の中が空白になった。
ドレスの裾を直そうともせず、美奈子は呆けたように、カラベラスの質問が飛び出してきた口元を見つめる。無防備に投げ出された少女の太腿に、床の冷たさが今頃になって染みてくる。
処女かどうかなど、率直に人に聞かれるのは初めてだ。闇の一族だけあって、羞恥が薄いのかも知れない。いやそもそも、仲間たちの処女を奪った敵が、どの口でそれを……?
様々な感情が頭に浮かび、すぐには反応が返せないでいる美奈子に、カラベラスはふうっと息を吐いた。
「思い出すがいい、お前がペッツお姉さまに暴行を受け、ここに運び込まれた経緯を。お前は気を失って、無防備だったな」
彼女が何を言いたいのか、美奈子には全く判らない。それでも、一応記憶を辿ってみる。ヴィーナスの戦闘データは既に敵に渡っているであろうから、昔慣らしたセーラーVの姿に変身して、ペッツと戦った。そして力及ばず、敵の陣地に潜り込むために敢えて凹られた記憶。
「その際に何をされていてもおかしくはない」
「ちょっと待ってよ!」
思わず声を上げてしまう。
「デマンドはうさぎちゃんにしか興味ないでしょ!?誰が、あたしに、そんな」
カラベラスの目は深い同情に満ちていた。それを見て、美奈子は絶句する。考えたくも無い可能性が、頭に浮かんでしまう。
意識が戻った時、目の前にいたのは蒼のサフィールだった。兄さん命の、あのお堅い青年だ。
「……サフィールが……?」
「判らない。ただ、傷ついたお前の身柄を預かると言い出したのはあの方だ、とだけは言っておこう」
その発言からして、カラベラスは明らかに彼を疑っている。気の毒とでも言いたげに美奈子を見下ろしてくるのが、妙に気に障った。
「あなた、今はサフィールに従っているんじゃなかったの?」
上司に邪な疑いをかけ、敵に哀れを抱くなど考えられない事だ。事情が変わったのだ、とカラベラスはそっけなく応える。
美奈子は太腿の上に置いた手をぎゅっと握った。目の前に無防備な敵、それも美少女が横たわっていれば襲い掛かるのは男なら普通だろうが、あの彼に限ってそれはないと思いたい。正直、美奈子の手を振り払いペッツを選んだ彼に腹が立ちはしたものの、同時に尊敬もしていたのだ。敵とは言え、貞操観念が強い男は敬意に値する。それなのに、裏切られたと思いたくはない。
「……身体は、何ともないわ。いくらあたしが鈍ちんでも、やられてたらさすがに、感触で気づくわよ」
声に力が入らないのは、確証がなかったからだ。処女喪失がどのくらい痛いのかは個人差があるようだし、経験もないのだから断言は出来ない。ましてや、ペッツの暴力で体のあちこちが傷だらけの状態では、破瓜の痛みなどかすんでしまっていたのかも知れず、それが彼の狙いだったとしたら。
傷ついた美奈子の身体を拭き、血で汚れたタオルを絞ってくれていたサフィール。あの時、水を濁していた鮮血の正体は、もしや外傷によるものではなく……。
───君だけは、処女のまま残しておく。
そうすることで美奈子は仲間たちから孤立する、と彼は言った。仲間や美奈子がそう思っていることが重要なのであって、必ずしも本当に処女である必要はない。ここは敵の城で、若い娘が陵辱を免れる方が不思議だ。
内心はどうあれ、美奈子の貞操が無事である事を、うさぎたちは喜んでくれた。それが、皆が元通りに変身できるようになった今になって、実は処女ではありませんでした、気を失っている間にまんまと散らされていました、となれば?
サフィールの冷酷な一面を思い出し、美奈子の背筋はすっと冷えた。誘惑に乗らなかったのは、処女を秘密裏に奪った事への後ろめたさか。
「そ、んな……無いわ。あの人に限って、そんな、ことは無いわ!」
金色の髪を左右に振って、美奈子は否定した。マーズがルベウスに抱いたような嫌悪の感情を、サフィールに対して抱きたくは無い。敵にも品格のある人物がいたのだと思いたい。切ない思い出のまま、取って置きたい。
(軽蔑させないで。あたしは、男の人が大好き。出来れば仲良くなりたい。だから男の人を軽蔑させないで!!)
サフィールを嫌いになりたくはなかった。亜美のためにも、ペッツのためにも、彼はそこまで卑怯な青年ではないと信じたかった。
そんな美奈子の目前に、カラベラスは無情な現実を突きつける。硬い音と共に床に落ちたオレンジ色のスティックが、あの日と変わらぬ姿でそこにあった。
「お前のポケットに入っていた。それと、このコンパクトもそうか」
もう一つ目の前に差し出されたのは、充電済みの三日月コンパクトだった。セーラーVに変身する際は、こちらを使う。
「あ………」
これを渡してくれるという事は、カラベラスは本当にセーラー戦士の味方になってくれる気なのだ。彼女への疑念は、既に晴れていた。
敵を倒せる、仲間を助けられる、地球に帰れる。そう知っていながら、美奈子は手を出さなかった。喉から手が出るほど求めていたアイテムが戻ってきたというのに、触れるのが怖い。
カラベラスは、美奈子が受け取るのをじっと待っている。彼女が乱暴な手段を使ってまでセーラームーンたちから引き離してくれた理由が、今なら判る。出来れば、一生判りたくはなかったが。
───もし、変身できなかったら。
仲間たちの前で、大恥をかくのは美奈子だ。意気揚々とスティックを振り上げ変身の呪文を唱えて、何も変化が起きなければ、顔から火が出るどころの騒ぎではない。
「あ、たし………」
恐る恐る差し出した指を、すんでのところで引っ込めてしまう。
怖い。カラベラスの懸念が現実であることを、認めてしまうのが怖い。純潔を奪われても変身できたマーキュリーたちは、心を強く持っていたからそれが可能だった。
しかし今の美奈子は、自信がない。銀水晶で真っ先に癒してもらったのに、それとはまるで関係が無く、変身できる気がしない。信じていたものに裏切られ、体中からエナジーが抜けていくような感覚は、これまでにないものだ。もう、イヤだ。自分だけが孤立するのは。仲間たちにこれ以上責められるのが怖い。ずっとここで蹲っていたい。
逃避と言う名の闇に沈んでいく美奈子の手を、カラベラスが強く掴んだ。床に落ちた変身スティックを、無理に握らせる。血に染まった彼女の指を見て、否応なしに現実に引き戻される。
「逃げるな、セーラーヴィーナス。これはお前の試練だ」
その瞳は真剣だった。妹のベルチェを消し、大事なドロイドをも浄化したセーラームーン側につくことを決めた彼女の葛藤が、痛いほど伝わってくる。犯されても子を産み戦いを捨てなかった、カラベラスもマーズと同じ立派な戦士だ。
(何をしていたの、あたしは?今まで何を安穏としていたの?)
今度は、自分で自分を責める。その方がずっと楽だった。友人の冷たい目。怖い、怖い、怖い、想像しただけで、ここから一歩も動けない。
戦士としてのキャリアは、美奈子が一番長いのに。孤独に戦ってきたぶん、ようやく得た安住の地に甘んじて、仲間たちの成長に追いつけなかった。それを認めてしまうのは、自我が崩壊しそうで怖い。
しかし逃げてはいられないのだ。乗り越えなければ。セーラームーンを守るために、己の過ちを認めて一歩先へ進む。敵の女すらできている事が、自分に出来ないとは言えない。
カラベラスの手からもぎ取るように、美奈子はスティックを奪い、天井に向かって震える声で叫んだ。
「ヴィーナス、スターパワー。メイクアップ!」
凛とした声が、その場に響いた。ドレス姿のまま仁王立ちになって、美奈子は奥歯を噛み締める。スティックから星のリボンが噴き出すことはなかった。
鞭を収め、壁に寄りかかって、カラベラスは何も言わない。セーラームーンが成長するほど影を潜めていく金星の戦士の横顔を、黙って見守っている。
その沈黙がいたたまれず、美奈子はもう一度、力の限りに叫んだ。
「ヴィーナススターパワー、メイクアップっ!!」
声に涙が滲む。スティックを握っていた手から力が抜け、再び床に落ちても、美奈子は手を高々と天井に上げたままだった。
「ヴィーナススターパワー、メイクアップ!!ヴィーナススターパワー、メイクアップっ!!ヴィーナススターパワー、メイクアップっ!!」
白い頬に、涙が次々と零れて、顎を伝っていく。詠唱のため大きく開いた口の中に、苦い塩水の粒が入った。
どれほど叫んでも、力が戻ってこない。心が強くあれば、変身できると思っていた。強さとは、何だろう。陵辱に負けない事?負けないとは、何を意味するのだろう。男に復讐する事か?子供を産む事か?全てを忘れ、壊れてしまう事か。
答えを教えてくれそうな、マーキュリーやマーズやジュピターはこの場にいない。カラベラスに指摘されるまで、美奈子は何もわかっていない子供だった。
かつては笑顔を向けてくれていた友たちの、幻聴が聞こえる。
『あたしたちが陵辱に苦しんでいる間、美奈ちゃんは男と遊んでたんでしょう?』
『敵から情報を引き出すために?……それで、何か勝てる手段でも掴んだの?役立たず』
『いい人そうだったから、騙されて?今頃になって、変身できないって何。そんな言い訳が通ると思ってるの!』
『あなたって』
『本当に』
『リーダー失格ね!!』
「う、あ……あ、あああ……」
四守護神を名乗る資格がない。あの三人にもう合わせる顔がない。変身できないリーダーなど、必要ない。絶望に、膝ががくがくと震える。己の浅はかさが痛く、その痛みに立っていられず、美奈子は冷たい床に膝小僧をつけた。
心が悲鳴を上げている。今の彼女には、八つ当たりや、憎むべき相手すらいなかった。自分が悪かったのだと認めることが、陵辱以上の苦痛を伴い、少女の繊細な胸を上へ下へと締め付けた。
行き場を失った元・セーラー戦士の姿に、カラベラスはかける言葉も無く、黙って背中を向けた。下手な慰めや詫びの言葉をかけようとしない彼女は誠実だ。その後ろ姿は、過去の行いを深く悔い、償うために死に場所を探している人間のそれだった。
(どうしたらいいの、あたし、何をしたらいいの)
死を覚悟して一族を裏切ったカラベラスに、追いすがる事も美奈子には出来ない。もう一つ残された三日月コンパクトに、手を伸ばす気にもなれない。
能天気な少女をこの道に引きずり込んだ、白い猫の残像がよぎる。今のこの姿を、彼にだけは見せたくなかった。それでいて、彼に救って欲しいと虫のいいことを願う。
(アルテミス、アルテミス、助けて………)
答える声はなく、少女の心は闇に沈んでいく。あの青年に中身がないと言われたことが、今になってまた堪えてくる。よかれと思うこと全てが裏目に出て、拠り所としていたものが悉く否定される。これが試練だというのなら、セーラー戦士になど、なるべきではなかった。



コーアンの身体は、紅蓮の炎に包まれていた。その中で意識を押さえつけられ、苦しみもがくルベウスの声が、無様に響いていた。
『まだだ!まだ、俺は負けてなどいない!』
セーラームーンたちの前で、コーアンの姿が次第に灰になっていく。愛した男の足掻きを気にも留めず、コーアンは自らの身体を燃やし続ける。
必殺技の準備に入っていたマーズは、上げた右手の行き場に迷っていた。セーラームーンも、本音としては、マーズの炎がルベウスを消滅させるところが見たかった。しかし姉たちを裏切り、愛に殉じようとしている女に、戦士たちはこれ以上手を出す気にはなれない。
『やめろコーアン!俺を支配するな、俺はまだ、マーズに話が……!』
陵辱者の言い訳は常に同じだった。強姦は生物として正しい行為で、愛しているから傷つけるのだと。自分自身がそんな目に遭えばこのように必死で抵抗を試みるくせに、その矛盾に気づかない。
マーズは冷ややかに、そんな彼の末路を見つめている。その背後でセーラームーンは、コーアンが告げた内容を反芻していた。
幸せを掴もうとしている姉が許せない、置いていかれると思う気持ち、痛いほど判る。でも、それなら何故もっと早く、こちらに助けを求めてくれなかったのか。マーキュリーたちを傷つける前に。取り返しのつかないことになる前に。今のセーラームーンには、せめてルベウスごと彼女の魂を浄化してやることしか出来ない。
『セーラーマーズ、お前にルベウス様は渡さない。この方はあたしだけのもの』
勝ち誇ったような女の声が、室内に響く。女に主導権を握られたまま死ぬのは、ルベウスにとってこの上ない屈辱だろう。もはや声も出せず、腕だけをクロールのように動かす。その指先を赤い炎が舐めていく。
「いらないわよそんな男。さっさと地獄へ連れて行きなさい」
焼き払うほどの価値もない。そう言い切ったマーズのために、セーラームーンはロッドを振りかざす。
コーアンがわずかに笑った。行き先が地獄であっても、ルベウスと一緒ならば彼女は満足なのだろう。ベルチェの時とは違う、はっきりとした罪悪感を覚えながら、セーラームーンは彼女を断罪する。
マーキュリーやジュピターの苦しみ、マーズの慟哭を、ロッドの先端に込めて叩きつける。眩しい白銀の光が、燃え盛る女の身体を包み込んだ。
どちらのものとも判らない、悲鳴が聞こえる。命を、今度こそ自分の意思で断ち切る音に、セーラームーンは鼓膜を侵され、よろめいた。その小さな肩を、後ろから支えてくれる人がいる。
(まもちゃん……)
手放す事を決意した温もりは、未だ傍にあって彼女を苛む。レイはルベウスの子を、セーラームーンはちびうさを。自分の子供を犠牲にしても未来を変えようとするやり方は、男性にはきっとお気に召さない。
どんなに愛していても、彼は同性ではない。考えが違う。レイに罵られても彼が思想を変えないのなら、やはり自分たちは別れるしかない。子を捨てるなんて、という感情的な意見に対抗する術を、うさぎは持たない。
光が引いていく。マーズの黒髪が衝撃波に煽られてはためく。それが収まると、目の前の敵の姿はもうどこにもなかった。
セーラーマーズの背中が、語っていた。もはや迷いはないと。戦士としてのマーズはもう、いかなる暴力にも屈する事は無いだろう。
部屋の隅で、その存在を忘れられていた赤子が、大声で鳴く。マーズはそれを一瞥しただけで、抱き上げる事も声をかけることもしなかった。
「さあ、行きましょう、セーラームーン。刻印が無価値と判った以上、すぐにまこちゃんたちと合流しないと」
その言葉に、セーラームーンの肩から温もりが離れる。タキシード仮面は、こちらに向き直るマーズに咎める視線を送った。
「……子供を置いていくのか。ルベウスの血を引いているとは言え、君の子だろう」
今までのセーラームーンなら、彼の言葉に一も二もなく頷いていた。だがデマンドの陵辱を受け、友人たちの苦しみを見てきた今となっては、彼の正義は男ならではの無神経さによるものとしか思えない。
マーズも、恐らく同じ感想を抱いた。軽蔑しきった様子で、タキシード仮面を見上げる。
「まだそんな事を言っているの衛さん。いかにも男らしいヒステリックな意見ね」
苦しんだマーズを更に責める気なら、タキシード仮面もルベウスと同じだ。彼女と同様の怒りを、セーラームーンはかつての恋人に抱いていた。今の状況で子供を守りながら戦えとは、あまりにも現実離れした意見だ。子供を連れて行かないのが冷たい?それなら、タキシード仮面と別れてちびうさを産まない未来を選んだセーラームーンは、さらに残酷な女ということになる。産まれた子を捨てるのではなく、産まれるはずだった命を、最初から存在しなかったことにする。ちびうさという少女の温もりを知っている彼から見れば、中絶にも似た行為に見えるに違いない。
だから彼の怒りは当然で、同時に彼の主張は、どこまでも痛みを知らぬ者の感情論でしかない。妊娠の恐怖を知らない、安全な場所にいる生き物が、自分は正しいと信じて疑わない、極めて無垢な瞳で女だけを責める。
『アカチャンステルナンテカワイソウ』
将来の夢や目標よりも、好きな男性とその子供を最優先すべきだと。平和な日本という国に転生し、それこそが美徳だと教えられてきたから、月野うさぎは何の疑いもなく受け入れていた。戦士として、そうした『普通の女の子』の思考が邪魔になる日が来ることなど思いも寄らなかった。
ブラック・ムーン一族の言っていた洗脳とはこういう事だろうか。国ぐるみの教育による、宗教、思想、価値観の統一。まともに思える男性さえ、指摘されるまで性の痛みが判らず、無遠慮な言葉を口にする。そういう基盤を作ってしまう元凶が国の、星の支配者にあるのだとしたら、自分が作ろうとしている未来の国は、やはり彼らの指摘する通りまやかしの世界でしかないのだろうか。
「そんなに言うのなら、衛さんがこの子を育てればいいわ。マンションで一人暮らしなら人目にもつかないし、神社よりはましよね」
「何を……」
子宮の中の肉を削り落とすようにして新しい命を産んだ少女を前に、青年は二の句が告げない。しかし、彼に助け舟を出す気にはなれなかった。自分は安全な場所から、可哀想可哀想と言っているだけなら、誰にでも出来る。
(あたしは……まもちゃんを、買いかぶってたの?)
セーラームーンは瞼を伏せ、変わってしまった己を憂いた。地場衛が、セーラー戦士たちと四・五歳ほどしか違わぬ青年だということを、失念していたのかも知れない。醜態を晒し続ける彼を、これ以上見ていたくはなかった。
「レイちゃんの言う通りだよ」
怒りを込めて青年を睨んでいたマーズは、弾かれたように顔を向け、セーラームーンの瞳を見つめる。
「クイーン……じゃない、うさぎ……?」
親友として接するべきか、女王として接するべきか、迷っている様子のマーズに、彼女はただ微笑む。銀水晶の力で再変身した時から、自分の中にもう一人の自分が根付くのが判った。単なる、恋するプリンセスではない。責任ある女王として、すべき事は何か、見えてきた。これだけ多くの人間を犠牲にしてようやく覚醒するとは、我ながら情けない。
セーラー戦士たちが地球に転生したのは、先代のクイーン、即ちセレニティの母親が、普通の女性としての幸せを束の間でも体験させたいと願った結果だった。とても楽しい日々だったけれど、所詮は幻に過ぎなかった。恋に溺れ、友も恋人も両方失ってしまう、前世のあの悲劇をもう繰り返したくは無い。
「今のあたしは、うさぎでもあるし、プリンセス・セレニティでもあるし、クイーンでもある。好きなように呼んで」
人目を憚らずいちゃいちゃしていた際も、時々不安になることがあった。彼は本当に、心からうさぎを愛しているのだろうか。前世からの因縁で好きだと思い込んでいるだけなのではないか。いや、前世に於いてもただ単に、プリンセスという肩書きに秘められた処女性に、惹かれていただけなのではないかと、何度も自問した。
デマンドへの恨みが消えたわけではない。彼に恋する事など、これから先もずっと有り得ない。しかし、あの男がセーラームーンを犯さなければ、地場衛という青年の本心を知る事もなかっただろう。あの男の陵辱を受け、友人たちもボロボロになった今、初めて恋人の真実の心に触れた気がする。
衛は、少女にとって理想の王子ではない。犯され傷ついた女を「許す」などと言い切ってしまえる、そして自分とは関係の無いところで、当然のように子を産み育ててくれるものだと思っている、ただの凡庸な男なのだと知った。そして、悔しい事にそれを知ってもなお、月野うさぎの中の想いは消えないのだった。尊敬している恋人の中に、嫌な部分や相容れない所を見出しても、それも含めて愛しいと思う。好きという気持ちは、そういうことだった。目の前にいる青年が頼りがいのある大人の男ではなく少年のように見え始めても、大切だという想いには変わりない。
「まもちゃん、マーズに謝って。今の言葉は、男の人が軽々しく口にするべきじゃない。いくらあなたでも許せない事はある」
仲間だからといって、全てを許す必要は無い。また恋人だからといって、全てを肯定する必要は無い。彼の同意を求め甘えてきた過去の自分を振り切るように、セーラームーンは言い放った。想いは伝わっただろうか。恋人よりも友人を庇うその姿に、タキシード仮面は困惑の声を漏らす。
「うさこ……」
異変が生じたのは、その時だった。
「うっ……あ、あああっ!」
タキシード仮面の喉の奥から、低い悲鳴が漏れる。程なくして彼の肉体を包むタキシードが、包帯を解くように消えていく。黒のマントもシルクハットも、素顔を隠す仮面も空気に溶けて、端正な容貌があらわになる。
何の前触れも無かった。唐突に行われた変身解除に、誰よりも驚いていたのはタキシード仮面本人だった。ワイシャツ姿の学生、地場衛の姿に戻り、ほんの数瞬前まで白い手袋に覆われていた両手を空しく見つめる。
「衛さん……?」
どうしたの、と問おうとして、マーズは口を閉ざす。それが、彼の意思によって行われたものではないと判ったからだろう。強制的な力が、そこには確かに働いていた。答えを求めて彼女はセーラームーンを見る。変身をとかれた衛も、縋るような目で見上げてくる。ほぼ同じ頃、ヴィーナスもこのような表情で絶望に打ちひしがれていた事を、セーラームーンは知る由もない。
「あたしは何もしてないよ。変身できなくなったのは、まもちゃん自身の選択」
彼のトランスはセーラー戦士たちと違って、銀水晶の力を必要としない。
「タキシード仮面様は、出会った時からタキシード仮面様だった。だから彼の変身に、あたしは何ら関わっていない」
このありさまは、セーラームーンのせいではない───。気づいた地場衛が、がくりとその場にくず折れる。もう薔薇やハットを投げて彼女の危機を救うことはできない。地球の代表者もしくは年長者として、セーラー戦士たちを導くことも。そんな彼に、マーズが冷たく追い討ちをかける。
「どうするの、衛さん?一緒についてきたいなら、守ってあげてもいいけど?」
俯いたまま、衛は答えられない。男から力を取ったら一体何が残るのか、彼女は証明して見せて欲しかったようだが、今の彼にそれは酷というものだった。
「……さっきまでの威勢はどうしたのよ。敵の子供を気遣うほどの余裕があったくせに、育てられないって言ったあたしを責めたくせに、力がなくなった途端に都合よく黙り込んで弱者ぶるわけ?それが男って生き物なの?」
意地悪をしているのではなく、マーズは心から問うていた。デマンドも、ルベウスも、サフィールも同じだ。正義の名の下に女を傷つけ性で支配して、どうして平気でいられるのか、と。
「おれ……は……」
仮面が剥がれ落ちた彼は、汗にまみれた素のままの表情を晒していた。辛い陵辱に耐え変身能力を取り戻した少女たちに対して、美女といい思いをしただけで何一つ失っていない自分が、どんな浅慮な言葉をぶつけたのか思い知ったらしい。
「違うわよね、あなたはうさぎの伴侶なんだから、もっとまともな男のはずよね。ねえ衛さ」
「もういいよマーズ」
こんな虐めのような真似は、セーラームーンの本意ではない。変身がとけた理由など今は詮索する気はない。彼の気持ちがうさぎから離れたせいだと、うすうすは気づいてはいても。
失った前世の記憶を取り戻すためと、セーラームーンを守るために、地場衛はタキシード仮面に変身していた。その二つの理由が消えた以上、変身がとけたのは必然だった。
「早く行こう。みんなのところへ。あたしたちの戦いはここからが本番なんだから」
地球を守ることは、地場衛を守ることでもある。それが、彼女に残された最後の愛の証だった。マーズは頷き、先ほど亜美たちを見送った出口から、今度は胸を張って正々堂々と出て行く。真の姿を取り戻した彼女の背中は、いかなる敵をも退ける軍神そのものに見えた。
「俺を置き去りにするのか」
マーズの後ろ姿に見とれているセーラームーンの耳に、くぐもった声が届いた。羽をもがれた青年は、恋人の冷たい仕打ちに打ち震えている。俯いた面差しから、光る雫が滴り落ちた。汗なのか涙なのか判らない。うさぎの涙の中には銀水晶が隠されていたが、彼の涙は何も生み出さない。
「俺を捨てるのか。セレニティ!」
セーラームーンと目を合わさず、床に向かって叫ぶその姿に、前世での王子の姿が重なって見える。黙ってプリンセスの前に膝をつき、ドレスの裾に口付けたエンディミオンの姿が。
あの時から、両者の力関係は変わっていない。星の支配者が複数あっては混乱を招くから、恋人同士であっても家族であっても、決して対等ではいられないのだ。サフィールがデマンドを立てていたように、エンディミオンも地球の王子でありながら、月の姫君であるセレニティより出過ぎた行動を取ることは決してなかった。彼女の持つ銀水晶の力を恐れ、保身のためにそうしていたのかも知れない。恋心という言葉は、その恐怖心を隠すために便利で、彼自身も気づいていない処世術の一つだ。銀水晶を操るプリンセスに気に入られれば、地球の未来は安泰だから………だから取り入ったのだとしても、おかしくはない。そうでなければ、こんな泣き虫で半人前のプリンセスなど、誰が好きになる?
「捨てるんじゃない。解放してあげるんだよ」
奇しくもサフィールと同じことを、セーラームーンは口にした。デマンドの刻印を消すために、うさぎはタキシード仮面を騙すような形で交わった。そして友人たちの方が大事だと言い切り、その心を深く傷つけた。力を得るために、異性の体だけ都合よく利用して捨てる。それではブラック・ムーン幹部のしていることと、何ら変わらないではないかと衛は言っている。
サフィールの描いた絵図の通りに、セレニティに不審を抱き始めた彼は、見事に敵の思惑に嵌っていた。普通の少女としての思考と支配者としての思想が両立するものか、あの青年に試されているような気がする。それでも、あやかしの四姉妹を使い捨てにした彼らと同じにされるのは、我慢がならない。
「……あたしは、デマンドたちとは違う。暴力で好きな人を動かそうなんて思わない。ただお願いするだけで、決めるのは全部まもちゃんだよ」
その気になれば、銀水晶の力をちらつかせて言いなりにすることも出来た。しかし大好きな人を洗脳するような真似は出来ない。そんなことのために、銀水晶があるわけではない。愛しているからこそ、彼に選択肢を与える。うさぎを罵ってこのまま自由になるのも、共に戦うのも、彼に選ばせたい。
顔を上げた衛が責めるように見上げてくるのが、辛かった。彼はまだ、うさぎが何らかの力を出した結果だと思っているらしく、自分の心に問題があるのだとは思っていない。エリート男性らしいプライドの高さと、ずっとうさぎたちの影にいて育った劣等感が、彼の力を封じているのだと気づいていない。
セーラームーンの口から、それを指摘することは叶わなかった。彼女は母親ではないから、手を引いて導いてやることは出来ない。ここで手を貸しては、恋人である男性を見下していることになる。
「まもちゃん、エスメロードに会うといいよ」
ヒントだけをそっけない言葉に乗せて、彼の前に落とした。その女の名前を口にするだけで、心の中の月野うさぎの部分が焼け付くような痛みに襲われ、一方でセレニティの部分は冷静に、恋人が自分の下へ戻ってきてくれる方法を考えている。
「あの人ならきっと、まもちゃんに欠けているものを教えてくれる」
刻印の有無や、処女であるかどうかなど、変身能力には関わりがない。己の悪しき心と向き合って乗り越える力がない者は、この闇の星ネメシスでは生きられない。そんな簡単な結論に、今まで誰もが至らなかったのが不思議だ。
「彼女ともう一度会って、ゆっくり話して……それでもまだ、あたしを望むのなら、追いかけてきて。みんなと一緒に待ってるから」
まもちゃんが戻ってきてくれるのを信じて、ずっと待ってるから……。
その言葉は重荷になるから、口の中で小さく呟く。彼がエスメロードを選んだのだとしても、それはうさぎが招いた結果だ。
今のセーラー戦士たちに、地場衛を守って戦い抜ける自信はない。力を失った彼が庇護を得るには、エスメロードの元に行くのが一番だ。デマンドの命令がまだ生きているのだとしたら、彼女はタキシード仮面の子供を孕むまでは、彼を殺すことは出来ないはずだ。
「うさこ!」
出口に向かいかけていたセーラームーンの二の足が止まる。出会ったばかりの頃の、「お団子頭」とからかってきた年上の男性が、同一人物とは思えない幼い表情で、恋人に助けを求めている。黒い前髪の下の目は、悲しみに潤んでいた。それを見ていると愛しさが胸を突き上げ、抑えていたものが溢れ出す。
「まもちゃんの……馬鹿っ!!」
あなたの幸せのために、選ばせてあげるって言ってるのに───。
堪えきれずに、彼女はブーツの底で床を蹴った。無力な姿に成り果てた青年に抱きつき、肩口に顔を深く埋める。皺になったワイシャツの匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。手袋の指先で濡れた前髪を掻き分け、彼の瞼に強く口付ける。
「嫌いなわけないじゃない……好きだよ、大好きだよ!本当は、地球なんかあげちゃってもいい。まもちゃんさえ無事なら、たとえ地球が壊れたって一緒にいたいよ!だけど、だけどっ………!」
『地球を頼みます。セーラームーン』
褐色の戦士の孤独な横顔が、忘れられない。仲間も同士もいない冷たい空間で、ただ一人戦っていた時空の番人。彼女に使命という名の重い楔を打ち込んだのは、未来のセレニティの責任だ。
地球を侵略するのは地球のためだと言ったブラック・ムーン。彼らにつけ込まれたのは、自分がこんなに頼りないプリンセスだから。ならば、地球の支配者に相応しい女だと、彼らに示してやらねばならない。
「セーラームーン」
マーズの声に、彼女はびくっとして衛から離れる。出口の外で、戦いの神を待たせている。敵によって封じられていた炎が暴れ先を求めて、その気高い精神の中で悶えている。
セーラームーンは瞼を拭い、もう一度恋人の顔を、目に焼き付けた。うまく笑えたかどうか自信はないが、どうにか口の端を吊り上げる。
「……さよなら、まもちゃん」
呆けていた衛が我に返る頃には、セーラームーンは再び体を翻して駆け出していた。振り返ることは決してない。彼の瞼には、口付けによる赤い跡だけが残っていた。




逃がしたサフィールたちに気を取られていたエスメロードの肩を、ブラックレディの攻撃がかすめた。あからさまな殺意をこめた技は、彼女の扇でも防ぎきれない程の威力を秘めている。
「く………ここまで、かしらね」
未来の義理の弟とその愛人の気配が遠ざかったのを肌で感じ、エスメロードは後ずさった。ワイズマンは相変わらず読めぬ表情で空中に浮いている。彼を背にしたブラックレディは、強大な力を振るう喜びに、前身からダークパワーを迸らせていた。
サフィールに言われて一度邪黒水晶のピアスを外してしまったのが、まずかったのだろうか。慣れ親しんだはずの耳朶の冷たい感触に、妙な違和感がある。物理的な問題ではなく、邪黒水晶の力にわずかでも不審を抱いてしまったことが原因なのだろう。そして、デマンドに対しても。今はただの盲信ではなく、サフィールと共にあの王子を諌めねばという気持ちがある。傷ついたエスメロードに救いの手を差し伸べたサフィールは、ペッツやカラベラスたちを必要としながらも、どこまでも兄のことしか頭になかった。
『お前たちの力は必要だが、その悪趣味なピアスだけは外してもらう。偽りの力で自己を大きく見せようとするなど、僕の美意識に反する』
おいおいデマンドはいいのか?とエスメロード以外の誰もが思ったに違いないが、ペッツとカラベラスは素直に従った。サフィールのブラコンは有名な話だったからだ。
もっとも、彼の言い分も判らないではない。努力と知性のみでデマンドの傍らにいる権利を有したサフィールは、色気を撒き散らしてデマンドに近づいたり、女の武器を使って戦うエスメロードや四姉妹が気に入らない。女は体を使えば努力もせずに出世出来る、そのように思っているに違いない。だから、戦力が劣ることを承知でなおピアスを外させた。理性を装いつつ私情に流されているという点が、やはり兄であるデマンドに似ている。
(ま、大抵そんなものよねえ。男が論理的だなんて言ってるのは男だけ。女の方がよっぽど冷静だって、本当は知ってるくせに認めたがらない)
デマンドがセレニティに心奪われなければ、地球はとうに一族の手に落ちていた。それを知りつつプリンスに従っていた自分もサフィールも、同じ思いを抱く同志だ。過去の自分が情けなく、つい思い出し笑いを浮かべているエスメロードが気に障ったのか、ブラックレディが顔を歪める。
「なにその顔、馬鹿にしてるの!?あたしより弱いくせに!!」
桃色の髪が怒りではためいた。確かにこの娘は強い。だがサフィールも見抜いていた通り、経験値が圧倒的に足りない。その証拠に、他人の言葉にすぐに左右され、動揺し、存在そのものが不安定になる。ワイズマンに与えられた仮初めの肉体は、言霊の力で操られているから、誰かに「要らない」と否定されることがそのまま存在の消滅につながるのだ。
「ふふっ……愚かな娘ねぇ。何も知らずにワイズマンに利用されて」
血に染まった扇を口元に当て、エスメロードは闇の娘を挑発する。長い年月、花も満足に咲かぬ辺境の星で耐えてきたブラック・ムーン一族の幹部が、こんな小娘に精神的に劣るとでも思うのか。
「わ、ワイズマン……?」
痛めつけられてなお、強い眼差しで睨み付けてくるエスメロードに、ブラックレディは攻撃の手を止めた。振り返って不安げに主を見るその仕草は、成長しても子供のままだった。
『負け犬の戯言よ。耳を貸すでない』
ワイズマンは一蹴する。それでも、ブラックレディの顔から緊張が解けることはなかった。
「でも、このおばさんおかしいわよ!何だか、死ぬのが怖くないみたい。ねえ、どうして?消えるのを恐れているのはあたしだけなの!?だったら、あたしが一番弱いってことになるじゃない!!そんなの、そんなのっ……ずるい!」
葛藤に頭を抱えるブラックレディは、エスメロードが最も嫌うあの女に似た、少女らしい弱さを覗かせている。つけこむなら今ね、と彼女は扇を振る。
力で敵わずとも戦い方はいくらでもあると、サフィールが教えてくれた。デマンド以外の男の発言も聞き入れるようになったのは、あの男の影響かも知れない。
「あたしのことを覚えていないの?いいえ、いるはずよねぇ?───『ラビット』」
タキシード仮面と初めて出会った時のことを思い出しながら、エスメロードは語りかけた。射精の誘惑に耐える彼の姿を回想すると、何故だか微笑ましい気持ちになる。セレニティに操を捧げる男の思いが、デマンドに忠誠を誓うエスメロードの思いと重なっていた。
ブラックレディが青ざめた。ラビットであった頃、エスメロードに追われていた苦悩の記憶は、未だ彼女の中に根付いているはずだ。高笑いをしながらあの小さな体を追いかけ、捕まえられそうだと判ればわざと距離を離して希望を与え、また距離を縮めては、繰り返し嬲る楽しみ。
「あ、ああ、あ……怖いおばちゃん……エスメ、ロード……?」
細い体をかき抱く、ブラックレディの奥歯がガチガチと鳴った。セーラームーンの前で竜巻を起こし、空中でスカートをめくって辱めた記憶がまだ新しい。エスメロードはカラベラスたちとは違い、己の行いを後悔はしていなかった。性的虐待を受けた、貞操を奪われた、それが何だというのか。その程度で戦意を喪失するような者は、星の支配者に相応しくない。デマンドの隣に並ぶ女は、敵の子供を産めと命じられ、私心を抑えてそれを遂行できる、強い心の持ち主でなければいけない。それだけの覚悟がこの娘にあるのか?
「尻の青い小娘に、デマンド様の傍らにいる資格はないわ。このあたしのような強い女にならなくてはね!おーーーっほっほほほ!!」
高笑いをしながら、エスメロードは扇を振り上げた。その扇に宿るのは悲しみの力。デマンドに必要とされず行き場をなくした、大人の女の悲しみの力。親に愛されず拗ねているだけの子供に、この感情が、想いの強さが負けるはずがない。
防御していなかったブラックレディは、その反撃を頭から受けた。苦悶にのたうち、桃色の残像を残して消える。いつでも殺せる相手を前に、怯んで逃げ出したことが信じられぬといったように、ワイズマンが叫ぶ。
『何をしている、ブラックレディ!どこへ行った、戻らぬか』
「ふん……」
強敵の一人を退け、不敵に微笑むエスメロードの膝から力が抜けた。ボディコンの衣装が裂け、自慢の肌の至る所に裂傷が走っている。ジャスミンの香りのする風呂に漬かって磨いた珠の肌が、これでは台無しだ。
邪黒水晶を用いても防御力が高まるわけではない。元より自分一人の力でワイズマンを倒せるとは思っていなかった。あの二人を逃がすための時間稼ぎに過ぎない。デマンドに見放されたことがきっかけではあったけれど、敬遠していたサフィールと手を組み、見下していたペッツと腹を割って話す機会を設けられたのは、悪くは無かった。
(それでもやはり、あの方が好き。デマンド様以外の男に、膝を折る気にはなれない)
想い叶わないと知ってもなお、サフィールの命令全てに従う事は出来なかった。力がなければ、肝心な時にデマンドを守れない。だからピアスは外さなかった。
『何故。何故誰も彼も、我の邪魔をする……!』
歯軋りさえ聞こえそうな、悔しげな声が聞こえた。エスメロードが彼の誘惑を蹴り、デマンドから身を隠す事を選んだ時から、ワイズマンは余裕を失いつつあった。
『無力なそなたらに力を与え、ここまで導いてきたのは誰だ。恩を知らぬ矮小な存在が、我に楯突くなど百年早いと知れ!』
ローブが、さながら髪を逆立てるように膨張した。その奥の二つの光が、エスメロードの命を絶つべく憎悪に輝いている。不思議と、恐ろしいとは感じなかった。

『よもや、エスメロード様とこのようにお話が出来る日が来るとは、思いも寄りませんでした』
彼女の傷ついた身体を手当てしてくれながら、『嵐のペッツ』は静かに告げた。その手つきは優しく、表情は以前よりも柔和なものへと変わっていた。
エスメロードはルベウスと仲が悪かったから、その直属の部下である四姉妹とも険悪であった。立場的にはエスメロードの方が格上だから、姉妹たちは表面上は敬ってはいたが、相応の陰口を叩かれていた事は知っている。その姉妹の長女が、サフィールの命令とは言え、デマンドの息のかかったエスメロードを丁重にもてなしてくれているのは妙な感じだった。
『随分とサフィールにお熱なのねぇ。私はデマンド様の方が絶対いいけど』
軽口を叩くと、ペッツは苦笑した。
『好きな方が同じでは困ります。エスメロード様相手では、勝てる気がしませんから』
『あら……』
世辞まで言えるようになったとは、と彼女は目を瞬く。恋は女を変えるものだ。
ペッツの耳には邪黒水晶のピアスがない。サフィールに指示された事だから、疑問にも思わず彼女は従った。いや、本当は利用されているだけだと、知ってはいても逆らえない。治療のために触れてくる指先から、彼女の想いが伝わってきた。
───抱いて下さったのは、私たち姉妹を傘下に入れるため。それでも、私はサフィール様が……
声にならない切ない声を、エスメロードは確かに聞いた。ペッツの抱える思いも、自分と同じだった。

「いくら力があっても人の心が理解できないのでは、真の強さは身につかなくてよ」
全身に走る痛みに顔を顰めながら、エスメロードは言った。ラビットもといブラックレディにやられた傷は致命傷でこそなかったが、彼女の女としてのプライドを傷つけるのには充分だった。
しかし、あの小娘に引導を渡すのは自分ではない。プリンス・デマンド御自ら始末してくれるだろう。自分より強い女を受け入れるような男ではないことは、ずっと間近で彼を見てきたエスメロードはよく知っている。だからこそセレニティから銀水晶を取り上げ、籠の鳥のように閉じ込めておこうとした。あの強大な力を持つブラックレディが娘だと名乗っても、恐怖や戦慄こそ感じても、決して喜びはしない。
『人の心だと?下らぬ。そんな不確かなものに望みを賭けた故、サフィールは命を落としたのではないか』
エスメロードは眉を吊り上げた。傍らに落ちているサフィールの上着を鷲掴みし、ワイズマンに向けて投げつける。
「まだ死んでないわよ!あれは一見儚く見えるけど、実際はゴキブリみたいにしぶとい男よ」
酷い言いようではあったが、彼女はペッツの恋が実る事を、心から祈っていた。引き裂かれぼろ布のようになった上着を、ワイズマンは片手で受け止めた。上着の破れている部分は、サフィールの身体の損傷箇所を示す。それを検分し、不快そうに呟いた。
『……仕損じたようだが、それも時間の問題。あの出血ではいずれにせよ助からぬ』
座り込んだエスメロードの身体に、追撃は降ってこない。分散した裏切り者のうち、誰を先に追えばいいのか、ワイズマンは逡巡している。
「追わなくていいの?あのブラックレディとかいう小娘、たぶんデマンド様のところに向かったわよ」
彼の意識を自分から逸らすために、エスメロードは痛みを堪えて笑う。
「先回りした方がいいんじゃない?あの方は今、カラベラスのドロイドに捕まっているけど。娘より先に助ければ恩が売れるわ」




一度でいいから見てみたい、ペッツが髪の毛おろすとこ。鶴橋です。



このブログ、1ヶ月以上新しい記事を書かないと広告が入るらしいので、とりあえず笑顔動画で見つけた「愛の戦士」が流れる名シーンを貼ってみます。

見どころ
・便○を堪えているような顔でダルクサンダーを打つペッツ
・ベルチェのくねくね
・鞭はどこから出したんだカラベラス
・末っ子コーアン悪目立ち
・ルベウスの脇
・赤い薔薇>>>>越えられない壁>>>>ピンクの胞子(?)

ムーン陥落を書いている間、ずっとこの曲が頭の中を流れていました。
特に二番の「どんな悪い人だって(中略)それを利用するなんて絶対やっちゃいけないのよ」のフレーズは大好きです。
ルベウス、ヘタレの印象が強いんですが、結構いい技持ってますね。というか腋毛剃ってるなんて、さすが四姉妹を従えるだけあります。(意味不明)

それにしても、『愛の戦士』の歌詞の中に出てくる『蒼い戦士』とは誰の事なのか……
本命 セーラー戦士全員(蒼→青→若者?)
対抗 まもちゃん(地球→蒼い星→蒼い戦士)
大穴 蒼のサフ(ry
おまけ あおい+戦士=ウィングマ(ry

セーラームーン視点の歌だとしたら、「目覚めなさい」と言っている以上、少なくとも「蒼い戦士」はセーラームーンではないことになります。それとも未来のクイーンが過去のうさぎに向けて歌っているのでしょうか。
「愛の戦士」という曲名自体がヴィーナス単体を連想させます。なぜ月の戦士、正義の戦士、あるいは原作であったように「神秘の戦士」ではなかったのか。
時にネオ・クイーン・セレニティ。セーラーマーズを「戦いの戦士」と言うのはあんまりだと思います。頭痛が痛くなって違和感が感じられます。




せらむんの敵キャラ好きならこれは外せないだろ!!!!というわけで転載。
「宝石」じゃないんです「鉱物」なんです。加工(整形)とは違うんです!そう言えば昔「アレキサンダーとぜんまいネズミ(うろ覚え)」に出てきた紫色の小石とやらを庭で探しまくった覚えが。鉱物じゃないけどカンパンの缶詰の中に入っている角砂糖の角の部分も愛しくてたまりません。あのカットは芸術的だと思います。あと味覚糖の「純露」もな!一度口に入れてから出すと唾液で光っていい感じです。原石は大きすぎて口に入らないので、飴玉で興奮するしか……(変態が何か言ってます)






こちらはアニメでのブラックムーン一族の最後。資料にさせていただきました。
みんな似たような顔でしかも瞬殺されていた原作と比べて、優遇されすぎだろ敵。ちゃんと個性も見せ場も与えられて未だにファンサイトが作られるその根強い人気の秘密は、戦隊っぽいキャラ付けと色分けにあるような気がします。
ボス格の白に参謀の青に色気の緑に粗暴な赤。後は関西弁で食いしん坊の黄が加わったら最強だったんですが。ある意味四守護神より役割分担が明確です。短命に終わるからこそ、途中でキャラが崩壊する心配も無かったと。デマンドたちの場合、いやらしの四姉妹みたいに性格変わってまで生き延びたらここまで人気が出たか疑問なので、あれでよかったと思います。
このカラー分けはその後の敵キャラにも受け継がれていますが、全員女性でしかも無意味に露出度が上がってしまったのが残念でした。主人公たちが足見せまくってる分、敵キャラの方が隠してるのが逆に大人って感じでいいんだよ!セーラー戦士が水兵の服なんだから敵は陸軍か空軍の服にすればいいのに。一期の四天王はそれっぽかったけど色が地味だからなー。

ルベウスの最後の捨てられた子犬のような表情が笑える半面気の毒でなりません。実はエスメロードのことを好きだったんじゃ?(原作でも絡んでたし。この人後ろから女を抱くの好きですね)
サフィールが最後に見せたパラジクロロベンゼン的な笑顔にペッツの心が融解したエピソードは有名ですが、死を前にしたら見苦しく足掻くのが普通の反応だよな、と思うので、人間的にはルベウスはなかなか親しみが持てるキャラです。いやらしの四姉妹といい、ブラック・ムーンはただでさえ持ち駒が少ないのに、大怪我をしているわけでもない、まだ使える人をなんで平気で見捨てるんだろう。尺の都合(ry
そのエスメロードもワイズマンにバルサン(即効性)をかけられゴキブリのように消えました。なんだあのシューシュー言ってるのは。まあ肉が溶ける音だと考えたら少し興奮するけど。この時のワイズマンの意図もいまいちわかりません。エスメロードを殺そうとしたのか利用しようとしたのか何なのか。
デマンドの死は……弟に隠れて割を食ったような……でも女性人気は圧倒的のようで、アニメで一番優遇されていると言えなくも無いです。


こんな動画もありました。








エスメロードの裸を見ても、眉一つ動かさないサフィールに笑いました。
まあ眉が動かなくても別のところが動いていたかも知れないのでカメラさんもっと下に寄ってください。
サフィールはエスメロードに関しては辛辣だったり「お前」呼ばわりしたりしてやたら冷たいですね。ペッツの事は「君」と言ってたのに、あの態度の違いは何なんでしょう。同じ緑だし背格好も化粧の濃さも大して変わらな……gfgf


ムーン陥落でのキャラ付けは、以前も書いたように敵味方含め「原作とアニメごっちゃ」ですので、イメージと合わない方は申し訳ないです。
デマンドは、原作の方が元気でよく喋り、アニメはシリアスな暗い感じなので、足して変態に。(おい)
サフィールは原作が狂人でアニメは良い人なので、「狂ったいい人」ってことで自然と黒い感じに。
エスメロードは原作がよくわからないのでアニメに一番近いかも。でもちょっとテンション抑えめ。
ルベウスは原作もアニメも女性キャラとの絡みが多いのでエロパロ的には使いやすいです。
あと、ルベウスやデマンドはアニメ&原作で「私」と言ったり「オレ」と言ったりですが、サフィールは完全に「僕」でしたね。折を見て直します。


アレクサンダとぜんまいねずみ―ともだちをみつけたねずみのはなし

美少女戦士セーラームーン原画集 2 ブラックムーン編美少女戦士セーラームーン原画集 2 ブラックムーン編
(1994/12)
武内 直子

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ほんの少しの偶然が、重なっただけだった。
銀水晶を持ち出したのは故意だったが、その時たまたま城に襲撃があったのも、母が犠牲になったのも、四守護神が巻き添えになったのも、本当に偶然だった。
ちびうさは、遠くからそれを見ていた。成す術もなく、母の体がクリスタルに包まれていくのをただ見ていた。母に攻撃を仕掛けた男は、信じられぬものを見ているかのように立ちすくんでいた。見えない力に守られる女王という存在に、圧倒されていたのだろう。
彼女の母親は偉大な存在だった。星ひとつ破壊できるほどの力を持ちながらも、決して驕り慢心することはなかった。民を愛し平等を好み、月の王国の次期女王となる我が娘を、他の子供たちと同じように育てることを望んだ。それが逆に、娘の心に孤独を忍び寄らせる要因となったことに、気づいていただろうか。

『やーい、ちび、ぐず』
大人の目の届かない所にいる子供というものは、正直にして残酷である。
『お前なんかがプリンセスであるもんか。だってちっとも似てないじゃないか』
美しい母に比べて、いつまでもちんちくりんな自分が、他人の目にどう映っているか、日々思い知らされていた。
それでも、不義の子だと囁かれるのは我慢がならなかったから、彼女は彼女なりに精一杯主張した。今はこんなでも、そのうち背が伸びて胸が膨らんで、立派なレディになると。
少年たちは引き下がらない。彼らの親たちがクイーンの治世に不満があったのか、それともちびうさに対する個人的な苛立ちゆえだったのか、今となっては判らないが。
『だったら銀水晶を見せてみろよ。歴代のプリンセスは、必ず持っているって聞いたぜ』
プリンセスの力の象徴、銀水晶。母が玉座を空けた時、こっそりとそれを懐に忍ばせた。母を困らせるつもりはなかった。あの少年たちの鼻を明かしてやりたかった、ただそれだけだった。
閃光と爆発。動揺する四守護神。目の前で敵の攻撃を受け、固まっていく母───。
(運命だったのです)
自分を責める必要はないと、彼女は言ってくれた。赤い瞳と褐色の肌を持つ、時の番人。ちびうさの、たった一人の友達。泣きながら時空の扉に現れたちびうさを、黙って抱きしめてくれた。
彼女がいなければきっと、一人で生きてはいけなかった。眠りについた父と母を前に、自責の念に押し潰され、死を選んでいただろう。
このままでは終われない。母たちの盾となってパレスを守ってくれている四守護神たちを思い、ちびうさは禁を犯すことを決意した。
(プルート。あたしに時空の鍵を貸して)
そして、過去へと飛んだ。若かりし頃の母親、セーラームーンに会うために。彼女の持つ力で未来を救ってもらうために。
静寂に包まれたパレスの中で怯え隠れているよりも、命を張って一抹の望みに賭ける。それがSL(スモールレディ)としての責任だった。
『おーっほっほっほ!かくれんぼはもうお仕舞いよ、ラビット!銀水晶をお寄越し!』
タイム・ワープを使うブラック・ムーン一族は、どこまでも追撃してきた。逃げて、逃げて、ひたすら逃げても、足元に纏いつく影のように追いかけてくる。
セーラームーンたちはエスメロードに歯が立たなかった。もう、駄目かも知れない。過去の母が殺されれば、ちびうさも消える。未来が消滅する。
過去の母、セーラームーンは、泣き虫な少女だった。まもちゃん、まもちゃんと泣き喚くだけで、頼りにならない。まるで、ちびうさそのものだった。
軽蔑すると同時に、ほんの少し安堵してもいた。母とて、所詮弱い人間だった。やはり自分たちは、親子だったのだ。

『諦めてしまいなさいよ』
疲れ果てたちびうさに、囁きかける声がある。
(誰?)
夢うつつの中、彼女は薄目を開ける。
ピンク色の長い髪が視界を横切った。一瞬のことで、それは幻のように消えてしまう。
『あなたはあたし。いいえ、あたしであったはずのものがあなた』
大人の女の声だった。エスメロードとは違う。もっと若く、色気よりも闊達さを前面に押し出している印象だ。
(誰……?)
『もうすぐよ。あなたが消えればあたしが生まれる』
くすくす、と耳障りな笑い声とともに、女の気配が遠ざかる。
体が動かない。指先から冷えて腐り落ちていくような心細さに襲われ、ちびうさは唇をわずかに動かした。疑問は声になることはなく、沈黙の闇が幼女を包み込む。



時空の扉の前に、三つの影がある。セーラープルートとタキシード仮面、そして彼の腕の中でぐったりとしているちびうさだった。未来で起こる何もかもを、時の番人の口から聞かされた彼は、驚きのあまりしばらく口が利けなかった。
エスメロードとその配下を撃退し、再びここに戻って来たのは、この場所が時間の狭間であり、あらゆる時代や場所にタイム・ワープできる地点だからだ。セーラームーンもここを通ってブラック・ムーンの本拠地に向かったのだと言う。再会するには、扉を通過していくのが最も早い。
寒さなどまるで感じないのに、濃厚な霧が周囲に立ち込める。真っ白で何もない空間、こんな寂しいところにプルートは一人でいるのか。永遠にも近い時間を、ここで。
「私はここを動くことは出来ません。後はキング、あなたにお任せいたします」
未来における彼の呼び名を、彼女は静かに口に乗せる。現時点でまだ学生であるタキシード仮面は、おこがましい思いに囚われた。これほど思慮深く大人の雰囲気を漂わせる女性が、年下の彼に最大限の敬意を払っている。そんな価値が、自分にあるとは思えない。
「ん……う、うっ」
腕の中のちびうさが、顔を歪ませる。腕の位置を変えようとする彼を見て、プルートは静かに両腕を差し伸べた。
「こちらへ。きっと怖い夢でも見ているのでしょう」
言われてよく見ると、ちびうさの表情は青ざめていた。足元に転がっているルナPボールが、彼女の白い靴下の裏を映し出している。靴はとうに脱げて失くなってしまい、セーラー服もボロボロだった。
こんな年端もゆかぬ幼女を、追い詰めて虐待したのはエスメロードだ。しかし今の彼には、彼女を責める事は出来なかった。仮にちびうさが敵側の人間で、銀水晶を奪って逃走したら、と仮定すれば、タキシード仮面も恐らく手段は選んでいられないだろう。子供であろうと舐めてかからないのは、ある意味誠意があると考えることも出来る。
敵の女に対して同情的になっている内心を、タキシード仮面は自覚していた。肌を重ねた時、エスメロードの悲痛な叫びが聞こえてくるような気がしていた。救ってやりたい、と思うのは傲慢だろうか。
彼は知らない。既にエスメロードが、彼との性行為によってある意味『救われていた』ことを。死ぬはずだった運命を、大きく覆されていたことを。
「スモールレディは、私がお預かりします。未来の銀水晶とこの時空の鍵を持って、一刻も早くセーラームーンの元へ向かって下さい」
タキシード仮面は頷き、ちびうさの体をプルートへと預けた。小さな命が、腕から腕へと受け渡される。娘だと判ると手放すのが名残惜しくなるが、少なくとも今の彼よりはプルートの方が、彼女の扱いは上手そうだった。
温もりが腕から離れると、タキシード仮面はマントをさっと横に払った。守るべきものが明確になった以上、もう迷いは無い。
「ありがとう。君には、色々と世話になった。怪我をおしてまで助けに来てくれて……」
本来ならば、時空の扉の前を離れるのは重罪なのだと言う。しかし今、彼女を罰する存在、即ちネオ・クイーン・セレニティたちはここにはいない。クリスタル・パレスで眠りについている。
「キングこそ、ここに来るまでに、随分とお辛い思いをしたはず」
エスメロードとの件を言っているのだと気づく。プルートは全てを察し、そして彼を気遣ってくれる。恋人がいるのに他の女と何をしているのかと、責められた方がまだましだった。
「キング、というのはよしてくれ。……俺にそんな資格は無い」
敵を撃退した際、頭の中に響いたのは、未来の自分、キング・エンディミオンの声だ。彼やプルートの助力がなければ、エスメロードから逃れることは出来なかった。
うさぎや四守護神が暴行を受ける最中、彼は何も出来なかった。地球の王子でありながら、何一つ守れない。未来の自分がキングとして君臨できたのも、きっと銀水晶の力ゆえだ。セーラームーン、セレニティの夫としてしか、自分は存在する意味が無い。
そんな彼に、プルートは首を横に振り、はっきりと告げた。
「いいえ、あなたは確実に一つの運命を変えました。己を傷つけた敵にすら哀れみを向けられる、お優しいあなただから」
さながらそれは、地球そのもの。生態系を破壊し続ける人間を赦し、自浄の力を以て害悪すらも包み込みただ静かに輝き続ける、青き星の如き慈悲。
タキシード仮面の姿を眩しげに見上げて、プルートは語る。過ぎた評価に、彼は居心地の悪さを覚えた。
美人に甘いのは男の本能であり、その程度で優しいなどと言われては、世の中の殆どの男は聖人になってしまう。
「……買い被りだ。俺はただ……」
本当に優しいのは、下心なしで相手に接することが出来る男だ。例えばエスメロードが美女ではなく、恐竜かドラゴンのように醜悪な姿をしていても、変わらず同情を寄せられるのが、本当の優しさを持った人間だ。
お団子頭の少女の姿が思い浮かぶ。誰に対しても平等に接する彼女ならきっと、エスメロードを救うことも厭わないだろう。今すぐにでも、彼女の元へ飛んで行きたかった。
「お気付きではないのですか。あなたとセーラームーンには、人の心を動かす不思議な魅力がある。定められたルートを変える力がある」
プルートの持つガーネット・ロッドの先端が、妖しく光る。誰よりも長く生き、あらゆる時代を見聞きしたという美しき番人の目には、一体何が見えているのか。
「その小さな分岐は、やがて大きな流れとなって未来を正しいものに変えるでしょう。私は信じております」
まるで全てを見てきたかのように、彼女は語る。
「……信じる、か」
今の自分達に一番欠けているものは、それかも知れない。
(うさこは、まだ俺を信じてくれるだろうか)
エスメロードに惹かれた地場衛ごと、受け入れてくれるだろうか。
虫のいい願いだと分かっていても、彼はそれを信じたかった。うさぎがデマンドに何をされようが、彼の気持ちは変わらない。うさぎにも同じ気持ちでいて欲しいと願った。
彼は、そっと時空の扉に手を触れた。黒のタキシードの、右のポケットにはちびうさの持っていた未来の銀水晶が、そして左のポケットにはエスメロードから奪い返したセーラームーンの銀水晶がある。
万が一、この二つの銀水晶を接触させてしまったら、大変なことになる。未来と過去、違う時代に存在する同一のものがぶつかり合えば、この世界が消滅してしまう。
想像しただけで、体に震えが起こる。これほど恐ろしい力を常に胸に抱きながら、普通の少女として笑っていられるのがセーラームーンの強さだ。
彼女の偉大さも、それと相反する弱さも、全て含めて恋している。この命に変えてもデマンドの手から取り戻し、自分のためではなく、四守護神のために流しているのであろう血の涙を拭いてやりたい。
扉に置いた手に力を込めると、プルートが静かに言った。
「四守護神に、よろしく。何があってもセーラームーンを、クイーンを信じて差し上げてください。あなたならばそれが出来るはずです」
妙に含みを持たせた言い方に、タキシード仮面は引っ掛かるものを感じた。
「ああ、わかった」
君は未来が見えるのか、などと不粋なことは聞かない。運命とは己の力で切り開くものだ。
これから先、待ち受けている残酷な試練を予感もせずに、タキシード仮面は恋人の元へ向かった。もう後戻りは出来なかった。


かつん………
どこか不吉な音を聞いて、デマンドは力の放出を押し留めた。額に現れた『邪眼』が、本人の意思を察して、急速に縮んで消えていく。
ルベウスがマーズのために用意した部屋は、デマンドの趣味とは正反対の和風なもので、邪黒水晶のオブジェすら置かれていない。正直、この場にいることすら不愉快だった。
それに、先程から歩くたびに、妙に耳障りな音がしている。彼が立っているのは部屋の入り口の、土間のような箇所だったが、足元に妙な違和感を覚えた。それが気になって、攻撃に集中できない。
宙に浮いていたマーズの体が、力を失って落下してくる。それを、セーラージュピターはしっかりと受け止めた。
「まこちゃん………」
初めて彼女の存在に気づいたかのように、マーズは呆然として答え、そして急に攻撃の手を止めたデマンドを、訝しげに見つめている。
デマンドは、うさぎを肩に乗せたまま、視線を下に落とした。靴には何もない。となると、他に床に触れている部分は、マントか。
王者に相応しい裾の長いマントの裾を、彼は摘み上げた。そこに刺さっていたのは、青い小さなピアスだった。
「盗聴器か。くだらん」
マーキュリーと接触した際につけられたのだろう。油断した自分を認めたくない彼は、鼻で笑ってピアスを握り潰した。
パキリ、とプラスチック状のものが割れるような破裂音が響く。瞬間、白い粉が煙のような勢いで部屋中に飛散した。デマンドはもちろん、セーラームーンも思わず驚きの声を漏らす。
指先に付着した粉に、彼は眼をこらした。刺激臭はなく、舐める勇気はないが、一見したところ毒もあるようには思えない。
「無害のようだが、何のつもりだ」
問いかけは、セーラームーンに向けてのものだ。彼女はただ、泣きながら首を振って暴れるだけだった。
「知らないわよっ!離して、降ろしてっ!!亜美ちゃんと美奈子ちゃんに会わせてっ!」
彼女は、嘘をついていれば、すぐに顔に出る。攫ってからマーキュリーと会うことは赦していなかったし、この様子では本当に知らないようだ。
しかし、こんな小さなピアスに、どんな手段を用いて大量の粉を封入していたのだろう。部屋の中は靄がかかったように白くなり、目の前にいるマーズやジュピターの姿が霞んで見えた。
マーズが口元を覆って咳き込む。彼女の黒い髪に粉が付着して、白髪のように見えている。
「これは、小麦粉じゃないか……?」
粉を手で払いながら、ジュピターがかすれた声で呟いた。『コムギコ』という単語がデマンドにはわからないが、ただの目くらましであることは明白だった。
「まあ、いい。お前たちの始末は後回しだ。婚礼を先に済ませてしまおう」
部屋を出て行こうとするデマンドの耳に、赤子の泣き声が響いた。産まれながらにして炎を操る、セーラーマーズの息子の声が。
赤子を始末しておかなかったのは、彼の誤算の一つだった。その小さな手から繰り出される炎に粉が引火し、次の瞬間、巨大な爆発音が轟いた。
粉々になった調度品が、まるで生き物のようにうねりながらデマンドにぶつかってくる。肩に、腰に、胸に、木製の破片が突き刺さった。砕けた柱の一部分が、額を傷つけた。彼は咄嗟に、セーラームーンの体を抱え込み床に伏せる。更にその上に確認できない何かが重くのしかかった。
「ぐあ……!」
剥がれた壁が背中を刺したのだ。苦痛に声を漏らし、デマンドは少女の上に覆いかぶさる形でくず折れた。セーラームーンは、戸惑いの目で彼を見ている。
「デマンド、あなた……」
唇を噛み、少女は大人びた眼差しを彼へと向けた。そして、上に乗っている体を押しのけようとする。
「離して。仲間のところに行かなきゃ」
彼女にしたことを考えれば、当然の応答だった。けれど、今彼は酷く傷ついていた。身を捨ててまで庇っても、彼女は仲間を優先させるのだ。
どれほど絶望を思い知らせても、セレニティは決して己のものにはならない。邪眼を使え、とワイズマンが囁いた時も、彼は断った。他人から与えられた力ではなく、自分の力で彼女をものにしたかったのだ。
それなのに彼女は、陵辱の鎖を引きちぎって羽ばたこうとしている。
「ふざけ、るな……」
セーラームーンの頬を両手で掴むと、彼は血走った瞳で吐き捨てた。額から流れる血が彼の瞼を染め、背中の痛みが彼の激情を後押しした。
「お前は俺の妃になるのだ。勝手に離れることは赦さん!」
「どけっ!!」
別の少女の怒声が、デマンドに降りかかった。セーラージュピターの長い足によって、彼の上にあった瓦礫が蹴り倒され、わずかに空いた隙間から、セーラームーンが必死に這い出る。彼は、追いすがる力がなかった。
ジュピターの体は爆発の衝撃で擦り切れていたが、マーズは無傷だった。赤子が守っていたことは見ただけで判る。
「あなたもルベウスと一緒ね。犯してやったんだから、救ってやったんだから感謝しろって。そんなことで罪が帳消しになるとでも思ってるの?」
赤子の背中を撫でながら、マーズが冷たく呟く。
「まこちゃん、レイちゃん!」
駆け寄るセーラームーンを抱きしめるジュピターの目には、強い光が戻っていた。マーズと並ぶと、父と母のようだった。どちらがその役割を果たしているのかと問われれば、どちらでもあり、またどちらでもない。
そしてセーラームーンも、一見彼女たちに守られているようで、実は守っている。デマンドにはそう思えた。欠けた部分を補い合うような関係だからこそ、彼は連中を引き離さねばならなかったのだ。
「……くっ、はは、ははっ」
黒煙を上げる瓦礫に埋もれたまま、デマンドは笑い出した。この期に及んで悪あがきする彼女たちが、滑稽で仕方ない。
マーキュリーが爆発物を仕掛けていたことは計算外だったが、この程度で自分は死んだりしないし、セーラー戦士どもはブラック・ムーンの刻印を焼き付けられて変身も出来ない。一体どうやってプリンセスを守り、ここから脱出できるというのか。
「大人しく従っていれば、これ以上痛い目には遭わなかったものを。女は本当に愚かだな」
「何だって!?」
噛み付くジュピターに対し、マーズはどこか醒めた目でデマンドを見ていた。
「お前たちは既に戦えないが、こちらにはまだあやかしの四姉妹が三人残っている。サフィールもエスメロードも健在で、タキシード仮面とやらも手の内だ。勝ち目があるとでも思うのか」
自分の知らないところで、サフィールたちがどんな思惑で動いているのか考えようともしない彼は、自信に満ちた口調でそう告げた。
彼にとっては実の弟すら駒であり、裏切ることなど想像もしていなかった。エスメロードにしても、自分に惚れているのだから、命令のままに動くはずだと思っていた。人の心が状況次第で変わっていくことを、彼は知るべきだった。
「簡単なことさ。あんたを人質にすればいいんだ!」
ジュピターが悲痛な声で叫んだ。粉を浴びるまでもなく、彼女の髪はストレスで白くなり、ドレスに覆われた体は散々なことになっているはずだ。彼女とマーキュリーを陵辱するよう男たちに命じたのは、コーアンであってデマンドではないが、そんな事は被害者にとっては意味を成さない。
「よくも今まで、うさぎちゃんやあたしたちをいたぶってくれたね!あんただけは、絶対に許さない!!」
身動きできないデマンドに拳を振り上げようとするジュピターを、セーラームーンは止めなかった。止めたのは、意外な人物だった。
「待って、まこちゃん」
戦いの神であるセーラーマーズが、彼女の拳に手を添えていた。
「なんで止めるんだ!レイちゃんだって、こいつやルベウスのせいで……」
そうじゃなくて、と彼女は言って、形のいい眉を潜めた。
「おかしいと思わない?こんなに大きな爆音がしたのに、誰一人駆けつけてこないわ」
彼女にそう指摘されて初めて、デマンドは城を包む違和感に気づいた。
「そう言えば……」
ジュピターも不審げに、周囲に視線をやる。主であるデマンドがこんな目に遭っているというのに、誰も気づく様子がない。城全体が、異様なほど静まり返っている。
ワイズマンは現れない。サフィールはどうしているだろう。エスメロードの作業は順調だろうか。残りの四姉妹は何をしている。デマンドの心に急激に焦りが戻ってきた。彼らが助けに来なければ、デマンドは本当に人質になってしまう。『邪眼』は傷つけられて使い物にならず、邪黒水晶のピアスは衝撃で吹き飛んでしまった。
しばらく扉の方角に耳を澄ませた後、マーズはちらりとデマンドを見た。
「ひょっとしてあなた、見捨てられたんじゃないの?」
かつて自分たちがされたように、彼女は敵に向かって精神攻撃を仕掛けようとしていた。デマンドには何故か、笑って否定することが出来なかった。
マーズが子供を産んでから、いや、あるいはもっと前から、忍び寄っていた不安の正体。部下たちの結束を、もっと強めておくべきだったという後悔が、今頃になって彼を苛んでいた。
この状況では何を言っても強がりにしか聞こえないと悟り、デマンドは無視を決め込んだ。どちらにしろ、セーラー戦士たちがここから脱出することは叶わない。
「他の仲間たちはどこにいるんだ。答えろ!……うっ」
叫ぶジュピターが急に耳朶に手を当てた。顔をしかめて、その場に屈みこんでしまう。
「まこちゃん!?」
セーラームーンが心配そうにその顔を覗きこむ。耳朶にある薔薇のピアスから手を離したジュピターは、指に付着した血を見て蒼白になった。
「これは……」

「大丈夫よ」
湖面に小石を一つ落とした時のような、静かな声が割って入った。
デマンドは背の痛みを堪え、崩れた入り口の方角を見やる。そこにはこの爆発の元凶であるセーラーマーキュリーが、ヴィーナスに肩を貸してもらう形で立っていた。
濃い青の髪と、一見柔和だが強い意志を秘めた眼差し。浴びさせられた精液は湯浴みによって綺麗に清められ、別人のように凛々しい佇まいである。
「痛み止めの薬を注入しただけだから。まこちゃんに内緒で、ピアスを摩り替えたの。小麦粉も、勝手に借りてごめんなさい」
ヴィーナスと色違いのドレスを着た彼女は、陵辱されて間もないとは思えぬくらい、明瞭な口調だった。先程の壊れた雌豚は、デマンドの錯覚だったのだろうか。あんな暴行の最中、頭の隅では計算高く今後の対策を練っていたのか。彼は、マーキュリーに畏怖を抱かずにはいられなかった。
「よく、この場所がわかったわね」
マーズが低い声で告げた。敵に話しかけるのと何ら変わらぬ口調に、デマンドは改めて、四守護神の間に出来た深い溝を知った。セレニティにしか興味のなかった彼は、その仲間がどうなろうと知ったことではないが、仲間割れがきっかけで自分の妃になる者にまで危害を加えられては困る。どうにか瓦礫の下から這い出ようと腕や背に力を入れるが、一向に動かない。
空気中には、まだ白い粉がちらほらと舞っていた。マーズが寝ていた寝台は無残に割れ、罅の入った家具からは細い煙が上がっている。再び引火したら今度こそ、連中ごと吹き飛んでしまうかも知れない。
悠長に話などしている場合か。早くここから出せ。そう怒鳴らないのは、彼のプライドの成せる業だった。セーラー戦士たちを図に乗らせないためにも、その気になればいつでも抜け出せるという表情を努力して保ち続けていた。
「音の聞こえた方角に進んだら、自然と辿り着いただけよ。デマンドのいるところには、必ずうさぎちゃんがいるはずだから」
マーズの態度にもめげず、マーキュリーは淡々と答える。
その内容に、デマンドはまた違和感を覚えた。城内にはまだ下っ端の戦闘員やドロイドたちが闊歩しているはずだ。この部屋に着くまでに誰の妨害にも遭わなかったと言うのは不自然すぎる。
「つまり」
マーズが息を吐いた。
「うさぎが一緒にいることを承知で、デマンドに爆薬を仕掛けたってわけ?」
デマンドとマーキュリー、そして赤子以外の人間が、一斉に息を呑んだ。セーラームーンは、言われたことの意味がすぐには理解できなかったらしく、戸惑ったように二人の表情を見比べていた。
「そうよ」
ぬけぬけと、マーキュリーが答える。自棄になった女ほど始末に終えないものはない、とデマンドは思った。そのような状況に彼女を追い込んだのは、他ならぬ自分たちであることを棚に上げて。そして、男の無神経な暴力によって変化したのはセーラー戦士たちばかりではないことを、この後思い知らされることとなる。
「相変わらずね。自分が恨みを晴らせれば、うさぎが死んでもいいってこと?」
赤子を抱くマーズの目には、はっきりとした怒りがあった。結果だけ見れば、マーキュリーの賭けは成功し、デマンドはこの有様なのだから、本来彼女は賞賛されるべきだ。だが、『心』を何よりも尊重する世界に生きるマーズは、友人の命を計画という秤に乗せたこの少女が許せないらしかった。
「いいじゃないか、みんな無事だったんだし……」
デマンドには激昂したジュピターも、仲間には甘い。そんな彼女にも、マーズは容赦なく噛み付く。
「まこちゃんは黙ってて!!」
考え方の違いなのだから、今そんな下らない事で揉めても仕方ないだろう。デマンドは醒めた気持ちでそれを見ていた。合流できたからと言って、元の鞘に納まるとは限らない。特に水と火の間には、どうやら徹底的な亀裂が生まれたようである。
「二人とも、もうやめてよ……あたしは、いいから……」
セーラームーンが泣き出しそうな声を出すと、さすがに二人は押し黙った。その場の気まずい空気を破るように、ヴィーナスが口を開く。
「ま、まあ、みんな無事に再会できたことだし。反省会はまた後で───」

コポコポ……
何かが泡立つような音が、デマンドの耳を打った。水音にいち早く気づいたマーキュリーが、不審の目をデマンドに向ける。
その時初めて、彼は頭上に、血液以外の冷たい湿り気を感じた。銀の髪が濡れている。上を仰ぎ見ると、崩れかかった天井から赤い液体が滴り落ちていた。
雨漏りとはまた別の濁った液体に、デマンドは目を見開く。次の瞬間、ゴムのように糸を引いた粘液が真っ直ぐに伸び、彼の上から瓦礫を除去した。途端に走る激痛に、デマンドは顔を歪ませる。
「仲間か!?」
ジュピターが身構える。粘つく赤い糸はデマンドを触手のごとく絡め取り、再び天井に吸い込まれるようにして消えた。
残されたセーラー戦士たちの動揺を、確認することが出来なかったのは残念だった。ドロイド『ジャーマネン』。彼女によって助けられたことを悟り、彼は安堵に大きく息をついた。
そのまま、別の部屋に転送される。真紅に包まれていた視界がさっと開かれ、目の前にカラベラスの姿を認めた彼は、ことさらに厳しい口調で告げた。
「遅いぞ、カラベラス。今まで何をしていた!」
背中の痛みや苛立ちが、彼に乱暴な言葉を吐かせた。手にも足にも、ドロイドの赤い粘液が張り付いて、まるで標本になった気分だ。
ジャーマネンはその姿を自在に分裂・変化させ、壁や床をすり抜けることが出来る。崩壊した部屋からデマンドを連れ出すには、確かに相応しいドロイドと言えたが、育ちの良い彼にはどうしても生理的嫌悪が勝る。他にやり方はなかったのかと、べとついた全身を見下ろしながら惨めな思いに囚われた。
しかし、普段なら恐縮して頭を下げるはずのカラベラスは、何故か不遜な目で彼を見上げた。その眼差しに、彼は一瞬怯む。
「『助かった』ではなく『遅い』ですか。やはりあなたは、第一声がそれなのですね」
───サフィール様とはあまりに違う。
声にならない彼女の声を、デマンドは聞いたような気がした。ジュル……と、粘液の一部が溶けて床に散る。床に広がった液体から無数の泡が生まれ、隆起した泡が膨張に耐え切れなくなったのか、ぱちんと爆ぜる。刷毛のように変化した液体が、デマンドの頬を愛撫した。それは、艶かしい美女が接吻をねだり、赤い舌を這わせるさまに似ていた。
「何、を……」
部下が彼を責めることなど今までなかったし、ドロイドが直接肌に触れることも初めてだった。自分の置かれている状況が、彼はまだ掴めないでいる。
女の舌が、ゆっくりと彼の襟元から懐へと忍び寄った。女の形をしていても、その粘液に体温はない。ひんやりとした液体が鎖骨から胸へ、胸から臍の辺りまでつうっと伝っていく。目には見えないけれど、彼の胴体には血のような赤い筋が一本出来ていることだろう。
その筋の先端が、何かを探るように脇の下へと戻り、そして袖口から服の外に飛び出し、今度は下半身へと潜っていく。冷たい手でまさぐられる苦痛に、デマンドは鳥肌が立ち、全身を波打たせた。手も足も赤い粘液で固定され、痛みは感じないものの反撃は出来ない。触手が動くたびに服に凹凸が生まれ、湿った液体を分泌するたびに、高貴な服は濡れて重くなっていく。
ジャーマネンがズボンのポケットに触手を潜り込ませ、目当てのものを探り当て引きずり出す頃には、彼の全身は唾液を塗りつけたように光っていた。顔には、粘液が這い回った跡がくっきりと残っている。
「……っ、く、はぁ……」
口の中のみならず、耳にまで粘液の侵入を許した。わずかながら感じてしまった己に、デマンドは動揺している。
「お許しください、デマンド様。このパネルは我々がお預かり致します」
ジャーマネンは粘液の先をマジックハンドのような形にして、その先に掴んだ四角い板をカラベラスに渡した。
「き、貴様!」
カラベラスの手の中で、板が光を反射して輝く。それは、デマンドが隠していた、反応炉の操作パネルであった。サフィールが万が一にでも、兄の目を盗んで操作をしないよう、常に手元に携帯していたのだ。
この女が、パネルを必要としているとは思えない。裏で糸を引いている人物を、彼は確信せざるを得なかった。
「サフィール……!」
───兄さん。いつかネメシスを、花でいっぱいにしようね。
幼い弟のあどけない微笑みが、瞼の裏に蘇る。侵略を開始してから、ドロイドの開発に没頭していった弟。いつからか笑わなくなった弟。セレニティに固執する彼を、一歩引いて見るようになった弟。それでも、何があっても、彼だけは付いて来てくれると信じていた。エスメロードより誰より、デマンドはサフィールを信用していたのだ。血を分けた、たった一人の弟が、自分を裏切った。
「おのれ……ん、ぐううっ!」
抵抗するデマンドの体を、ジャーマネンはいとも容易に繭状にくるみこんだ。邪眼を失い傷を負った彼は、普段の力が出せない。真紅に包まれて意識が遠くなる現状に、ただ甘んじた。



空中に水晶玉が浮かぶ。そこに映る光景を、ペッツは不安そうな顔で見ていた。
心配せずとも、粘液ドロイド・ジャーマネンに捕獲されたデマンドは、当分出ては来れないだろう。その間に、やれるべきことはやっておかなければならない。
玉座の間にて、サフィールはペッツに椅子を勧めたが、彼女は水晶玉を見つめたまま首を横に振った。新たに主となったサフィールが立っているのに座るわけにはいかないと言い張る。全く真面目なことだ、と彼は苦笑する。
かく言う彼も、デマンドの玉座には腰を下ろさない。そこまで図々しくはなかったし、端からプリンスの座などには興味もなかった。ペッツの体を気遣ったのは、あの後三回ほどせがまれて性交を続けたからなのだが、彼女は一向に負担に感じている様子はない。ルベウスに鍛えられたから、特別なのだろうか。
あの男の自信に溢れた顔を思い出し、サフィールは少し面白くない気分になった。一人の女性に入れあげた経験がないので、これが嫉妬なのかどうか未だに良くわからない。けれど、懸命に求めてくるペッツを可愛いと思ったのは事実だった。
「デマンド様は……さぞ、ご立腹でしょうね」
ペッツは、大きな胸の前で手を組み合わせる。まるで、自分の存在が兄弟が袂を分かつ原因になったとでも思っているようだった。
自惚れに酔った女の肩を、サフィールはそっと抱いた。水晶玉の中で、首尾を終えたカラベラスがこちらに向かって笑顔で手を振り、映像が切り替わった。しばらくして、突然消えたデマンドに呆然としているセーラー戦士たちの姿が映る。
城の警戒態勢を解き、四守護神をセーラームーンと合流させたのは、サフィールなりに考えがあってのことだ。今の彼女たちを一箇所に集めておいても、団結して反撃してくるとは考えにくい。むしろ、その逆の効果を彼は狙っていた。サフィールの冷たい眼差しはただ一人、ヴィーナスだけに注がれていた。有能な彼の最大の汚点であり、また最大の転機ともなった少女だ。
「君はヴィーナスをどう思っている」
投げやりな口調で、サフィールはペッツに尋ねた。折角だから、女性の目から見た意見も聞きたかった。
「怠惰で、軽薄で、過ちを起こしても反省のかけらも見当たらぬ小娘だと把握しております」
身も蓋もない答えが返ってくる。ペッツを抱く前ならいざ知らず、抱いて不安を取り除いてやった今でもそんな言葉が出てくると言うことは、冷静に見ても彼女はどうしようもない人間だということだ。
ヴィーナスを初めて間近で見たのは、毛布にくるまれてペッツに担がれた無惨な状態の時だった。想像していた美しさとはまるで違い、実際に話して見るとあまりの緊張感のなさに呆れると同時に、救われたのも事実だ。
一時でも、あの少女に心乱されてしまった事が、サフィールの心に重石となって残っていた。ヴィーナスという存在を完全に否定しなければ、彼の中の迷いは消えない。兄と同様、間違ったものは、正さなければならない。セーラー戦士たちが深みに嵌まろうと、これはサフィールなりの正義なのだ。
「確かに、他の守護神のためにも、彼女はそろそろ悔い改めるべきだ」
勝手に結論付けて、水晶玉に映るセーラー戦士に見入った。四姉妹やルベウスが暴走したせいで、彼女らは充分すぎるほど傷ついた。男である自分には想像もつかないが、下賎な連中に陵辱されるのは、さぞかし辛かっただろう。
「口で説くよりも、実際に見てもらった方がいい。例のものを持ってきてくれないか」
四守護神の結束を防ぐために、彼は初めて、卑劣な行為に手を染めようとしていた。
「君のことだから、処分せずに取ってあるんだろう?」
思いもよらなかったであろう指示を受け、ペッツは目を瞬いた。
「は……」
肝心の主語が欠けていたため、理解に時間がかかったようだ。数拍置いて、青年の真意を悟り、ペッツは顔を赤くする。忘れていた過ちを、今更掘り起こされた、といった顔だった。サフィールは一度記憶したことは忘れず、また使えるものは何でも使う主義だった。
「し、しかし、サフィール様の恥に……」
口ごもるペッツに、彼は意地の悪い質問を投げかける。
「僕に最初に恥をかかせたのは?」
「……私とコーアンです」
彼女はそう答えるしかない。あまり苛めるのも可哀想に思い、彼はすぐに持ってくるように命じた。色々なものにぶつかりながらペッツが姿を消すと、背後でくすくすという忍び笑いが聞こえた。
「しばらく見ないうちに、随分腹黒くなったじゃないの。見直したわ」
「エスメロード……」
別室で休ませておいたはずの翠の美女は、手当ての甲斐あってもうすっかり体力を回復していた。これならすぐに戦力になる、とサフィールは冷静に算段した。
エスメロードは髪の毛先を扇子で弄びながら、気だるげに天井を見上げる。
「ま、取り敢えずは感謝しておくけれど。私の出番を取っておいてくれなきゃ嫌よ」
「判っている。僕に裏切られた兄さんを救うのは、お前の役目だ。その前にまず、ワイズマンを始末しなければならない」
デマンドをワイズマンから引き離したのはいいが、姉妹やエスメロードだけでは心許ない。何より、サフィールは技術部門担当で、戦闘力は地球人並みであった。
このままでは勝てる要素がない。そこで思いついたのがセーラー戦士の存在である。今の彼女たちならきっと、自分の思うがままに動いてくれる。姉妹たちやエスメロードを傘下に入れたことで、彼はいつになく強気になっていた。
「ワイズマンを倒して、その後はどうするのよ。地球から手を引くつもり?」
色気を含んだ咎めるような目が、サフィールを見つめる。
「それも考えている。研究のためのデータは、もう十分取れた。あの星は、邪黒水晶のパワーに耐えられるほど強くはない」
ワイズマンの言うままに邪黒水晶の巨石を打ち込んだら、今度こそあの星はお終いだ。地球人が何人死のうが構わないが、生活していけない星を侵略しても意味はない。
「退却なんて、考えたこともなかったわ。デマンド様が納得しないし、ルベウスの死だって無駄になるじゃない」
傲慢な美女の口から零れた意外な言葉に、サフィールは首を傾げる。
「ルベウスとは犬猿の仲だったはずだが……」
「べ、別に同情してるわけじゃないのよ。ただ一応、ずっと共に戦って来た同志だし」
扇子を扇ぐスピードが、心なしか速くなった。後れ毛がまといつく彼女の耳朶に、既にピアスはない。それでも彼女の心には、常にデマンドがいる。
「お前はセレニティさえ排除できればいいんだろう。姉妹たちも男に酷い目に遭わされて、地球は懲り懲りだと言っている。そもそも、地球侵略を進言したのは兄さんではなくワイズマンだ。それに」
言葉を切り、サフィールは声を潜めた。
「───彼の真意は、侵略ではない。単なる破壊だ」
「まぁね」
薄々気づいていたのか、エスメロードは扇子で口元を覆い、目を細めた。
「ルベウスはもともと壊すのが大好きな性分だから、ノリノリだったけど。支配するはずの地球が崩壊したら元も子もないわね。……あの男も悲しむだろうし」
「あの男?」
「何でもないわ。こっちの事」
エスメロードは機嫌良く鼻歌を歌っている。デマンドを裏切ることに、躊躇している様子はなかった。何が彼女を変えたのか、サフィールには思い当たる節がない。
「まあ、セレニティに思い知らせてやれれば、私は満足よ。この分じゃ、放っておいても、未来は変わるでしょうしね」
ブラック・ムーンの期待している未来。セレニティとエンディミオンが結ばれず、クイーンが即位しない世界。月の王国の血統が途絶え、暗黒の一族が繁栄する未来。
その未来図の中に、必ずしも地球侵略は含まれない。クイーンへの復讐が、彼らの最終目的なのだから。そしてそれは、半ば果たされたようなものだった。



何故、全てを憎むことが出来ないのだろう。
消えたデマンドを思いながら、うさぎは自らの身をかき抱いた。命に代えてもデマンドたちを滅ぼす、そう誓ったのに、また迷い始めている。仲間を傷つけた憎い相手、その相手に身を庇われた。銀水晶を操る者としての慈悲の心が、彼女を翻弄していた。デマンドを許すことは、四守護神の犠牲を無駄にするということだ。うさぎ個人の感情で彼らを許容することは出来ない。
(現に、レイちゃんは子供まで産まされている)
強く美しく、誰より気高かったレイは、先程から憤りのこもった表情を亜美へと向けていた。
───今の爆発で、うさぎが死んだらどうする気だったのだ。
自分のためではなく、うさぎのために、彼女は憤慨している。
(それは違うよ、レイちゃん)
亜美は、うさぎを見殺しにしたわけではない。うさぎの強運と、生命力に賭けてくれただけだ。丸裸にされた亜美が、あの状況で取れる反撃の手段など、限られている。けれど亜美を庇う旨の発言をすれば、レイの怒りに油を注ぐだけだろう。大事な仲間、どちらも大好きなのに、彼女たちを救う言葉一つかけられない。
「ねえ、みんな……せっかくまた会えたんじゃない。こういうの、やめましょう?」
一歩前に出る美奈子に、皆の視線が集中する。
「今のあたしたちがやらなきゃいけないことは、ここから脱出する手段を考えることよ。喧嘩なら後でいいじゃない」
セーラー戦士の中でただ一人、刻印を焼き付けられていない美奈子の強い口調に、その場にいた誰もが言おうとした言葉を飲み込んだ。
───あなたに言われたくない。
うさぎでさえも、この状況下での美奈子の明るさに戸惑いを隠せなかった。彼女はこれほど、他人の痛みに鈍感な少女であったのかと、疑問が残るのだ。
敢えて痛みから目を背けているのと、最初から知らないのとでは、大きな差がある。無論うさぎとて、ずっと一緒にいたわけではないから、彼女がどんな扱いを受けていたのかは想像することしか出来ないが、女としての本能で、美奈子がまだ汚されていないことが判ってしまう。
そしてそれを信じたくない気持ちも強かった。額ではなくて、レイのように別の場所に刻印があるのかも知れない。そんな淡い期待まで抱いていた。深い傷を負った者たちが集うこの場において、美奈子の存在は明らかに浮いており、あまりにも異質だったのだ。
「その件なんだけど、あたしはここに残るかも知れないわ」
レイの低い声に、うさぎは驚いて彼女の腕の中の赤子を見た。母親に危害を加える存在が去ったのを知ってか、赤子は既に寝息を立てている。使いようによっては最強の盾ともなる、まだ名前も付いていないルベウスの子供。
レイはルベウスを愛していないと言い切った。それはそうだろう。強姦された相手にすんなり惚れるのは、虚構の世界だけの話だ。それでも、赤子に対する愛情とはまた別の話なのだろうか。
戸惑いながら見つめるうさぎに、レイは力の無い笑みを浮かべた。
「心配しないで。……母性に目覚めたとか、そんなんじゃないのよ。あたしはカラベラスとは違って、きっと根っから戦士の血が流れているのよ」
うさぎを裏切るつもりはないのだと強調しながら、彼女は俯く。
「産んだ以上、とことんこの子を利用させてもらうの。どうせ消えない刻印なら、地球から手を引かせて、最悪の場合、デマンドと刺し違える……」
「そんなの駄目だ!みんなで地球に、以前の生活に戻るんだよ!!」
まことがレイの肩を掴んだ。レイは、その白い髪を痛々しそうに見ながら、首を横に振る。
「地球に戻ったって、未婚の母として世間から白い目で見られるだけよ。まこちゃんならそれに耐えられる?普通の可愛いお嫁さんが夢だったんでしょう?」
レースやフリルで彩られた部屋、甘いお菓子やハーブの香りに包まれた部屋で過ごす乙女の夢。誰よりもそんな未来を願っていたまことは、閉ざされた将来を思い沈黙するしかない。
辛い出来事も人生の経験の一つだと女性が思っても、世間の男性はそうは思ってはくれない。処女を失った過程や、そこに到る心理などはどうでも良く、ただ結果のみを求める。何も知らず無垢であることだけが善なのだと語り、一方的に女性の『性』を責め、面白おかしく中傷して楽しむ、それが世間というものだ。
「子供を置いていくという選択肢は無いの」
亜美が静かに口を挟む。両親が離婚し母親に引き取られた彼女は、捨てられる子供の心理もよく理解している。片親だからと言って、必ずしも不幸だとは限らないことも。
ただ、レイが子供の幸福を願うならば、ブラック・ムーン一族に復讐する機会も永久に失うこととなる。彼らの組織を滅ぼせば必然的に、子供を育ててくれる環境も消えてしまうことになるからだ。何も出来ない赤子をたった一人、宇宙に放り出して、自分は地球に戻る。確かに、それもまた一つの道だろう。
「亜美ちゃんなら、そうするの……?」
うさぎは愚かな質問をした。亜美は、怒る様子も無く静かに首肯した。
急に、突き上げるような寒気を覚えた。デマンドに陵辱された子宮を、肌の上から押さえる。好きでもない相手に孕ませられたレイの苦痛に思いを馳せれば、産んだだけでも充分義務は果たしたのだから、後は子供の人生だとも思う。それに対して責めるのは、想像力を欠いている人間のすることだ。
(あたしも、妊娠するの?まもちゃんじゃなくて、デマンドの子を)
月の女王の子宮からは代々、一人の女児しか産まれない。対して、ブラック・ムーン一族の王位継承者は、男児でなければならないはずだ。それを承知でうさぎを妃にと望むデマンドは、プリンスという立場を無視し、個人的な感情で動いているとしか思えなかった。それを許す一族の仲間たちも、どうかしている。目的を忘れて好悪の情のみに突き動かされている辺り、破滅願望があるとしか思えない。
彼は一族の繁栄を隠れ蓑にして、ただクイーン・セレニティだけを求めている。それが、うさぎには怖いのだ。
(あたしがデマンドの子を産んだら、ちびうさは、どうなるの?)

「もうっ、だから、湿っぽいのはやめましょうよー」
美奈子が再び明るい声を上げた時、彼女の背後に突然、邪黒水晶のピアスが浮かび上がった。気づいた全員がそちらを見、美奈子が振り返るのが最も遅かった。
敵が攻撃を仕掛けてくるものだと思ったが、そうではなかった。うさぎたちの目線よりも少し上の位置にそれは浮遊し、三角形の白い光を発した。光は真っ直ぐに伸び、爆発の影響で罅割れた壁面に、映写機のようにひとつの光景を映し出す。一同は、固唾を呑んでその光景に見入っていた。

『……っ、んっ、ううん、んっ』
暗い部屋で、椅子に座る男性の前に、一人の少女が蹲っている。
『んんっ、あ、んむっ……』
くぐもった少女の声が、誰のものであるのか、最初うさぎにはわからなかった。少女は顔を伏せ、一心に男性のモノを咥えていた。
『そうよ、これは親切にしてくれたお礼。愛情には愛情を返すのが、Vちゃん流なのよ』
俯き、頭に布を巻いた少女は、確かに『V』と名乗った。うさぎは思わず、振り返って美奈子の顔を見た。
(なに、これ?)
美奈子の顔は、蒼白になっていた。映像の中の光景は、頭に巻いた布もそのままで、ただ表情だけが違った。どう見ても、陵辱されている様子ではない。嬉々として、というのが正しい。うさぎは何故か薄ら笑いがこみ上げてくるのを止められなかった。
(違う……違う。美奈子ちゃんがこんなことするはずない)
縋るように美奈子を見るが、彼女は凍りついたように固まって動かない。唇だけが、嘘でしょう、という形にかすかに震えた。
それは果たして、何に対する『嘘でしょう』なのか。この光景そのものが嘘だと友人が断言するのなら、うさぎは喜んで信じよう。けれど美奈子の表情が明らかに、これが現実に起きた出来事であることを物語っている。
壁に映し出される映像は、テレビと違って、見たくなくともスイッチを切ることが出来ない。延々と青年と少女の痴態を映し続けて、止まることを知らない。
『でもサフィールって、偉いわよね。大人の余裕って言うかー、他の男の人みたいにガツガツしてないわ』
男性に媚びへつらい、名前を呼びながら奉仕を続ける少女の姿が、そこにはあった。仲間が陵辱を受けて傷ついている間、彼女は進んで身体を売って愉しんでいたのだ。そう見せ付けるような映像だった。
(じゃあ、これは……この相手は、あの澄ましたサフィール?)
うさぎは信じられない思いで、美奈子を見た。何故か一人だけ、刻印を焼き付けられることを免れた美奈子。彼女や亜美やまことが着せられているドレスが、急に汚らわしいもののように思えてくる。
『企んでなんかいないわ。あたし、頭を使うのって苦手だもの』
口元から精液を滴らせながら笑う少女と、目の前に立っている四守護神のリーダーの顔が、重なった。うさぎはまだ現実を受け止めきれず、他の仲間たちは、恐ろしいほど冷たい表情で、じっとその痴態に見入っている………。
彼女たちが何を思い、怒りの対象をどこへぶつけようとしているのか、うさぎには痛いほど判ってしまう。
「……やめて……」
美奈子が力なく呟いた。彼女も、過ちだと感じているのだろうか。それともいつもの彼女のように、喉元過ぎればまた同じ事を繰り返すのだろうか。
『嘘ばっかり。まだ何か隠しているくせに』
映像の中の美奈子が、調子付いて更に口を開く。
「やめて、やめてっ!」
どんなに否定しても、過去の自分の行動は消す事が出来ない。娼婦に身をやつした処女は、陵辱されても決して敵に媚びなかった仲間たちの行動を否定するかのように、あっさりと敵の前に跪いて男根を啜る。
『意地悪。教えてくれたっていいじゃない』
「やめてーーーーーっ!!」
美奈子が絶叫するのと同時に、映像がぶつりと切れた。その沈黙を割るように、青年の声が部屋の中に響く。
『今更、恥じらうこともないだろう。仲間に偽りを告げてまで、リーダーの地位に縋りたいか』
うさぎに向けたのと同様、冷たい声だった。映像の中の、大人しげな青年からは想像も付かなかった。サフィールを変えてしまったのは美奈子なのだ、とうさぎは思った。それも、悪い方向に。
「『蒼のサフィール』……あの人が、敵の中枢(ブレーン)……」
亜美は、やや興味深げに顎に手を当て、呟いた。今までとはどこか違うその前向きな反応に、うさぎが気を取られる間もなく、レイの声が美奈子を貫いた。
「嘘よね、美奈子ちゃん?」
否定してほしいと言う必死な願いが、その声には宿っていた。亜美やまことと仲違いした経験から、今度は間違えない、友人を信じたいと思っているのだろう。
正直な美奈子は、否定しなかった。偽の映像で、敵のでっちあげだと、ごまかすことが出来なかった。
「美奈子ちゃんがミーハーで、美形に弱いって事は知ってるわ。でも、まさか、あたしたちが苦しんでいる間に、こんなことしないわよね?」
「……っ、レイちゃん……」
「友達がみんな犯されて、孕まされて、死にそうな目に遭ってる時に、こんな、敵とまるで恋人同士みたいに、いちゃいちゃと……嘘よね、嘘でしょ!?」
もし、両手が赤子を抱くために塞がっていなかったら。うさぎは、レイが美奈子に掴みかかるのを、命懸けで止めなければならなかっただろう。
(ほんとなんだ。美奈子ちゃん、サフィールと……)
「嘘って言ってよ!」
血を吐くような叫びだった。美奈子は耳を塞ぎ、その場に膝をついた。逃げ出さなかっただけ立派と言えるだろう。
後悔しているにしろ、いないにしろ、彼女が無思慮であったことは誰の目にも明白である。責められて然るべきで、まこともそう思っているのか、今度は庇わない。
「あたしだって、知らなかったよ。美奈子ちゃんがこんなことしてたなんて」
その瞳には、怒りよりも悲しみがあった。十番中学の校門前で別れてから、ずっと気にかけていた友人が、敵の男とよろしくやっていたと知れば、いかに寛容な少女でも笑ってはいられまい。
うさぎにはサフィールの人となりは判らないが、これが偽の映像だとは思えなかった。捕らわれた美奈子が未だ処女であることが、何よりも彼の誠実さを証明している。それすらも、彼の計算の内ではあったのだが。
「恋人でもない男に、どうしてこんなことが出来るの?あなたみたいな人がいるから、女はみんな淫乱だとか、強姦されても喜んでるなんて思われるのよ!!」
レイの主張は尤もだった。子供を産んだからルベウスのことは許したのだと、さらには最初から相思相愛だったのではないかなどと、そんな目で見られることが、何よりも彼女は耐えられない。それなのに、美奈子はその理論を裏づけするような迂闊な行動を取った。女の価値を下げるようなことを、よりにもよってセーラー戦士のリーダーが率先して行った。それが許せない。
室内の温度が、レイの怒りによって一気に高まったような気がした。光の消えた邪黒水晶から、サフィールの静かな声が流れてくる。
『マーズ、マーキュリー、ジュピター。今の映像をどう解釈するかは、君たちの自由だ』
自由と言いながら、明らかに美奈子の孤立を狙っている台詞に、うさぎは唇を噛んだ。悔しいが彼のやり方は的確だ。こんなものを見せられて、平静でいられるはずが無い。うさぎでさえもほんの一瞬、美奈子を憎らしいと思ってしまった。
『君たちに乱暴した連中は、既にペッツやカラベラスが始末した。陵辱を命じたコーアンも、近々断罪する予定だ。男がみな下種な輩ばかりではない事は、判って欲しい』
優しく、労りに満ちた言葉に、レイとまことは顔を見合わせた。彼の言葉は、傷ついた彼女たちの心に浸透する、妖しい魔力を秘めていた。ただ亜美だけは変わらず冷静な表情で、その声に聞き入っている。
デマンドの寵愛を受けるがゆえに、サフィールの厚意の対象外であるらしいうさぎは、必死に首を横に振った。美奈子を責めては、敵の思う壺だ。彼は、傷ついたセーラー戦士の心に付け込んで、自在に操ろうとしている。
「何が目的なんだ、あんたは」
揺れる心を抑えるように、まことは告げた。陵辱した男たちが既にこの世にいないと知らされた時、彼女の表情が一瞬崩れたのを、うさぎは見てしまった。
「レイちゃんの出産を助けてくれたり、あたしたちにドレスを着せてくれたり、敵のくせに何を企んでるんだ」
もう暴行は受けなくて済むのだと知らされた途端安堵してしまうのは、人間ならば仕方の無いことだ。
「まこちゃん、安心したら駄目よ。いくら甘い言葉を吐いたって、この男はデマンドの実の弟なんだから」
憎々しげに呟くレイを横目で見ながら、亜美が一歩前に踏み出した。黒光りする邪黒水晶に向かって、語り掛ける。
「ドロイドを使ってデマンドを救出したのは、あなたね」
『ああ、そうだ』
うさぎの気のせいかも知れないが、亜美が相手だと、サフィールの声が少し和らいだように感じられた。考えてみれば、この二人は知性派同士、相性が良さそうだ。
「でも、デマンドはそこにはいない。どこにいるの?」
『……何故わかる?』
問いかけを無視して、亜美は更に言葉を続ける。
「私たちを攻撃しないで、お兄さんだけを急いで連れ出したのは何故?まるで、拉致するみたいに」
『傷の手当てをしないといけないからな』
「嘘ね。あなた、デマンドの動きを封じたかったんだわ。彼のいないところで事を進めたかったんでしょう」
その台詞で初めて、うさぎはサフィールに感じた違和感の正体に気づいた。デマンドの忠実な右腕であった彼は、兄の命に反した行動を取ろうとしている。爆発騒ぎに便乗して、邪魔になった兄を何処かへと連れ去った。そう考えればしっくりくる。
『察しがいいな、マーキュリー。確かに、兄さんには別室で少し頭を冷やしてもらっている』
あんな粘液状のモノに全身を包まれては、冷やすどころの騒ぎではない。彼は本気でデマンドを敵に回す気なのだ。これを好機と見るべきか、それとも敵の罠なのか。
「仲間割れ、と考えていいのかしら」
その場にいた誰に対しても、口を挟む猶予は与えなかった。レイが戦いの中で最も輝くように、こんな時の亜美は最も生き生きとして見える。
「だとしたらデマンドとあなたの意見は、どこまで一致していて、どこで食い違っているの?」
それが判らない限り、信用には値しない。亜美の目はそう言っていた。うさぎは、つい先刻まで、ぼろぼろに陵辱されていた亜美の姿を思い出していた。レイの子供を殺せ、と命じた挙句に暴力に訴えてきたコーアンの時とは、あまりにも違う。相手の目的が全く読めなかった。
『兄さんは、遅かれ早かれ君たちを始末するつもりらしい。だが僕は、「三」守護神には何の恨みも無い。僕が軽蔑しているのは、まやかしの光で人々を惑わすセーラームーンと、今見てもらった通り、俺に猥褻行為を働いたヴィーナスだけだ』
「なっ……!」
あまりの言いように、美奈子の頬は怒りに染まった。
「何を言ってるのよ!あなただって最初は喜んでたじゃない!いいえ、盗み聞きされてさえいなければ、今だって!!」
ほんの少し好きだった相手に、あっさり裏切られた。彼女の表情はそう語っていた。一見優しげで、懐柔しやすそうな青年の取った行動は、美奈子も予想外だったに違いない。
うさぎにも、おおまかな事情が見えてきた。美奈子は美奈子なりに、敵から情報を引き出そうとして、サフィールに色仕掛けで接近した。彼の方も満更ではなく、途中まで良い感じにはなったのだが、恐らく先程の光景を姉妹らに盗聴、盗撮された。その事で美奈子を逆恨みしたサフィールは、彼女が最も傷つくやり方で、その映像を公開したのだ。
卑怯と言えば卑怯。しかし、デマンドや敵の男たちから受けた陵辱行為に比べれば、まだ生易しい方だと思えてしまう。
「美奈子ちゃん、少し黙っていて。……それで、あなたの要求は?」
『話が早くて助かる。ブラック・ムーン一族のために、戦ってくれる気はないか?』
思いも寄らない言葉に、うさぎは耳を疑った。これまで散々、セーラー戦士たちを苦しめ、虫けらのように蹂躙してきた敵の、どの口がそれを言うのか。レイも、亜美も、まことも、そして美奈子も、気持ちは同じはずだった。
「面白いことを言うのね。あなたの部下が私たちに何をしたか、もう忘れたの」
静かな表情の下に怒りを滲ませながら、亜美が答える。四守護神の陵辱に関して、サフィールやデマンドは何も知らされていなかったらしいが、そんな事は言い訳にもならない。
好戦的なルベウスやあやかしの四姉妹を抑え切れなかったのは、彼ら兄弟の至らなさ故だ。しかもデマンドはうさぎの体を好きなように犯し、妃にするなどと世迷言を吐いている。そんな連中に、どうして力を貸そうなどと思えるものか。
少女たちの冷ややかな視線に気づいているのか、いないのか、サフィールは平然と言葉を続ける。
『君たちのリーダーがしでかした事と、同じようなものだろう。何なら、今の映像をもう一度流そうか?』
仲間たちの目が、美奈子に集中する。いたたまれなくなったのか、美奈子は目を伏せて俯いてしまった。
『簡単に被害者になれる女性と違って、男は言い訳が利かない。いくらヴィーナスには手を出していない、一方的に迫られただけだと断言しても、生憎、証明できるものは何も無い』
ややあって、サフィールの溜め息が聞こえた。
『この一件で、あやかしの四姉妹の不興を買ってしまい、迷惑しているんだ。君たちはともかく、少なくともヴィーナスには、こちらのやり方を責める資格は無いな』
つまり、お互い様だ、ということを彼は言いたいらしい。正論ではあるが、何故これほどまでに腹が立つのだろう。
サフィールは、レイたちに同情を寄せる反面、うさぎは犯されて当たり前だとも言いたげに、先程から存在を無視している。美奈子のように、面と向かって詰られた方が、まだましだった。
彼にとって、うさぎは兄を誑かした魔女であり、人々を支配する独裁者であり、この世に存在してはいけない存在なのだろう。激しい憎悪をぶつけられるだけが「憎しみ」ではないのだと思い知らされ、とても悲しくなった。
『信じてはもらえないだろうが、僕は本当に何も知らなかったんだ。四姉妹の指揮権はルベウスにあったから、手も口も出せなかった』
「勝手な事を……」
レイが吐き捨てたが、その声にはあまり力が篭っていなかった。セーラー戦士とて、互いの行動を常に監視し合っているわけではない。味方同士であっても、誰がどこでどんな行動を取るか、うさぎにも把握し切れていない。だから、サフィールの言う事にも一理あるとは思う。
自分の与り知らないところで、仲間の事に関して責められるのは、辛いものだ。美奈子の取った行動に対してレイたちが詫びる必要が無いように、サフィールも必要以上の謝罪はしたくない、と言うのだろう。
これは、戦争だ。殺されなかっただけ運が良い。感情的に相手を責めるより、互いの妥協点を見つけ、双方にとって明るい未来を手繰り寄せるべきなのだ。
そうは思っても、忌まわしい陵辱の記憶は決して忘れられはしない。敵を許す寛容さは、味方を傷つける無神経さの裏返しでもあり、美奈子の存在がまさにそれを証明している。
「今は違うの?」
亜美の問いかけに、サフィールは誇らしげに答える。
『ああ。姉妹もエスメロードも、既に僕の傘下に加わった。もう安心していい』
彼はいつの間にか、ブラック・ムーンの女性陣を味方につけていたらしい。我の強い四姉妹のみならず、あの「デマンド様命」のエスメロードまでも従えるとは、やはり只者ではない。
「それだけの手腕があるなら、私たちの力が必要とは思えないけれど」
亜美が思った事を、うさぎもまた思った。力を失ったセーラー戦士が、一族の役に立てるとは思えない。子供を産ませるためでもないのなら、認めたくは無いが自分たちは無価値だ。
そして、圧倒的優位なはずの敵が和解を求めてくる状況で、考えられるケースはいくつかある。首謀者の死か、物資が尽きたか、目的の変更か、あるいは。
「……共通の敵が現れた、ということ?あなたやデマンドの力を以ってしても、敵わないほどの」
うさぎは思わず亜美の横顔を凝視した。よりにもよって一番辿り着いて欲しくない結論を、彼女は導き出してしまった。
二度も陵辱され、深い傷を抱えているはずの亜美は、不思議とサフィールに恐怖を感じている様子は無い。犯された彼女が一言「もう戦いたくない」と言えば、うさぎは快く了承するつもりだった。しかし今の亜美からは、目の前の問題を解決しようとする強い意思の力を感じる。亜美を、見くびっていたのかも知れない。傷ついてもう立ち直れないだろうから、後は自分ひとりで戦おう、などと決めつける事は、逆に彼女たちに対して失礼だったのかも知れない。
『聡明さが戻ったようで何よりだ。姉妹たちも君くらい賢ければ良かったんだが』
良かった、という言い方に、うさぎは不吉なものを感じた。亜美は、褒められた事に特に何の感慨もなさそうな口調で言った。
「それで、私たちをそいつと戦わせて、相打ちにでも持って行きたいのかしら」
『そうなってくれるのが最もいい。しかし、逃げる者をわざわざ追いかけて殺すような真似は、僕はしない』
「………あなたたちは、地球を侵略に来たのでしょう?」
事情がよく飲み込めないらしく、亜美は眉を寄せた。セレニティやセーラー戦士が生きている限り、地球の支配権は永遠に彼らのものにはならない。
彼個人が生かしておいてもいいと思っていても、どのみち地球が闇の一族の手に堕ちれば、長く生きてはいられない。邪黒水晶の瘴気はそれほどのものなのだ。
『地球を死の星にする気はないんだ。そして、邪黒水晶の力を以ってかの星を支配するのは、不可能と断定した』
レイたちがかすかに息を呑む。うさぎも、今聞いた事が信じられなかった。
「どういうこと?」
驚愕にどよめくセーラー戦士たちを尻目に、彼は更に驚くべき事を口にした。
『僕の言う通りに動いてくれたら、無事に地球に帰すと約束しよう』
言い放った、次の瞬間のことだった。
空中に浮いていた邪黒水晶に、ピシリと一筋の亀裂が走った。一同は思わず身構えたが、それ以上の変化は無い。
『サフィール様!』
若い女の、焦ったような声が聞こえる。この声は、ペッツだろうか。
『申し、……通信が、傍受……以上の……は、不可……至急……下さい!』
音声を伝える装置の役割を果たしていた邪黒水晶に、何らかの障害が発生したことが判った。相手の声は途切れ途切れになり、何を言っているのか聞き取りづらい。
『……思ったより早かったな。マーキュリーが派手に……してくれたおかげで、……に勘付かれたか。出来ればもっと……が欲しかったが……仕方ない』
通信は途絶えた。それと同時に、垂直に立っていた邪黒水晶が横に傾き、まるで方位磁針のように出口の方角を指し示す。
崩壊した扉から、寒い外気が流れ込んでいた。その外は、長い回廊といくつもの黒い部屋が続いている。水晶は、示す方向に来い、とでも言うように、浮遊しながらゆっくりと進みだした。
「どうする……?」
水晶を追って行くべきか、凛々しい顔に戸惑いを滲ませながら、まことが尋ねる。
「罠かも知れないわ」
レイは相変わらず頑なであった。
「じゃあ、ここでずっと震えてろって言うの?」
美奈子が言うと、今度は誰も返事をしなかった。
「行きなよ、みんな。あたしたちは、まもちゃんとちびうさを探してみる」
仲間に白眼視された美奈子を気遣って、うさぎは『たち』の部分を強調した。美奈子のオレンジ色のドレスの裾を引っ張り、あなたを決して独りにはしない、と言外に告げる。
彼女がセーラーVとして輝いていた頃、うさぎはただの泣き虫の少女で、うさぎがプリンセスとして輝けば、彼女は影に徹する。自分たちは、合わせ鏡のようによく似ていた。サフィールとデマンドも、同じようなものだろう。デマンドの陰に隠れて目立たなかった彼が頭角を現してきた今、デマンドは追い詰められて身動きが取れない。だから、うさぎたちが自由に動ける今がチャンスだ。
「探すって……あてでもあるの?」
レイの問いに、うさぎは曖昧に笑った。話しても、きっと信じてはもらえないだろう。もう一人のセーラー戦士の存在を。
────お行きなさい、セーラームーン。あの方は、私が探し出して必ず後からお送りします。
あの時、セーラープルートはそう言ってくれた。何故か、少し寂しげな笑顔を浮かべながら。
時空の狭間で独り戦う、孤独な戦士。彼女は信用できる、とうさぎは思った。時空の扉を抜けて、デマンドに拾われたあの場所で、今度は自分が待ってみよう。
「サフィールが憎んでいるのは、あたしと美奈子ちゃんだけだもの。みんなにはきっと悪いようにはしないと思うわ。お願い、逆らわないで、言う事を訊いて」
レイの目が悲しげに光る。子供を産まされて尚闘志を失わず、セレニティを絶対の主と定めるセーラーマーズの一途な炎が、うさぎを苛む。助命を請うために、プリンセスを見捨てる。今になって、それをしろと言っているのか。自分のこれまでの抵抗は無意味だったと言うのか。目がそう告げていた。
「このまま大人しく飼われるつもり?あたしたちのために、犠牲になる事は無いのよ!」
レイは、うさぎがデマンドの妃になる事で、四守護神の命を救ってくれるものだと思っている。確かに、最初はそのつもりだった。だが考えたらデマンドがそんな約束を守ってくれるはずがない。残された道は、やはり戦いだ。
デマンドがうさぎに偏執さえしなければ、ベルチェが亜美を襲わなければ、ルベウスがレイに惚れなければ、ペッツがまことを貶めなければ、美奈子がサフィールに手を出さなければ、こんなにややこしいことにはならなかったのだ。人の感情とは、何と厄介なものだろう。それぞれの想いが複雑に絡み合って、何が正しいのか判らなくなる。
「違うよ、レイちゃん。犠牲になるのは……もう一度辛い思いをしなきゃならないのは、レイちゃんたちの方。こんな目に遭わせておいて、まだ戦えだなんて」
サフィールは『共通の敵』とやらを倒すために、レイたちを捨て駒のように利用する気だ。選ばせてやると言いながら、選択権など、最初から無いようなものだ。
「でもさ」
まことがふと思いついたように、呟く。
「あたしたちはご覧の通り、変身できないじゃないか。どうやって敵と戦わせるつもりなんだ……?」
うさぎも今になってその問題点に気づいた。皆の視線が、回答を求めて一人の少女の元へ向かう。こういう時、頼りになるのはやはり彼女しかいない。
「二つだけ、方法があるわ」
やはり亜美には察しがついていたらしい。しかしその顔には、甚だ不本意、と書かれている。
「一つは、ブラック・ムーンの刻印を消すこと……これは、うさぎちゃんとレイちゃんも聞いたはずだけど、人間の男性と交わることによって、刻印は消える」
「ええっ!?」
まことは驚きに目を見開いていた。
美奈子はペッツから訊いた事をそのまま亜美に伝えたらしい。うさぎは水晶玉の光景で同じくそれを見ていたし、レイも姉妹たちに知らされた。が、その場にいなかったまことにとっては初耳だったようだ。
妊娠が判る直前、レイはその不本意な手段を使っても構わない、と断言していた。もう一度変身するためなら何でもする、とデマンドの前で言い切った。しかし、出産を経た今はどうなのだろう。
「そ、そんなことで刻印が消えるのか……?何だ、一生消えないわけじゃないんだ」
絶望に染まっていた瞳に少しだけ力強さが戻ってくる、そんなまことに、レイは呆れた声を出した。
「安心してる場合じゃないでしょうが。それにはまず、ここからの脱出が不可欠でしょう?」
ブラック・ムーン一族の青年たちはいわば異星人だから、寝ても無意味だ。自分の星の人間と交わらない限り、もう一度変身できることは、有り得ない。
「そっか。そうだよな。いくら元に戻れる方法が判っても、ここには地球人の男なんて、一人もいないもんな」
────ここには地球人の男なんて、一人も……
うさぎはぼんやりとそれを聞いた。まことの言葉が、何故か一語一語、ゆっくりと耳に入ってくる。
それを反芻し終えると、頭の中に恐ろしい考えが過ぎった。否定すればするほど、それは最も有効な手段として、彼女の中に妖しく根を下ろす。
青ざめているうさぎに気づいたのか、亜美が意味ありげに見つめてきたが、自分の話を優先させたいのか、今は何も言いはしなかった。目を伏せ、更に言葉を続ける。
「そしてもう一つは、邪黒水晶のピアスをつけて、ダーク・パワーと呼ばれる異能力を発動させること」
邪黒水晶のピアス。思えばルベウスやあやかしの四姉妹の耳には、常にそれがあった。彼らのパワーの源だ。
「ペッツがまこちゃんを痛めつけた時に、置いていったものを分析したの。邪黒水晶には、力を増幅させる効果がある。ドーピングみたいなもので副作用が強いけれど、大きさによっては銀水晶に匹敵する力を持つ」
亜美は深く息を吐いた。
「サフィールは恐らく、こちらの手段を取るつもりでいるわ。ピアスをつけられてしまったらもう、どうしようもない」
「あの男の操り人形にされるってわけね。刻印を焼き付けられた上に、共用のピアスまで……それじゃ本当に、あいつらの仲間になるみたいなものじゃない!」
レイが憤慨する。敵と手を組むにしても、それが一時的なものであればいいが、邪黒水晶を身に着けるとなると話は別だ。ブラック・ムーン一族のあの顔色の悪さから、アレが人体に悪影響を及ぼすことは容易に推測できる。
「彼は、本当に頭がいい人よ。あたしたちの戦力が欲しい、でも、もう一度セーラー戦士に変身されたら、チャンスとばかりに逆襲される恐れがある。だからピアスを着けさせて闇の力を発動させ、その一方で抵抗の力を奪う……巧いやり方だわ」
素直に刻印を消したいと言えば、一見紳士的なサフィールは、地球から若い男性のニ・三人、見繕ってきてくれるかも知れない。だが、彼女たちが決してそうは言わない事も、計算済みだろう。美奈子のあの淫らな映像を見ているのだから。
『まさか、男に抱かれる方を選ぶとは思わなかった。あんな目に遭ったのに、やはり女性の考える事は判らないな』
君たちも所詮、ヴィーナスと同じ「淫乱」なのか。そんな嫌味を言う彼の姿が目に見えるようだ。それが判っているから、セーラー戦士たちはもう一つの選択肢を選ばざるを得ない。
亜美は扉近くに浮遊している物体を眺めた。邪黒水晶は、今は静止して少女たちが動くのを待っている。
「推測するに、彼がデマンドに逆らう事を決めてから、あまり時間は経っていないわ。その短時間にそれだけの事を考えて、行動に移せるなんて」
「亜美ちゃん……?」
まことが怪訝そうに声をかけたのは、彼女の表情がどこか嬉しげなのを悟ったからだ。
「不思議ね、何だか私、興奮しているの。敵なのに、悪い人なのに、面白い人だって思い始めているの。今まで男の人は、私の外面だけ見てラブレターをくれる人や、理屈で敵わないと女のくせに生意気だって、暴力で押さえつけてくる人しか知らなかった。いやらしい行為を軽蔑して、私と向き合って話をしてくれて、知性だけでぶつかってくる、あんな人は今までいなかった」
そう言い切った彼女の目の輝きに、うさぎは目を瞠った。これまでのような空元気とは全く違う、目的を得て真っ直ぐに進もうとしている力を感じた。
今頃になって、気づいた。亜美を立ち直らせるのは、優しいボーイフレンドの存在でも、気を許した仲間の励ましの言葉でもない。彼女と対等に張り合える好敵手、即ち『ライバル』の存在だったのだと。
陵辱される恐れのある若い男であるにも関わらず、亜美が興味を惹かれたのは、当然と言えた。恐怖をも凌駕する好奇心が、知の戦士を突き動かしたのだ。
「セーラーマーキュリーではなく水野亜美として、私は、あのサフィールともっと話がしてみたい。だから行くわ」
思えば、デマンドにピアスを仕掛けたのも、うさぎを助けるためではなく自分が楽になるためだった。考えすぎてしまう彼女の場合、それでいいとうさぎは思った。
傷は残るだろう。フラッシュバックの恐怖に震える夜もあるだろう。しかし、もはや友人を巻き込んで自滅を図るほど、亜美は弱くは無い。彼女の目標になるのなら、サフィールにはこれからも生きていて欲しいものだ。
「あたしは嫌よ!連中の仲間になるなんて冗談じゃないわ。ここで、うさぎを待ってる」
レイは赤子を抱えて座り込んでしまった。どちらにしろ、出産間もない彼女はあまり動かない方がいい。
彼女たちの体調を慮れば、このままサフィールに利用されるより、もう一度変身して逆転の機会を伺った方がベストだ。刻印を消すためとは言え、全く知らない男性と肌を重ねるのは怖い。しかし、よく知っている人物であれば……?
「さっきから何を考えているの、うさぎちゃん」
亜美が静かに口を挟んだ。幼いプリンセスが考えていることなど、彼女にはお見通しだろう。
「そんなことをしたら、衛さんとは二度と元に戻れなくなるわよ」
「……でも」
彼女たちと比べて、自分の弱さがあまりにも情けなく、自分にできる事は、このくらいしかないように思われる。
「返して言えば、元に戻れるなら『そんなこと』してもいいって事だよね」
「うさぎちゃん!」
刻印を消す方法を後から知ったため、まだ会話が理解できないらしいまことは、首を傾げながら言った。
「どっちにしろ、あたしたちがもう一度戦えるようになるには、その二つの手段しかないんだろう?だったら、今は大人しくサフィールに従うしかないよ」


話し合った結果、レイは崩れた部屋に残り、まことと亜美はサフィールの元へ向かう事になった。あくまでも話し合いのためであり、手を組むかどうか決めるのは、うさぎたちが合流してからだと亜美は言っていたが。
先程通信の邪魔をした者が『共通の敵』だとしたら、あまり結論を先延ばしにしてはいられない。時間がないのだ。下手をしたらブラック・ムーン一族と共倒れになる。
落ち込んでいる美奈子の手を引いて、うさぎは暗い回廊を歩き続けた。この城にはデマンドに抱きかかえられ、意識を失った状態で入った。どうしたら外の世界に出られるのか、見当もつかない。
「大丈夫、美奈子ちゃん?体は……」
陵辱されてはいないと言っても、ペッツに暴行を受けた事実には変わりない。その上仲間から疎外された彼女を、うさぎは主導者として、精一杯労わる事にした。
サフィールがあの映像を見せたのは、美奈子への個人的な制裁の意味はもちろん、四守護神が再び心を一つにして立ち向かってくる事を恐れたからだ。リーダーへの不信を煽っておけば、その心配は無い。亜美とレイですら、未だ険悪な状態でいる以上、団結する事などとても無理だ。
ようやく再会できたかと思えば、結局はまた別行動を取ることになってしまった。亜美の言う通り彼は頭の切れる男だ。うさぎが百人束になっても、とても敵いそうにない。あちらは亜美に任せて、自分はタキシード仮面の確保に専念しよう。
(こんなことで……挫けちゃ駄目だわ。あたしが、しっかりしないと)
決意するうさぎに、美奈子は力ない笑みを見せた。
「平気よ。ごめんね、気を遣わせちゃって。うさぎちゃんは亜美ちゃんたちと一緒に行った方が良かったのにね……」
彼女はサフィールと一悶着あった後、亜美と同じ部屋に閉じ込められていたらしい。扉には鍵がかけられたが、部屋にはもう一つ小さな窓があり、そこから脱出できたのだと言う。
サフィールが、窓の存在に気づかないはずが無い。多分、わざとだわ、と美奈子は言った。城の内部にドロイドたちの姿が全く見えず、途中で捕まることなくあっさりレイのいる部屋に辿りつけたのも、全てセーラー戦士たちを一つの所に集めて、皆の前で美奈子の痴態を鑑賞させるためだったのだと。
その直後に、あの説得。まことたちの心が揺らいでしまうのも無理はなかった。
「悔しいわ。何もかも、あいつの掌の上みたい。あたしのせいね。先走って、サフィールを怒らせたから」
うさぎは、何と言葉をかけていいのか迷った。美奈子のことがなくとも、いずれサフィールはデマンドを裏切ったかも知れない。しかし彼女が余計な事をしなければ、四守護神はすんなり元に戻れたのではないか、と思うのも本当だ。
「出口、どこだろ……ね」
苦し紛れに、話題を逸らすしかない。体が重く、足がうまく動かない。裸足の裏に冷たい床が触れるたびに、熱を吸われて鳥肌が立つ。
案内板でもあればいいのに、とこの場にそぐわないことを考えた時、ふと思い出した記憶があった。
(そう言えば亜美ちゃんが、こうやって壁に手を当てていけば、いずれは出口に辿り着くって……)
以前皆で巨大迷路に遊びに行った際に、確かそんなことを言っていた。気の長い話だが、うさぎはやってみる事にした。黒い壁は平らではなく、物を吊るすためだろうか、到る所に突起があることに気づいた。壁に手を這わせたまま歩いて行くと、そのうちの赤い突起に、指が引っかかる。カチリと怪しい音がした。
「うきゃっ!?」
突然、横の壁が発光し、うさぎは慌てて飛びのいた。冷たい風が頬に当たる。それがスイッチだったらしい。壁には長方形の穴が開き、外の光景が見えていた。
「どこからでも出られる……ってことみたいね」
美奈子がふうっと息をつく。よく見れば壁のあちこちに赤い突起がある。荒れた土を撫で、強い風が吹き付けてきた。
ドレスのままだといささか寒いが、うさぎたちは外に足を踏み入れた。草一つ生えていない荒野である。足の裏に、小石が刺さって痛い。
上空には暗雲が立ち込めている。自分がどこでデマンドに拾われたのか、すぐにわかった。地面から突き出している、あの邪黒水晶の塊が目印だ。
「……っ、く……」
足の裏に負担をかけないようよちよち歩きながら、うさぎはそちらへ向かった。美奈子も頭に巻いた布を風から庇いながら、後から付いて来る。
城を守るように取り囲む邪黒水晶は、どれも吐きそうなほどの瘴気を撒き散らしていた。こんなものが地球に打ち込まれたらと考えるだけで恐ろしい。
「美奈子ちゃんには、言うね。セーラープルートって人が、あたしをここまで送ってくれたの」
「セーラープルート……?」
うさぎは上空を見上げた。
「ここで待っていれば、まもちゃんはきっと来る」
その表情に、美奈子は眉を潜める。うさぎの顔は、とても恋人との再会に胸躍らせているようには見えない、悲壮な覚悟に満ちていたのだ。
尖った邪黒水晶の上に、そっと手を置く。審判を受ける罪人のように、うさぎは目を閉じた。
────そんなことをしたら、衛さんとは二度と元に戻れなくなるわよ。
しかし、他にどんな方法がある?自分だけが恋人と幸せに結ばれて、他の人間は不幸になっていいのか?
レイの赤子を育てる義務があるブラック・ムーン一族を滅ぼしてしまって、レイは果たして喜ぶだろうか。亜美はサフィールに興味を持ち始めている。彼女の良きライバルとなりそうな彼にも、死んで欲しくない。まことも美奈子も、自分が進むべき道を決めあぐねている。
これ以上皆を不幸にしたくは無い。邪黒水晶を身につけることを拒むためには、もう一度、セーラー戦士に変身してもらうのが一番いい。けれどもそれは、衛との別れを意味する。
(今まで、色んなものを無条件に与えられすぎた。一つくらい、手放したっていい)
皆が多くのものを失ったのに、自分は仲間に守られ、タキシード仮面も、ちびうさも、四守護神も失いたくないなどと考えるのは、あまりにも傲慢だ。
だから、衛を切り離す。ただしそのためには、美奈子はともかく、他の守護神たちには、もう一度悲しい思いをさせなければいけない……。
(何、勝手に決めてるんだろうね。皆の方が、嫌だって言うかも知れないのに)
うさぎはふと笑みを浮かべた。衛は、どこに出しても恥ずかしくない自慢の恋人だ。けれど陵辱を受けた彼女たちは、もう当分は男性に触れられるのも嫌だろう。
(その時はそれで。皆の事とは関係なく、一度、まもちゃんを解放してあげるべきなんだ)
エスメロードの顔が思い浮かぶ。頭を振り、うさぎは唇を噛み締めた。

重い雲の隙間から、ちらちらと赤いものが降ってくる。頬を、耳を、首筋を流れていくそれは、薔薇の花弁だった。いつ、いかなる時もうさぎを守ってくれた「彼」の赤い薔薇が、雲間から絶え間なく降り注いでいる。
上空を仰いだまま、まるで懺悔をするように、うさぎは花弁の洗礼を受けた。こうしていると、デマンドに汚された身体が清められていくような気がした。起こってしまった現実は変えられず、今の自分が無垢な姫君ではないことも判っている。それでも。
……さこ……
微かに、青年の声が聞こえた。誰よりも強く求め、焦がれた声だった。ほんの少し離れていただけなのに、もう幾千万光年は遠ざかっていた様な錯覚を覚える。
白い光が、瞼を直撃する。この光は、覚えている。ちびうさの不思議な力で飛ばされて来た時と同じだった。
光に目が眩んだ美奈子が、背後で転ぶ音がした。衛さん、と呟く声も確かに聞こえた。
「うさこ!」
瞼を開くよりも早く、ふわりとした感触が頭に舞い降りた。黒のタキシードにすっぽりと包まれ、抱き寄せられる。
デマンドの冷たい腕とはまるで違った。大人の熱を持った胴体と、どこか少年のぎこちなさを残した優しい抱擁に、うさぎは懐かしさのあまり嗚咽を漏らした。
タキシード仮面、地場衛、エンディミオン、どれもかけがえのない「彼」だった。前世がどうあれ、うさぎは今の彼を素直に好きになった。それだけは、誓って言える。顔についた花弁を擦り落とすように、その逞しい胸に頬擦りを繰り返す。
「……まもちゃん……会いたかった。会いたかったよぅ……」
背中を撫でる、清潔な白い手袋が、肩から顎へ這い、うさぎの顔を上向かせた。白い仮面越しに、目と目が合う。
「俺もだ」
気のせいか、彼は泣いているような気がした。それを確かめるより早く彼の唇が降ってきて、再び息も出来ないほど抱きしめられる。
額に焼き付けられた傷が疼いた。女の顔の中で一番目立つ場所に、嫌がらせのように押し付けられたそれに、気づいていないはずもなかろうに、彼の態度は変わらない。
「まもちゃん、あたし、デマンドと………」
「いいんだ、そんなことはもういい。会えて、良かった」
少女の存在を確かめるように、指先が額を擦る。瞼の裏に星が瞬き、これまでのことが次々と蘇る。初めて身体を重ねた時の愛しさ、工事現場での痴態、デマンドの玉座の前での陵辱……。エスメロードとのことを聞きたかった。あの人のところに行ってもいいのよ、と言ってあげたかった。優しい彼は、うさぎに気を遣ってきっと自分の本心を隠す。そうなる前に、彼に嫌われなければならない。
「ん、んっ……」
これほど近くにいるのに、彼の想いは、うさぎには伝わっていない。互いを思うが故に、敢えて見ない振りをしていのかも知れない。恐らく最後であろう口付けは、汗と混じった涙の味がした。さすがに動揺したのか、美奈子が後ずさりする気配を感じる。
「あ、あたし、ちょっと向こうに行ってるわね?お邪魔みたいだから」
うさぎは首を横に振った。美奈子は、これから起こる事を見届ける義務がある。そのために連れて来た。情交に耽っていた姿を、仲間の前で晒された美奈子。それと似たような事を、うさぎは目前で披露している。
「うさぎちゃん……?」
美奈子の行為に悪気がなかったように、この性行為にもまた意味はあった。しかし傍目には、周囲の目を気にしない、羞恥心の無い恋人同士に見えるだろう。
唇を離し、真っ直ぐに美奈子を見た。泣き笑いのような表情に、彼女は息を呑む。
「見てて、セーラーヴィーナス。これがあたしの、責任の取り方。プリンセスとしての、最後の……」
怪訝そうな顔をするタキシード仮面の耳元で、うさぎは囁いた。
「脱がせて」
恋人の申し出に、彼は軽く目を瞠った。その視線が、身の置き所に困っているヴィーナスへと向かう。
月野うさぎは、友人の前で抱けと、そんな事を言う少女ではなかった。口にした今も恥ずかしくて、震えが止まらない。しかしそれ以上に、デマンドに着せられたドレスが汚らわしい。躊躇う彼に、うさぎは駄目押しをした。
「あのね、あたしたちの額の印、地球の男の人と交われば消えるんだって。もう一度セーラームーンに変身できるんだよ」
あたし『たちの』と、うさぎは言った。その意味に気づかなかったのか、タキシード仮面の顔が綻ぶ。
「───そうなのか。良かった」
ぎゅ、と抱きしめる腕に、力が篭った。
「嬉しいの?まもちゃん」
「もちろん、嬉しいさ。こんな俺でも、君の役に立つ事が出来るんだから」
「………そう」
うさぎは淡く笑いを浮かべた。そうだ、彼は地球の守護を受けるに相応しい、大らかで父性溢れる存在だ。エスメロードのような悪い女でも丸ごと受け止めて癒してしまう、あの星を包む大気にも似た青い波動が、常に彼を守っている。だからこそ、セーラー戦士たちも彼を信頼するのであり、プリンセスと同じように彼を慕い守ろうとするのだ。
「みんなはまだ中で戦ってる。急がないと、デマンドたちに阻止されるかも知れない。時間がないの。ここで今すぐ、ね、お願い」
時間が迫っているというのは本当だった。うさぎの緊迫した口調に、タキシード仮面の顔も引き締まる。それでもまだ、美奈子が見ているという事が気になるようだったが……。
「ん」
煮え切らない彼の唇を、今度は自分から奪いに行った。デマンドの汚れを落とすように、その温かい口の中を、舌で愛撫する。月の女神の求愛を受け、地球の王子はうっとりと瞼を伏せる。白いドレスの胸元に、手袋が触れた。布越しではなく、直接触れて欲しかったから、その指の先を噛んで手袋を外す。温かい手が胸の突起に触れ、そっと擦り上げた。
手袋が地面にぱさりと落ちる。タキシード仮面は黒いマントを地面に敷き、うさぎの身体を横たえた。素手で乳房を掴まれた時、うさぎは相手の手首を掴み、臍の下へと導いた。うっすらと生えた黄色の茂みは、汗で湿ってはいるが、男性が期待するような粘液は漏れていない。
彼は、いつも丹念に時間をかけて、身体を愛撫してくれる。まだ初々しく、濡れにくい少女の体質を知っていた。そして、こんな一刻を要する状況でも、いつものように胸から攻めようとした。
うさぎは、それをはっきりと拒んだのだ。前戯はいらない。ただ挿れてくれればいい。目で、それを訴えかけた。
タキシード仮面の動きが止まる。少女の意図は判っても、その理由が判らない。充分に濡れているのならともかく、こんな乾ききった状態で快楽が得られるはずもない。
「いいの。そのまま……して」
もう片方の手で、ゆっくりと秘唇を割り広げる。露になった部分に冷たい外気が触れ、身が竦む。
(気持ちよくなる資格なんて、ない)
しばらく躊躇っていた青年は、やはり愛すべき女体を前に熱を抑えきれなくなったのか、赤い秘唇に男根をあてがった。その瞬間、氷の眼差しを思い出し、背筋に寒気が走る。
前歯に当たる冷たいグラスの感触。口の中一杯に出された、苦味のある液体。自我の無い人形に綿を詰めて縫い合わせるように、うさぎに精液を飲み込ませ動きを封じた白い悪魔。目の前にいるのはあのプリンス・デマンドではなく、愛しい恋人なのに、久しぶりの交合に思い出してしまった。
これから先、彼と身体を重ねるたびに、きっとあの男の事を思い出すだろう。そして、彼もまた、あの翠の美女のことを思い出す。過去は消せず、起こってしまった事実は戻らない。
肉襞を割って、恋人の先端が押し入ってくる。前に入ったモノと、形が違う、大きさが違う。危険信号が脳から発せられると、女の部分が敏感に察し、痛みを緩和するため、異物の寸法に合わせて収縮を繰り返す。そして、愛撫がなくとも条件反射で潤滑液が滲み、傷つきやすい粘膜を潤してくれる。意識などしていなくとも、身体が自然とそうなっていた。悲しいほどに、うさぎは女だった。
「っ……もちゃん……」
折り重なる二つの影は、やがて異なる体液を互いにぶつけあった。控えめな乳房に顔を埋めたタキシード仮面は、遊び疲れて我が家に戻ってきた子供のような、無防備な笑みを浮かべている。
額の黒い逆三日月が、ぽうっと光を発した。デマンドに汚された身体が、内側から浄化されていくのがわかる。心の傷は塞がらないけれど、堅くなった身体に、徐々に熱と力が戻ってくる。
何度も、何度も、表に出ようとしては強い力で封印されていた聖なる月のシンボルが、まるで月食から元に戻るようにその姿を現す。
ブラック・ムーンの言っていたことが本当かどうか疑わしかったが、ペッツたちは嘘をついてはいなかった。刻印を消す方法をレイが実行すると同時に、殺すつもりだったのだろう。こうしていても、デマンドや四姉妹たちの妨害が入らないと言うことは、サフィールの話した通り、新手の敵が、彼らの動きを妨げていると考えられる。今のうちに、全てを済ませてしまおう。
絡まった四本の脚の間から、聖水のように蜜が溢れ出す。太腿から脹脛にかけて伝う液体の感触に、恍惚と背を反らせた。頭の隅で常に別れを考えながら、体はこんなにも熱く燃えている。
「っ、ああぁあ!」
友人の前で快楽に溺れ、淫らな嬌声を上げてしまう。美奈子の視線を心地よいと感じる自分は、彼女以上の淫乱かも知れない。
(だめ、気持ちよくなっちゃ……あぁ、でも、気持ち……いい……!!)
乾ききった大地に男女の愛液が滴り落ち、吸い込まれていくと、額を中心に、真っ白な閃光が迸った。
それは、不思議な現象だった。デマンドによって着せられていたドレスが、身体に纏いついた砂を払うように肩から脚にかけて崩れ落ち、形も残さず消え失せる。
タキシード仮面の服の内ポケットも発光している。彼は微笑み、そこから力の結晶を取り出した。目の前に見せてくれる。うさぎの涙によって生まれた、星ひとつを軽々と吹き飛ばせるパワーを持つ、誰もが焦がれてやまない力。
「まもちゃんが、取り返してくれたの?」
そっと手を伸ばす。銀色の結晶は、ようやく帰る場所を見つけて喜んでいるかのように、胸の谷間の中央にすんなりと納まった。
「君も会っただろう、セーラープルートに。彼女が協力してくれた」
自分の手柄だとしても、彼は決してそうと言わないだろう。そういう男性だ。うさぎの髪を撫でながら、タキシード仮面は離れていた間の事を語ってくれた。エスメロードから銀水晶を取り戻し、ちびうさをプルートに預け、ここに来るまでの経緯を。
「ちびうさは、俺たちの娘だったんだな。道理で、君によく似ているはずだ」
マスク越しに優しい目が見つめてくる。心に疚しいところのある彼女は、それを正視できない。
「う、うん……そうだね……」
ちびうさの生意気な、それでいて憎めない挙動を思い出し、うさぎの胸はひどく痛んだ。だが、何かを守るためには、何かを手放さなければならない。
(ごめんね。さよなら、ちびうさ)
タキシード仮面と別れる事は、ちびうさの消滅を意味する。地球を守るために彼女の犠牲が必要なのだとしたら、あの娘は何のために生まれてきたのだろう。そして、今少し離れたところで見守っている美奈子も、また救われない。
これからうさぎが口にしようとしている事は、ちびうさの存在を消し、美奈子を一層仲間から孤立させる事になるだろう。傷つけると知っていて口にしなければならない現実ほど、辛い事はない。しかし、他にどんな方法がある。美奈子以外の仲間に焼き付けられた刻印を消し、もう一度変身して敵と戦える方法は、他に無い。
「ムーン……クリスタル……パワー……」
掠れた声で、うさぎは変身の言葉を呟く。
「メイクアップ!!」
銀水晶から放たれた光のオーラが、全身をリボンのように包んだ。手に脚に、リボンが纏いつき、セーラースーツの形を作っていく。青いミニスカートに赤いブーツ、水晶を包むリボン付きのブローチ。月のシンボルを宿す額にティアラが張り付き、トレードマークのお団子に飾りが加わる。
足の裏の擦り傷が塞ぎ、まことを助ける際に傷つけた手の爪も、血の塊が乾き剥がれ、桃色に生え変わる。ふっくらとした少女らしい頬には既に涙の跡はなく、目の前の恋人を毅然と見つめている。
頭の中にかかっていた鬱にも似た靄が晴れ、熟睡から目覚めた後のように意識がはっきりとしている。身体の隅々にまで温かいエナジーが満ちているのが判る。
愛と正義のセーラー服美少女戦士、セーラームーンの復活である。

美奈子は二人から一定の距離を置いて、眩しげにそれを見守っていた。聖なる月の光を前に、身体が自然と敬意を払い、その場に膝をついてひれ伏す。
ブーツを履いた二の足で、セーラームーンは真っ直ぐに立った。二つに分かれた長い髪が風を受け、後ろにはためいている。彼女に合わせて衣装を正したタキシード仮面は、微笑んで言った。
「やはり君は、その姿が一番似合うな。元に戻れて本当に良かった」
お世辞ではなく、心からそう思っているのが判る態度だった。素直に女性を尊敬しそれを口に乗せることが出来る彼は、デマンドたちとは全く違う、本物の紳士だ。ありがとう、とセーラームーンは呟いた。こんなに素晴らしい男性と恋ができた事、そして傷つけてしまった事を、誰に対して感謝し、また詫びればいいのだろう。
「まもちゃん、あのね、お願いがあるの」
うさぎは少し笑い、そして胸の痛みをごまかすように大きく息を吸い込んだ。
「あたしにしたみたいに、みんなのことも元に戻して欲しいの」
風の動きが、一瞬止まったような気がした。口を開けたまま、美奈子が凍りついたように動きを止め、タキシード仮面も笑顔のまま固まった。
「え?」
彼が問い返したのは、言葉の意味が理解できなかったからではなく、感情が零れてしまった結果だろう。整った顔を顰め、口元には疑念が浮かび始めている。
空耳であって欲しい。恐らくはそう願っているであろう彼に、うさぎは駄目押しをした。
「うん。亜美ちゃんや、レイちゃんや、まこちゃんとエッチして欲しいの」
軽い口調だからこそ、その言葉の持つ意味は重く、痛々しい。精を吐き出して間もないタキシード仮面は、しばらく呆然としていた。
彼は、自分の存在に疑念を抱いている。セーラームーンの弱点、セレニティの夫、という扱いしかしない敵に怒りを覚え、同時にその程度の力しか持たない己に不甲斐なさを感じ、敵の女に種馬扱いを受けて深く傷ついている。そんな彼にとって今の言葉がどんな意味を持つか、判らないほどセーラームーンは愚かではない。
心が悲鳴を上げている。他の女の子に触らないで。あたしだけを見て。そんな少女らしいごく当たり前の心も、セレニティは持つ事は許されない。誰もを平等に従える為政者として。銀水晶を扱う者として、私情を挟む事は許されない。
「……何を、言っているんだ?」
いつの間にか、少女から大人に変化していた恋人に、タキシード仮面はそう問い返した。
落ち着いた声には、あからさまな不審がある。今の今まで睦み合っていた相手が、自分の身体を他の女に差し出そうとしているのだ。感情的にならない方がおかしい。
「君は正気なのか。そんなことが、俺に出来るはずが無いだろう」
地球の守護を受ける、誰よりも良識ある普通の男性は、セーラームーンが予想していた通りの言葉を口に乗せる。
「どうして?」
感情を殺し、乾いた笑みを貼り付ける恋人に、タキシード仮面は戸惑いを隠せない。
「どうしてって……彼女たちは、君の友達だろう」
友達を大切に思うからこその発言だと、彼は認められない。認めてしまったら、彼女にとって自分の存在が、友人以下であると知ってしまうからだ。
タキシード仮面の頭には、常に疎外感があっただろう。四守護神とセーラームーンの結束を見せ付けられるたびに、自分の存在価値に思い悩んでいただろう。セーラームーンは今まさにその傷を抉っている。
「変なの。エスメロードとは出来て、あたしの友達とは出来ないんだ?」
翠の美女の名前を出すと、彼はあからさまに動揺した。デマンドの名前を口にした時には、もういいと言ったくせに、彼女の事は未だ引きずっているのか。
他の男に汚されたセーラームーンを許したのは、彼女の心がデマンドを向いていないと判っているから。彼女はあくまでも被害者で、強姦された側だったから。けれど、タキシード仮面のエスメロードに対する感情は、単なる敵に向けてのものではない。
「彼女、には、同情している。救ってやりたいと思った。それは、認める」
隠し事の出来ない彼は、とても誠実に、セーラームーンに告白した。エスメロードに惹かれたのは事実だと、いっそ清々しいほどに。
その事実を、彼女は責める気はない。それどころか彼の罪悪感に付け込んで、皆を元に戻すために利用しようとしている。
「だが、俺が好きなのは……!!」
彼はマスクを剥ぎ取り、地面に打ち捨てた。切れ長の意志の強そうな瞳が、初めての激情に潤んでいる。
月野うさぎを抱いた温かい腕が伸びて、今は正義の戦士となった少女の両肩を掴んだ。強く、けれど決して荒々しくは無い力で、肩を揺さぶる。
「俺が愛しているのはセーラームーン、君だけだ!知っているだろう?」
そんな事は、充分過ぎるほど知っている。いつだって、大切に大切に扱われてきた。デマンドに乱暴され、今まで自分がどれほど分不相応な幸せに身を浸してきたか、思い知らされた。
仲間を見捨てて、自分だけが元に戻る事など出来ない。彼女たちが仮初めの力を得るために邪黒水晶に身体を蝕まれるのを、指をくわえて見ているわけには行かない。サフィールの誘いを拒み、無事に地球に戻るために、「三」守護神には地場衛の肉体が必要なのだ。
「無理しなくていいんだよ。もっと自分に正直になって」
聞き分けの無い子供に言い聞かせるように、セーラームーンは肩を掴む手に自分の手を添えた。
「男の人は、好きじゃなくても感じるんでしょう?それにレイちゃんたちは、あたしなんかよりずっと魅力的な女の子だよ。何が不満なの?」
「彼女たちの話はしていない!俺は、君が……!」
タキシード仮面は言葉に詰まった。他の女を抱いている以上、「君じゃなきゃ嫌だ」などという言葉は説得力を持たない。
彼は、セーラームーンに何を望んでいるのだろう。今までのように無垢な顔をして、黙って傷ついて泣いている子供がお望みなのだろうか。残念ながら、そういう女を望む男が多いのは事実だ。
不貞は許して欲しいが、嫉妬したり悲しんでくれないのは困る。そんな身勝手な感情を抱いていいのは、母親と息子の関係だけ。セーラームーンは、彼の母親にはなれない。彼の思い通りの女は演じていられない。
「あたしは別に気にしないよ。あたしだってデマンドと……だから、まもちゃんが他の子を何人抱いたって、全然構わない」
強がる恋人の肩を、タキシード仮面は激しく掴み、逸らそうとする目を覗き込んだ。
「ちゃんと俺の目を見ろ、セーラームーン!それは本当に、君の本心か!?」
「……痛いよ、手を離して」
痛いのは肩ではなく胸だった。しかし、タキシード仮面は言葉ではなく、手の力の方を緩める。
「言ってたよね。俺だってうさこたちの役に立ちたいって。今がその時なのに、どうしてお願いを聞いてくれないの?」
「そうだ。ずっと俺は、役立たずな自分が大嫌いだった」
過去を思い返すように、彼は遠い目をした。事故で両親を失って以来、セーラームーンと出会って以来、彼は愛する女のためだけに生きてきた。月野うさぎには全てを打ち明けられる仲間がいるが、彼にはそれがない。
「君たちがもっと危険な目に遭えばいい、そうすれば俺が助けに入る、俺の有難さが判ってもらえる、そうすればもっと、男として崇められるのに、そんな邪な気持ちを抱いていた……その報いがこれか」
初めて明らかにされた彼の負の部分は、セーラームーンの心に不思議な安寧をもたらした。これまで感じていた遠慮がちな壁のようなものが取り払われ、生の感情が寄せられている。もっと早く、こうして本心をぶつけ合えばよかった。今となっては、遅すぎるけれど。
「他に方法が無いの。みんなを助けるためなの、判って。まもちゃんにしか出来ない事だよ?」
タキシード仮面の顔が苦痛に歪み、その澄んだ瞳が、見る見るうちに絶望の闇に覆われる。
「俺に与えられた役目は、それしかないのか。君も俺の事を、そういう目で見ているんだな」
種馬。ヒモ。プリンセスのおまけ。セーラームーンの付属品。クイーンのためだけに生かされている存在。
これまで戦ってきた敵たちからぶつけられた数々の暴言を、彼は思い出しているに違いない。誰よりもそれを否定しなければならないセーラームーン本人が、よりにもよってそれを認めてしまった。友人のために、お前は犠牲になれと言った。
犠牲という言い方は三守護神たちに失礼かも知れない。しかし、未来の伴侶がここまで明確に拒否しているにも関わらず、セーラームーンは無理を通そうとしている。彼が傷つくのは当然で、恋人よりも友人が大切だと、面と向かって告げているのに等しい。
「あたしが好き?」
彼を追い詰めるための言葉を紡ぎながら、セーラームーンの心は血の涙を流していた。その心の涙を糧として、銀水晶は凄惨なまでの輝きを見せる。
「ああ、好きだ。だから、そんな悲しい顔をしないで欲しい。馬鹿なことは言わないで、他の方法を考えよう」
こんな扱いを受けても、彼はまだセーラームーンを愛してくれている。どこまでお人良しで、そして愛しい人なのだろう。だからこそ、タキシード仮面はもっと幸せになるべきだ。こんな女は捨てて、もっと相応しい人と未来を紡ぐべきだ。
セーラープルートに告げられた未来を裏切り、彼女は、スカートの上から子宮を押さえた。
「この中にいるのが、まもちゃんの子じゃなくて、デマンドの子でも?」



「いけません、キング………」
時空の扉の前で、セーラープルートはかぶりを振った。
目の前で起きている出来事が、信じられなかった。腕の中のちびうさの身体が、輪郭が、徐々にぼやけて消えていく。
自分の存在が消えていく理由を知っているのか、その表情には安堵に混じった苦痛があった。助けて、ああ、でもこれでやっと自由になれる。そんな矛盾を孕んだ顔だ。SL(スモールレディ)であることの重責と、もっと両親に甘えていたいという子供らしい願いとの板挟みに、幼女は常に悩んでいた。
プルートには、どうする事も出来ない。未来を委ねたあの二人は、まだ若く未成熟な心を互いに傷つけあって、目に見えぬ血を流している。
「心を強く持ち、何があってもセーラームーンを、クイーンを信じて欲しいと、そう申し上げたではありませんか!」
セーラームーンが一時の感情に惑わされて何を言おうと、そして彼女の望むままに行動しようと、心だけはタキシード仮面のものだ。まことがレイを信じたように、亜美が美奈子を許したように、レイがうさぎを思うように。大切な人を信じる事をやめてしまったら、未来はいくらでも変わる。プルートはそう信じていた。あの二人なら、乗り越えられると信じていた。
歪んだ時間の中で、少しでも疑念を持ってしまえば、それは現実になってしまう。それが目の前で、確固たる事象として起こっていた。薄桃色の残像を残して、ちびうさの幼い身体が霞のように消え失せる。ひとつの存在が消えた衝撃に、プルートの身体は戦慄した。
「スモール………レディ………」
腕の中の温もりが、消え失せる。唇が、先程まで確かに在った幼女の名を紡ぐ。緑の黒髪を振り乱し、彼女は絶叫した。
「スモール、レディっ!!」

「誰を呼んでいるの?」
くすくすと笑い、一人の女が目の前に立つ。
セーラームーンがタキシード仮面と結ばれなかった場合の、もう一つの未来、もう一つの可能性。それがちびうさの消滅に伴い、プルートの前に存在している。
扉の前に膝を着いた姿勢で、プルートは動かなかった。敵である彼女を攻撃できない、しようとも思わない。絶望に染まった顔でぼんやりと、女を見上げている。
「あたしは暗黒の女王、ブラックレディ」
ひらりとドレスの裾を翻し、女は嫣然と微笑んだ。
「ネメシスの支配者、キング・デマンドとクイーン・セレニティの愛娘よ」



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