ほんの少しの偶然が、重なっただけだった。
銀水晶を持ち出したのは故意だったが、その時たまたま城に襲撃があったのも、母が犠牲になったのも、四守護神が巻き添えになったのも、本当に偶然だった。
ちびうさは、遠くからそれを見ていた。成す術もなく、母の体がクリスタルに包まれていくのをただ見ていた。母に攻撃を仕掛けた男は、信じられぬものを見ているかのように立ちすくんでいた。見えない力に守られる女王という存在に、圧倒されていたのだろう。
彼女の母親は偉大な存在だった。星ひとつ破壊できるほどの力を持ちながらも、決して驕り慢心することはなかった。民を愛し平等を好み、月の王国の次期女王となる我が娘を、他の子供たちと同じように育てることを望んだ。それが逆に、娘の心に孤独を忍び寄らせる要因となったことに、気づいていただろうか。
『やーい、ちび、ぐず』
大人の目の届かない所にいる子供というものは、正直にして残酷である。
『お前なんかがプリンセスであるもんか。だってちっとも似てないじゃないか』
美しい母に比べて、いつまでもちんちくりんな自分が、他人の目にどう映っているか、日々思い知らされていた。
それでも、不義の子だと囁かれるのは我慢がならなかったから、彼女は彼女なりに精一杯主張した。今はこんなでも、そのうち背が伸びて胸が膨らんで、立派なレディになると。
少年たちは引き下がらない。彼らの親たちがクイーンの治世に不満があったのか、それともちびうさに対する個人的な苛立ちゆえだったのか、今となっては判らないが。
『だったら銀水晶を見せてみろよ。歴代のプリンセスは、必ず持っているって聞いたぜ』
プリンセスの力の象徴、銀水晶。母が玉座を空けた時、こっそりとそれを懐に忍ばせた。母を困らせるつもりはなかった。あの少年たちの鼻を明かしてやりたかった、ただそれだけだった。
閃光と爆発。動揺する四守護神。目の前で敵の攻撃を受け、固まっていく母───。
(運命だったのです)
自分を責める必要はないと、彼女は言ってくれた。赤い瞳と褐色の肌を持つ、時の番人。ちびうさの、たった一人の友達。泣きながら時空の扉に現れたちびうさを、黙って抱きしめてくれた。
彼女がいなければきっと、一人で生きてはいけなかった。眠りについた父と母を前に、自責の念に押し潰され、死を選んでいただろう。
このままでは終われない。母たちの盾となってパレスを守ってくれている四守護神たちを思い、ちびうさは禁を犯すことを決意した。
(プルート。あたしに時空の鍵を貸して)
そして、過去へと飛んだ。若かりし頃の母親、セーラームーンに会うために。彼女の持つ力で未来を救ってもらうために。
静寂に包まれたパレスの中で怯え隠れているよりも、命を張って一抹の望みに賭ける。それがSL(スモールレディ)としての責任だった。
『おーっほっほっほ!かくれんぼはもうお仕舞いよ、ラビット!銀水晶をお寄越し!』
タイム・ワープを使うブラック・ムーン一族は、どこまでも追撃してきた。逃げて、逃げて、ひたすら逃げても、足元に纏いつく影のように追いかけてくる。
セーラームーンたちはエスメロードに歯が立たなかった。もう、駄目かも知れない。過去の母が殺されれば、ちびうさも消える。未来が消滅する。
過去の母、セーラームーンは、泣き虫な少女だった。まもちゃん、まもちゃんと泣き喚くだけで、頼りにならない。まるで、ちびうさそのものだった。
軽蔑すると同時に、ほんの少し安堵してもいた。母とて、所詮弱い人間だった。やはり自分たちは、親子だったのだ。
『諦めてしまいなさいよ』
疲れ果てたちびうさに、囁きかける声がある。
(誰?)
夢うつつの中、彼女は薄目を開ける。
ピンク色の長い髪が視界を横切った。一瞬のことで、それは幻のように消えてしまう。
『あなたはあたし。いいえ、あたしであったはずのものがあなた』
大人の女の声だった。エスメロードとは違う。もっと若く、色気よりも闊達さを前面に押し出している印象だ。
(誰……?)
『もうすぐよ。あなたが消えればあたしが生まれる』
くすくす、と耳障りな笑い声とともに、女の気配が遠ざかる。
体が動かない。指先から冷えて腐り落ちていくような心細さに襲われ、ちびうさは唇をわずかに動かした。疑問は声になることはなく、沈黙の闇が幼女を包み込む。
時空の扉の前に、三つの影がある。セーラープルートとタキシード仮面、そして彼の腕の中でぐったりとしているちびうさだった。未来で起こる何もかもを、時の番人の口から聞かされた彼は、驚きのあまりしばらく口が利けなかった。
エスメロードとその配下を撃退し、再びここに戻って来たのは、この場所が時間の狭間であり、あらゆる時代や場所にタイム・ワープできる地点だからだ。セーラームーンもここを通ってブラック・ムーンの本拠地に向かったのだと言う。再会するには、扉を通過していくのが最も早い。
寒さなどまるで感じないのに、濃厚な霧が周囲に立ち込める。真っ白で何もない空間、こんな寂しいところにプルートは一人でいるのか。永遠にも近い時間を、ここで。
「私はここを動くことは出来ません。後はキング、あなたにお任せいたします」
未来における彼の呼び名を、彼女は静かに口に乗せる。現時点でまだ学生であるタキシード仮面は、おこがましい思いに囚われた。これほど思慮深く大人の雰囲気を漂わせる女性が、年下の彼に最大限の敬意を払っている。そんな価値が、自分にあるとは思えない。
「ん……う、うっ」
腕の中のちびうさが、顔を歪ませる。腕の位置を変えようとする彼を見て、プルートは静かに両腕を差し伸べた。
「こちらへ。きっと怖い夢でも見ているのでしょう」
言われてよく見ると、ちびうさの表情は青ざめていた。足元に転がっているルナPボールが、彼女の白い靴下の裏を映し出している。靴はとうに脱げて失くなってしまい、セーラー服もボロボロだった。
こんな年端もゆかぬ幼女を、追い詰めて虐待したのはエスメロードだ。しかし今の彼には、彼女を責める事は出来なかった。仮にちびうさが敵側の人間で、銀水晶を奪って逃走したら、と仮定すれば、タキシード仮面も恐らく手段は選んでいられないだろう。子供であろうと舐めてかからないのは、ある意味誠意があると考えることも出来る。
敵の女に対して同情的になっている内心を、タキシード仮面は自覚していた。肌を重ねた時、エスメロードの悲痛な叫びが聞こえてくるような気がしていた。救ってやりたい、と思うのは傲慢だろうか。
彼は知らない。既にエスメロードが、彼との性行為によってある意味『救われていた』ことを。死ぬはずだった運命を、大きく覆されていたことを。
「スモールレディは、私がお預かりします。未来の銀水晶とこの時空の鍵を持って、一刻も早くセーラームーンの元へ向かって下さい」
タキシード仮面は頷き、ちびうさの体をプルートへと預けた。小さな命が、腕から腕へと受け渡される。娘だと判ると手放すのが名残惜しくなるが、少なくとも今の彼よりはプルートの方が、彼女の扱いは上手そうだった。
温もりが腕から離れると、タキシード仮面はマントをさっと横に払った。守るべきものが明確になった以上、もう迷いは無い。
「ありがとう。君には、色々と世話になった。怪我をおしてまで助けに来てくれて……」
本来ならば、時空の扉の前を離れるのは重罪なのだと言う。しかし今、彼女を罰する存在、即ちネオ・クイーン・セレニティたちはここにはいない。クリスタル・パレスで眠りについている。
「キングこそ、ここに来るまでに、随分とお辛い思いをしたはず」
エスメロードとの件を言っているのだと気づく。プルートは全てを察し、そして彼を気遣ってくれる。恋人がいるのに他の女と何をしているのかと、責められた方がまだましだった。
「キング、というのはよしてくれ。……俺にそんな資格は無い」
敵を撃退した際、頭の中に響いたのは、未来の自分、キング・エンディミオンの声だ。彼やプルートの助力がなければ、エスメロードから逃れることは出来なかった。
うさぎや四守護神が暴行を受ける最中、彼は何も出来なかった。地球の王子でありながら、何一つ守れない。未来の自分がキングとして君臨できたのも、きっと銀水晶の力ゆえだ。セーラームーン、セレニティの夫としてしか、自分は存在する意味が無い。
そんな彼に、プルートは首を横に振り、はっきりと告げた。
「いいえ、あなたは確実に一つの運命を変えました。己を傷つけた敵にすら哀れみを向けられる、お優しいあなただから」
さながらそれは、地球そのもの。生態系を破壊し続ける人間を赦し、自浄の力を以て害悪すらも包み込みただ静かに輝き続ける、青き星の如き慈悲。
タキシード仮面の姿を眩しげに見上げて、プルートは語る。過ぎた評価に、彼は居心地の悪さを覚えた。
美人に甘いのは男の本能であり、その程度で優しいなどと言われては、世の中の殆どの男は聖人になってしまう。
「……買い被りだ。俺はただ……」
本当に優しいのは、下心なしで相手に接することが出来る男だ。例えばエスメロードが美女ではなく、恐竜かドラゴンのように醜悪な姿をしていても、変わらず同情を寄せられるのが、本当の優しさを持った人間だ。
お団子頭の少女の姿が思い浮かぶ。誰に対しても平等に接する彼女ならきっと、エスメロードを救うことも厭わないだろう。今すぐにでも、彼女の元へ飛んで行きたかった。
「お気付きではないのですか。あなたとセーラームーンには、人の心を動かす不思議な魅力がある。定められたルートを変える力がある」
プルートの持つガーネット・ロッドの先端が、妖しく光る。誰よりも長く生き、あらゆる時代を見聞きしたという美しき番人の目には、一体何が見えているのか。
「その小さな分岐は、やがて大きな流れとなって未来を正しいものに変えるでしょう。私は信じております」
まるで全てを見てきたかのように、彼女は語る。
「……信じる、か」
今の自分達に一番欠けているものは、それかも知れない。
(うさこは、まだ俺を信じてくれるだろうか)
エスメロードに惹かれた地場衛ごと、受け入れてくれるだろうか。
虫のいい願いだと分かっていても、彼はそれを信じたかった。うさぎがデマンドに何をされようが、彼の気持ちは変わらない。うさぎにも同じ気持ちでいて欲しいと願った。
彼は、そっと時空の扉に手を触れた。黒のタキシードの、右のポケットにはちびうさの持っていた未来の銀水晶が、そして左のポケットにはエスメロードから奪い返したセーラームーンの銀水晶がある。
万が一、この二つの銀水晶を接触させてしまったら、大変なことになる。未来と過去、違う時代に存在する同一のものがぶつかり合えば、この世界が消滅してしまう。
想像しただけで、体に震えが起こる。これほど恐ろしい力を常に胸に抱きながら、普通の少女として笑っていられるのがセーラームーンの強さだ。
彼女の偉大さも、それと相反する弱さも、全て含めて恋している。この命に変えてもデマンドの手から取り戻し、自分のためではなく、四守護神のために流しているのであろう血の涙を拭いてやりたい。
扉に置いた手に力を込めると、プルートが静かに言った。
「四守護神に、よろしく。何があってもセーラームーンを、クイーンを信じて差し上げてください。あなたならばそれが出来るはずです」
妙に含みを持たせた言い方に、タキシード仮面は引っ掛かるものを感じた。
「ああ、わかった」
君は未来が見えるのか、などと不粋なことは聞かない。運命とは己の力で切り開くものだ。
これから先、待ち受けている残酷な試練を予感もせずに、タキシード仮面は恋人の元へ向かった。もう後戻りは出来なかった。
かつん………
どこか不吉な音を聞いて、デマンドは力の放出を押し留めた。額に現れた『邪眼』が、本人の意思を察して、急速に縮んで消えていく。
ルベウスがマーズのために用意した部屋は、デマンドの趣味とは正反対の和風なもので、邪黒水晶のオブジェすら置かれていない。正直、この場にいることすら不愉快だった。
それに、先程から歩くたびに、妙に耳障りな音がしている。彼が立っているのは部屋の入り口の、土間のような箇所だったが、足元に妙な違和感を覚えた。それが気になって、攻撃に集中できない。
宙に浮いていたマーズの体が、力を失って落下してくる。それを、セーラージュピターはしっかりと受け止めた。
「まこちゃん………」
初めて彼女の存在に気づいたかのように、マーズは呆然として答え、そして急に攻撃の手を止めたデマンドを、訝しげに見つめている。
デマンドは、うさぎを肩に乗せたまま、視線を下に落とした。靴には何もない。となると、他に床に触れている部分は、マントか。
王者に相応しい裾の長いマントの裾を、彼は摘み上げた。そこに刺さっていたのは、青い小さなピアスだった。
「盗聴器か。くだらん」
マーキュリーと接触した際につけられたのだろう。油断した自分を認めたくない彼は、鼻で笑ってピアスを握り潰した。
パキリ、とプラスチック状のものが割れるような破裂音が響く。瞬間、白い粉が煙のような勢いで部屋中に飛散した。デマンドはもちろん、セーラームーンも思わず驚きの声を漏らす。
指先に付着した粉に、彼は眼をこらした。刺激臭はなく、舐める勇気はないが、一見したところ毒もあるようには思えない。
「無害のようだが、何のつもりだ」
問いかけは、セーラームーンに向けてのものだ。彼女はただ、泣きながら首を振って暴れるだけだった。
「知らないわよっ!離して、降ろしてっ!!亜美ちゃんと美奈子ちゃんに会わせてっ!」
彼女は、嘘をついていれば、すぐに顔に出る。攫ってからマーキュリーと会うことは赦していなかったし、この様子では本当に知らないようだ。
しかし、こんな小さなピアスに、どんな手段を用いて大量の粉を封入していたのだろう。部屋の中は靄がかかったように白くなり、目の前にいるマーズやジュピターの姿が霞んで見えた。
マーズが口元を覆って咳き込む。彼女の黒い髪に粉が付着して、白髪のように見えている。
「これは、小麦粉じゃないか……?」
粉を手で払いながら、ジュピターがかすれた声で呟いた。『コムギコ』という単語がデマンドにはわからないが、ただの目くらましであることは明白だった。
「まあ、いい。お前たちの始末は後回しだ。婚礼を先に済ませてしまおう」
部屋を出て行こうとするデマンドの耳に、赤子の泣き声が響いた。産まれながらにして炎を操る、セーラーマーズの息子の声が。
赤子を始末しておかなかったのは、彼の誤算の一つだった。その小さな手から繰り出される炎に粉が引火し、次の瞬間、巨大な爆発音が轟いた。
粉々になった調度品が、まるで生き物のようにうねりながらデマンドにぶつかってくる。肩に、腰に、胸に、木製の破片が突き刺さった。砕けた柱の一部分が、額を傷つけた。彼は咄嗟に、セーラームーンの体を抱え込み床に伏せる。更にその上に確認できない何かが重くのしかかった。
「ぐあ……!」
剥がれた壁が背中を刺したのだ。苦痛に声を漏らし、デマンドは少女の上に覆いかぶさる形でくず折れた。セーラームーンは、戸惑いの目で彼を見ている。
「デマンド、あなた……」
唇を噛み、少女は大人びた眼差しを彼へと向けた。そして、上に乗っている体を押しのけようとする。
「離して。仲間のところに行かなきゃ」
彼女にしたことを考えれば、当然の応答だった。けれど、今彼は酷く傷ついていた。身を捨ててまで庇っても、彼女は仲間を優先させるのだ。
どれほど絶望を思い知らせても、セレニティは決して己のものにはならない。邪眼を使え、とワイズマンが囁いた時も、彼は断った。他人から与えられた力ではなく、自分の力で彼女をものにしたかったのだ。
それなのに彼女は、陵辱の鎖を引きちぎって羽ばたこうとしている。
「ふざけ、るな……」
セーラームーンの頬を両手で掴むと、彼は血走った瞳で吐き捨てた。額から流れる血が彼の瞼を染め、背中の痛みが彼の激情を後押しした。
「お前は俺の妃になるのだ。勝手に離れることは赦さん!」
「どけっ!!」
別の少女の怒声が、デマンドに降りかかった。セーラージュピターの長い足によって、彼の上にあった瓦礫が蹴り倒され、わずかに空いた隙間から、セーラームーンが必死に這い出る。彼は、追いすがる力がなかった。
ジュピターの体は爆発の衝撃で擦り切れていたが、マーズは無傷だった。赤子が守っていたことは見ただけで判る。
「あなたもルベウスと一緒ね。犯してやったんだから、救ってやったんだから感謝しろって。そんなことで罪が帳消しになるとでも思ってるの?」
赤子の背中を撫でながら、マーズが冷たく呟く。
「まこちゃん、レイちゃん!」
駆け寄るセーラームーンを抱きしめるジュピターの目には、強い光が戻っていた。マーズと並ぶと、父と母のようだった。どちらがその役割を果たしているのかと問われれば、どちらでもあり、またどちらでもない。
そしてセーラームーンも、一見彼女たちに守られているようで、実は守っている。デマンドにはそう思えた。欠けた部分を補い合うような関係だからこそ、彼は連中を引き離さねばならなかったのだ。
「……くっ、はは、ははっ」
黒煙を上げる瓦礫に埋もれたまま、デマンドは笑い出した。この期に及んで悪あがきする彼女たちが、滑稽で仕方ない。
マーキュリーが爆発物を仕掛けていたことは計算外だったが、この程度で自分は死んだりしないし、セーラー戦士どもはブラック・ムーンの刻印を焼き付けられて変身も出来ない。一体どうやってプリンセスを守り、ここから脱出できるというのか。
「大人しく従っていれば、これ以上痛い目には遭わなかったものを。女は本当に愚かだな」
「何だって!?」
噛み付くジュピターに対し、マーズはどこか醒めた目でデマンドを見ていた。
「お前たちは既に戦えないが、こちらにはまだあやかしの四姉妹が三人残っている。サフィールもエスメロードも健在で、タキシード仮面とやらも手の内だ。勝ち目があるとでも思うのか」
自分の知らないところで、サフィールたちがどんな思惑で動いているのか考えようともしない彼は、自信に満ちた口調でそう告げた。
彼にとっては実の弟すら駒であり、裏切ることなど想像もしていなかった。エスメロードにしても、自分に惚れているのだから、命令のままに動くはずだと思っていた。人の心が状況次第で変わっていくことを、彼は知るべきだった。
「簡単なことさ。あんたを人質にすればいいんだ!」
ジュピターが悲痛な声で叫んだ。粉を浴びるまでもなく、彼女の髪はストレスで白くなり、ドレスに覆われた体は散々なことになっているはずだ。彼女とマーキュリーを陵辱するよう男たちに命じたのは、コーアンであってデマンドではないが、そんな事は被害者にとっては意味を成さない。
「よくも今まで、うさぎちゃんやあたしたちをいたぶってくれたね!あんただけは、絶対に許さない!!」
身動きできないデマンドに拳を振り上げようとするジュピターを、セーラームーンは止めなかった。止めたのは、意外な人物だった。
「待って、まこちゃん」
戦いの神であるセーラーマーズが、彼女の拳に手を添えていた。
「なんで止めるんだ!レイちゃんだって、こいつやルベウスのせいで……」
そうじゃなくて、と彼女は言って、形のいい眉を潜めた。
「おかしいと思わない?こんなに大きな爆音がしたのに、誰一人駆けつけてこないわ」
彼女にそう指摘されて初めて、デマンドは城を包む違和感に気づいた。
「そう言えば……」
ジュピターも不審げに、周囲に視線をやる。主であるデマンドがこんな目に遭っているというのに、誰も気づく様子がない。城全体が、異様なほど静まり返っている。
ワイズマンは現れない。サフィールはどうしているだろう。エスメロードの作業は順調だろうか。残りの四姉妹は何をしている。デマンドの心に急激に焦りが戻ってきた。彼らが助けに来なければ、デマンドは本当に人質になってしまう。『邪眼』は傷つけられて使い物にならず、邪黒水晶のピアスは衝撃で吹き飛んでしまった。
しばらく扉の方角に耳を澄ませた後、マーズはちらりとデマンドを見た。
「ひょっとしてあなた、見捨てられたんじゃないの?」
かつて自分たちがされたように、彼女は敵に向かって精神攻撃を仕掛けようとしていた。デマンドには何故か、笑って否定することが出来なかった。
マーズが子供を産んでから、いや、あるいはもっと前から、忍び寄っていた不安の正体。部下たちの結束を、もっと強めておくべきだったという後悔が、今頃になって彼を苛んでいた。
この状況では何を言っても強がりにしか聞こえないと悟り、デマンドは無視を決め込んだ。どちらにしろ、セーラー戦士たちがここから脱出することは叶わない。
「他の仲間たちはどこにいるんだ。答えろ!……うっ」
叫ぶジュピターが急に耳朶に手を当てた。顔をしかめて、その場に屈みこんでしまう。
「まこちゃん!?」
セーラームーンが心配そうにその顔を覗きこむ。耳朶にある薔薇のピアスから手を離したジュピターは、指に付着した血を見て蒼白になった。
「これは……」
「大丈夫よ」
湖面に小石を一つ落とした時のような、静かな声が割って入った。
デマンドは背の痛みを堪え、崩れた入り口の方角を見やる。そこにはこの爆発の元凶であるセーラーマーキュリーが、ヴィーナスに肩を貸してもらう形で立っていた。
濃い青の髪と、一見柔和だが強い意志を秘めた眼差し。浴びさせられた精液は湯浴みによって綺麗に清められ、別人のように凛々しい佇まいである。
「痛み止めの薬を注入しただけだから。まこちゃんに内緒で、ピアスを摩り替えたの。小麦粉も、勝手に借りてごめんなさい」
ヴィーナスと色違いのドレスを着た彼女は、陵辱されて間もないとは思えぬくらい、明瞭な口調だった。先程の壊れた雌豚は、デマンドの錯覚だったのだろうか。あんな暴行の最中、頭の隅では計算高く今後の対策を練っていたのか。彼は、マーキュリーに畏怖を抱かずにはいられなかった。
「よく、この場所がわかったわね」
マーズが低い声で告げた。敵に話しかけるのと何ら変わらぬ口調に、デマンドは改めて、四守護神の間に出来た深い溝を知った。セレニティにしか興味のなかった彼は、その仲間がどうなろうと知ったことではないが、仲間割れがきっかけで自分の妃になる者にまで危害を加えられては困る。どうにか瓦礫の下から這い出ようと腕や背に力を入れるが、一向に動かない。
空気中には、まだ白い粉がちらほらと舞っていた。マーズが寝ていた寝台は無残に割れ、罅の入った家具からは細い煙が上がっている。再び引火したら今度こそ、連中ごと吹き飛んでしまうかも知れない。
悠長に話などしている場合か。早くここから出せ。そう怒鳴らないのは、彼のプライドの成せる業だった。セーラー戦士たちを図に乗らせないためにも、その気になればいつでも抜け出せるという表情を努力して保ち続けていた。
「音の聞こえた方角に進んだら、自然と辿り着いただけよ。デマンドのいるところには、必ずうさぎちゃんがいるはずだから」
マーズの態度にもめげず、マーキュリーは淡々と答える。
その内容に、デマンドはまた違和感を覚えた。城内にはまだ下っ端の戦闘員やドロイドたちが闊歩しているはずだ。この部屋に着くまでに誰の妨害にも遭わなかったと言うのは不自然すぎる。
「つまり」
マーズが息を吐いた。
「うさぎが一緒にいることを承知で、デマンドに爆薬を仕掛けたってわけ?」
デマンドとマーキュリー、そして赤子以外の人間が、一斉に息を呑んだ。セーラームーンは、言われたことの意味がすぐには理解できなかったらしく、戸惑ったように二人の表情を見比べていた。
「そうよ」
ぬけぬけと、マーキュリーが答える。自棄になった女ほど始末に終えないものはない、とデマンドは思った。そのような状況に彼女を追い込んだのは、他ならぬ自分たちであることを棚に上げて。そして、男の無神経な暴力によって変化したのはセーラー戦士たちばかりではないことを、この後思い知らされることとなる。
「相変わらずね。自分が恨みを晴らせれば、うさぎが死んでもいいってこと?」
赤子を抱くマーズの目には、はっきりとした怒りがあった。結果だけ見れば、マーキュリーの賭けは成功し、デマンドはこの有様なのだから、本来彼女は賞賛されるべきだ。だが、『心』を何よりも尊重する世界に生きるマーズは、友人の命を計画という秤に乗せたこの少女が許せないらしかった。
「いいじゃないか、みんな無事だったんだし……」
デマンドには激昂したジュピターも、仲間には甘い。そんな彼女にも、マーズは容赦なく噛み付く。
「まこちゃんは黙ってて!!」
考え方の違いなのだから、今そんな下らない事で揉めても仕方ないだろう。デマンドは醒めた気持ちでそれを見ていた。合流できたからと言って、元の鞘に納まるとは限らない。特に水と火の間には、どうやら徹底的な亀裂が生まれたようである。
「二人とも、もうやめてよ……あたしは、いいから……」
セーラームーンが泣き出しそうな声を出すと、さすがに二人は押し黙った。その場の気まずい空気を破るように、ヴィーナスが口を開く。
「ま、まあ、みんな無事に再会できたことだし。反省会はまた後で───」
コポコポ……
何かが泡立つような音が、デマンドの耳を打った。水音にいち早く気づいたマーキュリーが、不審の目をデマンドに向ける。
その時初めて、彼は頭上に、血液以外の冷たい湿り気を感じた。銀の髪が濡れている。上を仰ぎ見ると、崩れかかった天井から赤い液体が滴り落ちていた。
雨漏りとはまた別の濁った液体に、デマンドは目を見開く。次の瞬間、ゴムのように糸を引いた粘液が真っ直ぐに伸び、彼の上から瓦礫を除去した。途端に走る激痛に、デマンドは顔を歪ませる。
「仲間か!?」
ジュピターが身構える。粘つく赤い糸はデマンドを触手のごとく絡め取り、再び天井に吸い込まれるようにして消えた。
残されたセーラー戦士たちの動揺を、確認することが出来なかったのは残念だった。ドロイド『ジャーマネン』。彼女によって助けられたことを悟り、彼は安堵に大きく息をついた。
そのまま、別の部屋に転送される。真紅に包まれていた視界がさっと開かれ、目の前にカラベラスの姿を認めた彼は、ことさらに厳しい口調で告げた。
「遅いぞ、カラベラス。今まで何をしていた!」
背中の痛みや苛立ちが、彼に乱暴な言葉を吐かせた。手にも足にも、ドロイドの赤い粘液が張り付いて、まるで標本になった気分だ。
ジャーマネンはその姿を自在に分裂・変化させ、壁や床をすり抜けることが出来る。崩壊した部屋からデマンドを連れ出すには、確かに相応しいドロイドと言えたが、育ちの良い彼にはどうしても生理的嫌悪が勝る。他にやり方はなかったのかと、べとついた全身を見下ろしながら惨めな思いに囚われた。
しかし、普段なら恐縮して頭を下げるはずのカラベラスは、何故か不遜な目で彼を見上げた。その眼差しに、彼は一瞬怯む。
「『助かった』ではなく『遅い』ですか。やはりあなたは、第一声がそれなのですね」
───サフィール様とはあまりに違う。
声にならない彼女の声を、デマンドは聞いたような気がした。ジュル……と、粘液の一部が溶けて床に散る。床に広がった液体から無数の泡が生まれ、隆起した泡が膨張に耐え切れなくなったのか、ぱちんと爆ぜる。刷毛のように変化した液体が、デマンドの頬を愛撫した。それは、艶かしい美女が接吻をねだり、赤い舌を這わせるさまに似ていた。
「何、を……」
部下が彼を責めることなど今までなかったし、ドロイドが直接肌に触れることも初めてだった。自分の置かれている状況が、彼はまだ掴めないでいる。
女の舌が、ゆっくりと彼の襟元から懐へと忍び寄った。女の形をしていても、その粘液に体温はない。ひんやりとした液体が鎖骨から胸へ、胸から臍の辺りまでつうっと伝っていく。目には見えないけれど、彼の胴体には血のような赤い筋が一本出来ていることだろう。
その筋の先端が、何かを探るように脇の下へと戻り、そして袖口から服の外に飛び出し、今度は下半身へと潜っていく。冷たい手でまさぐられる苦痛に、デマンドは鳥肌が立ち、全身を波打たせた。手も足も赤い粘液で固定され、痛みは感じないものの反撃は出来ない。触手が動くたびに服に凹凸が生まれ、湿った液体を分泌するたびに、高貴な服は濡れて重くなっていく。
ジャーマネンがズボンのポケットに触手を潜り込ませ、目当てのものを探り当て引きずり出す頃には、彼の全身は唾液を塗りつけたように光っていた。顔には、粘液が這い回った跡がくっきりと残っている。
「……っ、く、はぁ……」
口の中のみならず、耳にまで粘液の侵入を許した。わずかながら感じてしまった己に、デマンドは動揺している。
「お許しください、デマンド様。このパネルは我々がお預かり致します」
ジャーマネンは粘液の先をマジックハンドのような形にして、その先に掴んだ四角い板をカラベラスに渡した。
「き、貴様!」
カラベラスの手の中で、板が光を反射して輝く。それは、デマンドが隠していた、反応炉の操作パネルであった。サフィールが万が一にでも、兄の目を盗んで操作をしないよう、常に手元に携帯していたのだ。
この女が、パネルを必要としているとは思えない。裏で糸を引いている人物を、彼は確信せざるを得なかった。
「サフィール……!」
───兄さん。いつかネメシスを、花でいっぱいにしようね。
幼い弟のあどけない微笑みが、瞼の裏に蘇る。侵略を開始してから、ドロイドの開発に没頭していった弟。いつからか笑わなくなった弟。セレニティに固執する彼を、一歩引いて見るようになった弟。それでも、何があっても、彼だけは付いて来てくれると信じていた。エスメロードより誰より、デマンドはサフィールを信用していたのだ。血を分けた、たった一人の弟が、自分を裏切った。
「おのれ……ん、ぐううっ!」
抵抗するデマンドの体を、ジャーマネンはいとも容易に繭状にくるみこんだ。邪眼を失い傷を負った彼は、普段の力が出せない。真紅に包まれて意識が遠くなる現状に、ただ甘んじた。
空中に水晶玉が浮かぶ。そこに映る光景を、ペッツは不安そうな顔で見ていた。
心配せずとも、粘液ドロイド・ジャーマネンに捕獲されたデマンドは、当分出ては来れないだろう。その間に、やれるべきことはやっておかなければならない。
玉座の間にて、サフィールはペッツに椅子を勧めたが、彼女は水晶玉を見つめたまま首を横に振った。新たに主となったサフィールが立っているのに座るわけにはいかないと言い張る。全く真面目なことだ、と彼は苦笑する。
かく言う彼も、デマンドの玉座には腰を下ろさない。そこまで図々しくはなかったし、端からプリンスの座などには興味もなかった。ペッツの体を気遣ったのは、あの後三回ほどせがまれて性交を続けたからなのだが、彼女は一向に負担に感じている様子はない。ルベウスに鍛えられたから、特別なのだろうか。
あの男の自信に溢れた顔を思い出し、サフィールは少し面白くない気分になった。一人の女性に入れあげた経験がないので、これが嫉妬なのかどうか未だに良くわからない。けれど、懸命に求めてくるペッツを可愛いと思ったのは事実だった。
「デマンド様は……さぞ、ご立腹でしょうね」
ペッツは、大きな胸の前で手を組み合わせる。まるで、自分の存在が兄弟が袂を分かつ原因になったとでも思っているようだった。
自惚れに酔った女の肩を、サフィールはそっと抱いた。水晶玉の中で、首尾を終えたカラベラスがこちらに向かって笑顔で手を振り、映像が切り替わった。しばらくして、突然消えたデマンドに呆然としているセーラー戦士たちの姿が映る。
城の警戒態勢を解き、四守護神をセーラームーンと合流させたのは、サフィールなりに考えがあってのことだ。今の彼女たちを一箇所に集めておいても、団結して反撃してくるとは考えにくい。むしろ、その逆の効果を彼は狙っていた。サフィールの冷たい眼差しはただ一人、ヴィーナスだけに注がれていた。有能な彼の最大の汚点であり、また最大の転機ともなった少女だ。
「君はヴィーナスをどう思っている」
投げやりな口調で、サフィールはペッツに尋ねた。折角だから、女性の目から見た意見も聞きたかった。
「怠惰で、軽薄で、過ちを起こしても反省のかけらも見当たらぬ小娘だと把握しております」
身も蓋もない答えが返ってくる。ペッツを抱く前ならいざ知らず、抱いて不安を取り除いてやった今でもそんな言葉が出てくると言うことは、冷静に見ても彼女はどうしようもない人間だということだ。
ヴィーナスを初めて間近で見たのは、毛布にくるまれてペッツに担がれた無惨な状態の時だった。想像していた美しさとはまるで違い、実際に話して見るとあまりの緊張感のなさに呆れると同時に、救われたのも事実だ。
一時でも、あの少女に心乱されてしまった事が、サフィールの心に重石となって残っていた。ヴィーナスという存在を完全に否定しなければ、彼の中の迷いは消えない。兄と同様、間違ったものは、正さなければならない。セーラー戦士たちが深みに嵌まろうと、これはサフィールなりの正義なのだ。
「確かに、他の守護神のためにも、彼女はそろそろ悔い改めるべきだ」
勝手に結論付けて、水晶玉に映るセーラー戦士に見入った。四姉妹やルベウスが暴走したせいで、彼女らは充分すぎるほど傷ついた。男である自分には想像もつかないが、下賎な連中に陵辱されるのは、さぞかし辛かっただろう。
「口で説くよりも、実際に見てもらった方がいい。例のものを持ってきてくれないか」
四守護神の結束を防ぐために、彼は初めて、卑劣な行為に手を染めようとしていた。
「君のことだから、処分せずに取ってあるんだろう?」
思いもよらなかったであろう指示を受け、ペッツは目を瞬いた。
「は……」
肝心の主語が欠けていたため、理解に時間がかかったようだ。数拍置いて、青年の真意を悟り、ペッツは顔を赤くする。忘れていた過ちを、今更掘り起こされた、といった顔だった。サフィールは一度記憶したことは忘れず、また使えるものは何でも使う主義だった。
「し、しかし、サフィール様の恥に……」
口ごもるペッツに、彼は意地の悪い質問を投げかける。
「僕に最初に恥をかかせたのは?」
「……私とコーアンです」
彼女はそう答えるしかない。あまり苛めるのも可哀想に思い、彼はすぐに持ってくるように命じた。色々なものにぶつかりながらペッツが姿を消すと、背後でくすくすという忍び笑いが聞こえた。
「しばらく見ないうちに、随分腹黒くなったじゃないの。見直したわ」
「エスメロード……」
別室で休ませておいたはずの翠の美女は、手当ての甲斐あってもうすっかり体力を回復していた。これならすぐに戦力になる、とサフィールは冷静に算段した。
エスメロードは髪の毛先を扇子で弄びながら、気だるげに天井を見上げる。
「ま、取り敢えずは感謝しておくけれど。私の出番を取っておいてくれなきゃ嫌よ」
「判っている。僕に裏切られた兄さんを救うのは、お前の役目だ。その前にまず、ワイズマンを始末しなければならない」
デマンドをワイズマンから引き離したのはいいが、姉妹やエスメロードだけでは心許ない。何より、サフィールは技術部門担当で、戦闘力は地球人並みであった。
このままでは勝てる要素がない。そこで思いついたのがセーラー戦士の存在である。今の彼女たちならきっと、自分の思うがままに動いてくれる。姉妹たちやエスメロードを傘下に入れたことで、彼はいつになく強気になっていた。
「ワイズマンを倒して、その後はどうするのよ。地球から手を引くつもり?」
色気を含んだ咎めるような目が、サフィールを見つめる。
「それも考えている。研究のためのデータは、もう十分取れた。あの星は、邪黒水晶のパワーに耐えられるほど強くはない」
ワイズマンの言うままに邪黒水晶の巨石を打ち込んだら、今度こそあの星はお終いだ。地球人が何人死のうが構わないが、生活していけない星を侵略しても意味はない。
「退却なんて、考えたこともなかったわ。デマンド様が納得しないし、ルベウスの死だって無駄になるじゃない」
傲慢な美女の口から零れた意外な言葉に、サフィールは首を傾げる。
「ルベウスとは犬猿の仲だったはずだが……」
「べ、別に同情してるわけじゃないのよ。ただ一応、ずっと共に戦って来た同志だし」
扇子を扇ぐスピードが、心なしか速くなった。後れ毛がまといつく彼女の耳朶に、既にピアスはない。それでも彼女の心には、常にデマンドがいる。
「お前はセレニティさえ排除できればいいんだろう。姉妹たちも男に酷い目に遭わされて、地球は懲り懲りだと言っている。そもそも、地球侵略を進言したのは兄さんではなくワイズマンだ。それに」
言葉を切り、サフィールは声を潜めた。
「───彼の真意は、侵略ではない。単なる破壊だ」
「まぁね」
薄々気づいていたのか、エスメロードは扇子で口元を覆い、目を細めた。
「ルベウスはもともと壊すのが大好きな性分だから、ノリノリだったけど。支配するはずの地球が崩壊したら元も子もないわね。……あの男も悲しむだろうし」
「あの男?」
「何でもないわ。こっちの事」
エスメロードは機嫌良く鼻歌を歌っている。デマンドを裏切ることに、躊躇している様子はなかった。何が彼女を変えたのか、サフィールには思い当たる節がない。
「まあ、セレニティに思い知らせてやれれば、私は満足よ。この分じゃ、放っておいても、未来は変わるでしょうしね」
ブラック・ムーンの期待している未来。セレニティとエンディミオンが結ばれず、クイーンが即位しない世界。月の王国の血統が途絶え、暗黒の一族が繁栄する未来。
その未来図の中に、必ずしも地球侵略は含まれない。クイーンへの復讐が、彼らの最終目的なのだから。そしてそれは、半ば果たされたようなものだった。
何故、全てを憎むことが出来ないのだろう。
消えたデマンドを思いながら、うさぎは自らの身をかき抱いた。命に代えてもデマンドたちを滅ぼす、そう誓ったのに、また迷い始めている。仲間を傷つけた憎い相手、その相手に身を庇われた。銀水晶を操る者としての慈悲の心が、彼女を翻弄していた。デマンドを許すことは、四守護神の犠牲を無駄にするということだ。うさぎ個人の感情で彼らを許容することは出来ない。
(現に、レイちゃんは子供まで産まされている)
強く美しく、誰より気高かったレイは、先程から憤りのこもった表情を亜美へと向けていた。
───今の爆発で、うさぎが死んだらどうする気だったのだ。
自分のためではなく、うさぎのために、彼女は憤慨している。
(それは違うよ、レイちゃん)
亜美は、うさぎを見殺しにしたわけではない。うさぎの強運と、生命力に賭けてくれただけだ。丸裸にされた亜美が、あの状況で取れる反撃の手段など、限られている。けれど亜美を庇う旨の発言をすれば、レイの怒りに油を注ぐだけだろう。大事な仲間、どちらも大好きなのに、彼女たちを救う言葉一つかけられない。
「ねえ、みんな……せっかくまた会えたんじゃない。こういうの、やめましょう?」
一歩前に出る美奈子に、皆の視線が集中する。
「今のあたしたちがやらなきゃいけないことは、ここから脱出する手段を考えることよ。喧嘩なら後でいいじゃない」
セーラー戦士の中でただ一人、刻印を焼き付けられていない美奈子の強い口調に、その場にいた誰もが言おうとした言葉を飲み込んだ。
───あなたに言われたくない。
うさぎでさえも、この状況下での美奈子の明るさに戸惑いを隠せなかった。彼女はこれほど、他人の痛みに鈍感な少女であったのかと、疑問が残るのだ。
敢えて痛みから目を背けているのと、最初から知らないのとでは、大きな差がある。無論うさぎとて、ずっと一緒にいたわけではないから、彼女がどんな扱いを受けていたのかは想像することしか出来ないが、女としての本能で、美奈子がまだ汚されていないことが判ってしまう。
そしてそれを信じたくない気持ちも強かった。額ではなくて、レイのように別の場所に刻印があるのかも知れない。そんな淡い期待まで抱いていた。深い傷を負った者たちが集うこの場において、美奈子の存在は明らかに浮いており、あまりにも異質だったのだ。
「その件なんだけど、あたしはここに残るかも知れないわ」
レイの低い声に、うさぎは驚いて彼女の腕の中の赤子を見た。母親に危害を加える存在が去ったのを知ってか、赤子は既に寝息を立てている。使いようによっては最強の盾ともなる、まだ名前も付いていないルベウスの子供。
レイはルベウスを愛していないと言い切った。それはそうだろう。強姦された相手にすんなり惚れるのは、虚構の世界だけの話だ。それでも、赤子に対する愛情とはまた別の話なのだろうか。
戸惑いながら見つめるうさぎに、レイは力の無い笑みを浮かべた。
「心配しないで。……母性に目覚めたとか、そんなんじゃないのよ。あたしはカラベラスとは違って、きっと根っから戦士の血が流れているのよ」
うさぎを裏切るつもりはないのだと強調しながら、彼女は俯く。
「産んだ以上、とことんこの子を利用させてもらうの。どうせ消えない刻印なら、地球から手を引かせて、最悪の場合、デマンドと刺し違える……」
「そんなの駄目だ!みんなで地球に、以前の生活に戻るんだよ!!」
まことがレイの肩を掴んだ。レイは、その白い髪を痛々しそうに見ながら、首を横に振る。
「地球に戻ったって、未婚の母として世間から白い目で見られるだけよ。まこちゃんならそれに耐えられる?普通の可愛いお嫁さんが夢だったんでしょう?」
レースやフリルで彩られた部屋、甘いお菓子やハーブの香りに包まれた部屋で過ごす乙女の夢。誰よりもそんな未来を願っていたまことは、閉ざされた将来を思い沈黙するしかない。
辛い出来事も人生の経験の一つだと女性が思っても、世間の男性はそうは思ってはくれない。処女を失った過程や、そこに到る心理などはどうでも良く、ただ結果のみを求める。何も知らず無垢であることだけが善なのだと語り、一方的に女性の『性』を責め、面白おかしく中傷して楽しむ、それが世間というものだ。
「子供を置いていくという選択肢は無いの」
亜美が静かに口を挟む。両親が離婚し母親に引き取られた彼女は、捨てられる子供の心理もよく理解している。片親だからと言って、必ずしも不幸だとは限らないことも。
ただ、レイが子供の幸福を願うならば、ブラック・ムーン一族に復讐する機会も永久に失うこととなる。彼らの組織を滅ぼせば必然的に、子供を育ててくれる環境も消えてしまうことになるからだ。何も出来ない赤子をたった一人、宇宙に放り出して、自分は地球に戻る。確かに、それもまた一つの道だろう。
「亜美ちゃんなら、そうするの……?」
うさぎは愚かな質問をした。亜美は、怒る様子も無く静かに首肯した。
急に、突き上げるような寒気を覚えた。デマンドに陵辱された子宮を、肌の上から押さえる。好きでもない相手に孕ませられたレイの苦痛に思いを馳せれば、産んだだけでも充分義務は果たしたのだから、後は子供の人生だとも思う。それに対して責めるのは、想像力を欠いている人間のすることだ。
(あたしも、妊娠するの?まもちゃんじゃなくて、デマンドの子を)
月の女王の子宮からは代々、一人の女児しか産まれない。対して、ブラック・ムーン一族の王位継承者は、男児でなければならないはずだ。それを承知でうさぎを妃にと望むデマンドは、プリンスという立場を無視し、個人的な感情で動いているとしか思えなかった。それを許す一族の仲間たちも、どうかしている。目的を忘れて好悪の情のみに突き動かされている辺り、破滅願望があるとしか思えない。
彼は一族の繁栄を隠れ蓑にして、ただクイーン・セレニティだけを求めている。それが、うさぎには怖いのだ。
(あたしがデマンドの子を産んだら、ちびうさは、どうなるの?)
「もうっ、だから、湿っぽいのはやめましょうよー」
美奈子が再び明るい声を上げた時、彼女の背後に突然、邪黒水晶のピアスが浮かび上がった。気づいた全員がそちらを見、美奈子が振り返るのが最も遅かった。
敵が攻撃を仕掛けてくるものだと思ったが、そうではなかった。うさぎたちの目線よりも少し上の位置にそれは浮遊し、三角形の白い光を発した。光は真っ直ぐに伸び、爆発の影響で罅割れた壁面に、映写機のようにひとつの光景を映し出す。一同は、固唾を呑んでその光景に見入っていた。
『……っ、んっ、ううん、んっ』
暗い部屋で、椅子に座る男性の前に、一人の少女が蹲っている。
『んんっ、あ、んむっ……』
くぐもった少女の声が、誰のものであるのか、最初うさぎにはわからなかった。少女は顔を伏せ、一心に男性のモノを咥えていた。
『そうよ、これは親切にしてくれたお礼。愛情には愛情を返すのが、Vちゃん流なのよ』
俯き、頭に布を巻いた少女は、確かに『V』と名乗った。うさぎは思わず、振り返って美奈子の顔を見た。
(なに、これ?)
美奈子の顔は、蒼白になっていた。映像の中の光景は、頭に巻いた布もそのままで、ただ表情だけが違った。どう見ても、陵辱されている様子ではない。嬉々として、というのが正しい。うさぎは何故か薄ら笑いがこみ上げてくるのを止められなかった。
(違う……違う。美奈子ちゃんがこんなことするはずない)
縋るように美奈子を見るが、彼女は凍りついたように固まって動かない。唇だけが、嘘でしょう、という形にかすかに震えた。
それは果たして、何に対する『嘘でしょう』なのか。この光景そのものが嘘だと友人が断言するのなら、うさぎは喜んで信じよう。けれど美奈子の表情が明らかに、これが現実に起きた出来事であることを物語っている。
壁に映し出される映像は、テレビと違って、見たくなくともスイッチを切ることが出来ない。延々と青年と少女の痴態を映し続けて、止まることを知らない。
『でもサフィールって、偉いわよね。大人の余裕って言うかー、他の男の人みたいにガツガツしてないわ』
男性に媚びへつらい、名前を呼びながら奉仕を続ける少女の姿が、そこにはあった。仲間が陵辱を受けて傷ついている間、彼女は進んで身体を売って愉しんでいたのだ。そう見せ付けるような映像だった。
(じゃあ、これは……この相手は、あの澄ましたサフィール?)
うさぎは信じられない思いで、美奈子を見た。何故か一人だけ、刻印を焼き付けられることを免れた美奈子。彼女や亜美やまことが着せられているドレスが、急に汚らわしいもののように思えてくる。
『企んでなんかいないわ。あたし、頭を使うのって苦手だもの』
口元から精液を滴らせながら笑う少女と、目の前に立っている四守護神のリーダーの顔が、重なった。うさぎはまだ現実を受け止めきれず、他の仲間たちは、恐ろしいほど冷たい表情で、じっとその痴態に見入っている………。
彼女たちが何を思い、怒りの対象をどこへぶつけようとしているのか、うさぎには痛いほど判ってしまう。
「……やめて……」
美奈子が力なく呟いた。彼女も、過ちだと感じているのだろうか。それともいつもの彼女のように、喉元過ぎればまた同じ事を繰り返すのだろうか。
『嘘ばっかり。まだ何か隠しているくせに』
映像の中の美奈子が、調子付いて更に口を開く。
「やめて、やめてっ!」
どんなに否定しても、過去の自分の行動は消す事が出来ない。娼婦に身をやつした処女は、陵辱されても決して敵に媚びなかった仲間たちの行動を否定するかのように、あっさりと敵の前に跪いて男根を啜る。
『意地悪。教えてくれたっていいじゃない』
「やめてーーーーーっ!!」
美奈子が絶叫するのと同時に、映像がぶつりと切れた。その沈黙を割るように、青年の声が部屋の中に響く。
『今更、恥じらうこともないだろう。仲間に偽りを告げてまで、リーダーの地位に縋りたいか』
うさぎに向けたのと同様、冷たい声だった。映像の中の、大人しげな青年からは想像も付かなかった。サフィールを変えてしまったのは美奈子なのだ、とうさぎは思った。それも、悪い方向に。
「『蒼のサフィール』……あの人が、敵の中枢(ブレーン)……」
亜美は、やや興味深げに顎に手を当て、呟いた。今までとはどこか違うその前向きな反応に、うさぎが気を取られる間もなく、レイの声が美奈子を貫いた。
「嘘よね、美奈子ちゃん?」
否定してほしいと言う必死な願いが、その声には宿っていた。亜美やまことと仲違いした経験から、今度は間違えない、友人を信じたいと思っているのだろう。
正直な美奈子は、否定しなかった。偽の映像で、敵のでっちあげだと、ごまかすことが出来なかった。
「美奈子ちゃんがミーハーで、美形に弱いって事は知ってるわ。でも、まさか、あたしたちが苦しんでいる間に、こんなことしないわよね?」
「……っ、レイちゃん……」
「友達がみんな犯されて、孕まされて、死にそうな目に遭ってる時に、こんな、敵とまるで恋人同士みたいに、いちゃいちゃと……嘘よね、嘘でしょ!?」
もし、両手が赤子を抱くために塞がっていなかったら。うさぎは、レイが美奈子に掴みかかるのを、命懸けで止めなければならなかっただろう。
(ほんとなんだ。美奈子ちゃん、サフィールと……)
「嘘って言ってよ!」
血を吐くような叫びだった。美奈子は耳を塞ぎ、その場に膝をついた。逃げ出さなかっただけ立派と言えるだろう。
後悔しているにしろ、いないにしろ、彼女が無思慮であったことは誰の目にも明白である。責められて然るべきで、まこともそう思っているのか、今度は庇わない。
「あたしだって、知らなかったよ。美奈子ちゃんがこんなことしてたなんて」
その瞳には、怒りよりも悲しみがあった。十番中学の校門前で別れてから、ずっと気にかけていた友人が、敵の男とよろしくやっていたと知れば、いかに寛容な少女でも笑ってはいられまい。
うさぎにはサフィールの人となりは判らないが、これが偽の映像だとは思えなかった。捕らわれた美奈子が未だ処女であることが、何よりも彼の誠実さを証明している。それすらも、彼の計算の内ではあったのだが。
「恋人でもない男に、どうしてこんなことが出来るの?あなたみたいな人がいるから、女はみんな淫乱だとか、強姦されても喜んでるなんて思われるのよ!!」
レイの主張は尤もだった。子供を産んだからルベウスのことは許したのだと、さらには最初から相思相愛だったのではないかなどと、そんな目で見られることが、何よりも彼女は耐えられない。それなのに、美奈子はその理論を裏づけするような迂闊な行動を取った。女の価値を下げるようなことを、よりにもよってセーラー戦士のリーダーが率先して行った。それが許せない。
室内の温度が、レイの怒りによって一気に高まったような気がした。光の消えた邪黒水晶から、サフィールの静かな声が流れてくる。
『マーズ、マーキュリー、ジュピター。今の映像をどう解釈するかは、君たちの自由だ』
自由と言いながら、明らかに美奈子の孤立を狙っている台詞に、うさぎは唇を噛んだ。悔しいが彼のやり方は的確だ。こんなものを見せられて、平静でいられるはずが無い。うさぎでさえもほんの一瞬、美奈子を憎らしいと思ってしまった。
『君たちに乱暴した連中は、既にペッツやカラベラスが始末した。陵辱を命じたコーアンも、近々断罪する予定だ。男がみな下種な輩ばかりではない事は、判って欲しい』
優しく、労りに満ちた言葉に、レイとまことは顔を見合わせた。彼の言葉は、傷ついた彼女たちの心に浸透する、妖しい魔力を秘めていた。ただ亜美だけは変わらず冷静な表情で、その声に聞き入っている。
デマンドの寵愛を受けるがゆえに、サフィールの厚意の対象外であるらしいうさぎは、必死に首を横に振った。美奈子を責めては、敵の思う壺だ。彼は、傷ついたセーラー戦士の心に付け込んで、自在に操ろうとしている。
「何が目的なんだ、あんたは」
揺れる心を抑えるように、まことは告げた。陵辱した男たちが既にこの世にいないと知らされた時、彼女の表情が一瞬崩れたのを、うさぎは見てしまった。
「レイちゃんの出産を助けてくれたり、あたしたちにドレスを着せてくれたり、敵のくせに何を企んでるんだ」
もう暴行は受けなくて済むのだと知らされた途端安堵してしまうのは、人間ならば仕方の無いことだ。
「まこちゃん、安心したら駄目よ。いくら甘い言葉を吐いたって、この男はデマンドの実の弟なんだから」
憎々しげに呟くレイを横目で見ながら、亜美が一歩前に踏み出した。黒光りする邪黒水晶に向かって、語り掛ける。
「ドロイドを使ってデマンドを救出したのは、あなたね」
『ああ、そうだ』
うさぎの気のせいかも知れないが、亜美が相手だと、サフィールの声が少し和らいだように感じられた。考えてみれば、この二人は知性派同士、相性が良さそうだ。
「でも、デマンドはそこにはいない。どこにいるの?」
『……何故わかる?』
問いかけを無視して、亜美は更に言葉を続ける。
「私たちを攻撃しないで、お兄さんだけを急いで連れ出したのは何故?まるで、拉致するみたいに」
『傷の手当てをしないといけないからな』
「嘘ね。あなた、デマンドの動きを封じたかったんだわ。彼のいないところで事を進めたかったんでしょう」
その台詞で初めて、うさぎはサフィールに感じた違和感の正体に気づいた。デマンドの忠実な右腕であった彼は、兄の命に反した行動を取ろうとしている。爆発騒ぎに便乗して、邪魔になった兄を何処かへと連れ去った。そう考えればしっくりくる。
『察しがいいな、マーキュリー。確かに、兄さんには別室で少し頭を冷やしてもらっている』
あんな粘液状のモノに全身を包まれては、冷やすどころの騒ぎではない。彼は本気でデマンドを敵に回す気なのだ。これを好機と見るべきか、それとも敵の罠なのか。
「仲間割れ、と考えていいのかしら」
その場にいた誰に対しても、口を挟む猶予は与えなかった。レイが戦いの中で最も輝くように、こんな時の亜美は最も生き生きとして見える。
「だとしたらデマンドとあなたの意見は、どこまで一致していて、どこで食い違っているの?」
それが判らない限り、信用には値しない。亜美の目はそう言っていた。うさぎは、つい先刻まで、ぼろぼろに陵辱されていた亜美の姿を思い出していた。レイの子供を殺せ、と命じた挙句に暴力に訴えてきたコーアンの時とは、あまりにも違う。相手の目的が全く読めなかった。
『兄さんは、遅かれ早かれ君たちを始末するつもりらしい。だが僕は、「三」守護神には何の恨みも無い。僕が軽蔑しているのは、まやかしの光で人々を惑わすセーラームーンと、今見てもらった通り、俺に猥褻行為を働いたヴィーナスだけだ』
「なっ……!」
あまりの言いように、美奈子の頬は怒りに染まった。
「何を言ってるのよ!あなただって最初は喜んでたじゃない!いいえ、盗み聞きされてさえいなければ、今だって!!」
ほんの少し好きだった相手に、あっさり裏切られた。彼女の表情はそう語っていた。一見優しげで、懐柔しやすそうな青年の取った行動は、美奈子も予想外だったに違いない。
うさぎにも、おおまかな事情が見えてきた。美奈子は美奈子なりに、敵から情報を引き出そうとして、サフィールに色仕掛けで接近した。彼の方も満更ではなく、途中まで良い感じにはなったのだが、恐らく先程の光景を姉妹らに盗聴、盗撮された。その事で美奈子を逆恨みしたサフィールは、彼女が最も傷つくやり方で、その映像を公開したのだ。
卑怯と言えば卑怯。しかし、デマンドや敵の男たちから受けた陵辱行為に比べれば、まだ生易しい方だと思えてしまう。
「美奈子ちゃん、少し黙っていて。……それで、あなたの要求は?」
『話が早くて助かる。ブラック・ムーン一族のために、戦ってくれる気はないか?』
思いも寄らない言葉に、うさぎは耳を疑った。これまで散々、セーラー戦士たちを苦しめ、虫けらのように蹂躙してきた敵の、どの口がそれを言うのか。レイも、亜美も、まことも、そして美奈子も、気持ちは同じはずだった。
「面白いことを言うのね。あなたの部下が私たちに何をしたか、もう忘れたの」
静かな表情の下に怒りを滲ませながら、亜美が答える。四守護神の陵辱に関して、サフィールやデマンドは何も知らされていなかったらしいが、そんな事は言い訳にもならない。
好戦的なルベウスやあやかしの四姉妹を抑え切れなかったのは、彼ら兄弟の至らなさ故だ。しかもデマンドはうさぎの体を好きなように犯し、妃にするなどと世迷言を吐いている。そんな連中に、どうして力を貸そうなどと思えるものか。
少女たちの冷ややかな視線に気づいているのか、いないのか、サフィールは平然と言葉を続ける。
『君たちのリーダーがしでかした事と、同じようなものだろう。何なら、今の映像をもう一度流そうか?』
仲間たちの目が、美奈子に集中する。いたたまれなくなったのか、美奈子は目を伏せて俯いてしまった。
『簡単に被害者になれる女性と違って、男は言い訳が利かない。いくらヴィーナスには手を出していない、一方的に迫られただけだと断言しても、生憎、証明できるものは何も無い』
ややあって、サフィールの溜め息が聞こえた。
『この一件で、あやかしの四姉妹の不興を買ってしまい、迷惑しているんだ。君たちはともかく、少なくともヴィーナスには、こちらのやり方を責める資格は無いな』
つまり、お互い様だ、ということを彼は言いたいらしい。正論ではあるが、何故これほどまでに腹が立つのだろう。
サフィールは、レイたちに同情を寄せる反面、うさぎは犯されて当たり前だとも言いたげに、先程から存在を無視している。美奈子のように、面と向かって詰られた方が、まだましだった。
彼にとって、うさぎは兄を誑かした魔女であり、人々を支配する独裁者であり、この世に存在してはいけない存在なのだろう。激しい憎悪をぶつけられるだけが「憎しみ」ではないのだと思い知らされ、とても悲しくなった。
『信じてはもらえないだろうが、僕は本当に何も知らなかったんだ。四姉妹の指揮権はルベウスにあったから、手も口も出せなかった』
「勝手な事を……」
レイが吐き捨てたが、その声にはあまり力が篭っていなかった。セーラー戦士とて、互いの行動を常に監視し合っているわけではない。味方同士であっても、誰がどこでどんな行動を取るか、うさぎにも把握し切れていない。だから、サフィールの言う事にも一理あるとは思う。
自分の与り知らないところで、仲間の事に関して責められるのは、辛いものだ。美奈子の取った行動に対してレイたちが詫びる必要が無いように、サフィールも必要以上の謝罪はしたくない、と言うのだろう。
これは、戦争だ。殺されなかっただけ運が良い。感情的に相手を責めるより、互いの妥協点を見つけ、双方にとって明るい未来を手繰り寄せるべきなのだ。
そうは思っても、忌まわしい陵辱の記憶は決して忘れられはしない。敵を許す寛容さは、味方を傷つける無神経さの裏返しでもあり、美奈子の存在がまさにそれを証明している。
「今は違うの?」
亜美の問いかけに、サフィールは誇らしげに答える。
『ああ。姉妹もエスメロードも、既に僕の傘下に加わった。もう安心していい』
彼はいつの間にか、ブラック・ムーンの女性陣を味方につけていたらしい。我の強い四姉妹のみならず、あの「デマンド様命」のエスメロードまでも従えるとは、やはり只者ではない。
「それだけの手腕があるなら、私たちの力が必要とは思えないけれど」
亜美が思った事を、うさぎもまた思った。力を失ったセーラー戦士が、一族の役に立てるとは思えない。子供を産ませるためでもないのなら、認めたくは無いが自分たちは無価値だ。
そして、圧倒的優位なはずの敵が和解を求めてくる状況で、考えられるケースはいくつかある。首謀者の死か、物資が尽きたか、目的の変更か、あるいは。
「……共通の敵が現れた、ということ?あなたやデマンドの力を以ってしても、敵わないほどの」
うさぎは思わず亜美の横顔を凝視した。よりにもよって一番辿り着いて欲しくない結論を、彼女は導き出してしまった。
二度も陵辱され、深い傷を抱えているはずの亜美は、不思議とサフィールに恐怖を感じている様子は無い。犯された彼女が一言「もう戦いたくない」と言えば、うさぎは快く了承するつもりだった。しかし今の亜美からは、目の前の問題を解決しようとする強い意思の力を感じる。亜美を、見くびっていたのかも知れない。傷ついてもう立ち直れないだろうから、後は自分ひとりで戦おう、などと決めつける事は、逆に彼女たちに対して失礼だったのかも知れない。
『聡明さが戻ったようで何よりだ。姉妹たちも君くらい賢ければ良かったんだが』
良かった、という言い方に、うさぎは不吉なものを感じた。亜美は、褒められた事に特に何の感慨もなさそうな口調で言った。
「それで、私たちをそいつと戦わせて、相打ちにでも持って行きたいのかしら」
『そうなってくれるのが最もいい。しかし、逃げる者をわざわざ追いかけて殺すような真似は、僕はしない』
「………あなたたちは、地球を侵略に来たのでしょう?」
事情がよく飲み込めないらしく、亜美は眉を寄せた。セレニティやセーラー戦士が生きている限り、地球の支配権は永遠に彼らのものにはならない。
彼個人が生かしておいてもいいと思っていても、どのみち地球が闇の一族の手に堕ちれば、長く生きてはいられない。邪黒水晶の瘴気はそれほどのものなのだ。
『地球を死の星にする気はないんだ。そして、邪黒水晶の力を以ってかの星を支配するのは、不可能と断定した』
レイたちがかすかに息を呑む。うさぎも、今聞いた事が信じられなかった。
「どういうこと?」
驚愕にどよめくセーラー戦士たちを尻目に、彼は更に驚くべき事を口にした。
『僕の言う通りに動いてくれたら、無事に地球に帰すと約束しよう』
言い放った、次の瞬間のことだった。
空中に浮いていた邪黒水晶に、ピシリと一筋の亀裂が走った。一同は思わず身構えたが、それ以上の変化は無い。
『サフィール様!』
若い女の、焦ったような声が聞こえる。この声は、ペッツだろうか。
『申し、……通信が、傍受……以上の……は、不可……至急……下さい!』
音声を伝える装置の役割を果たしていた邪黒水晶に、何らかの障害が発生したことが判った。相手の声は途切れ途切れになり、何を言っているのか聞き取りづらい。
『……思ったより早かったな。マーキュリーが派手に……してくれたおかげで、……に勘付かれたか。出来ればもっと……が欲しかったが……仕方ない』
通信は途絶えた。それと同時に、垂直に立っていた邪黒水晶が横に傾き、まるで方位磁針のように出口の方角を指し示す。
崩壊した扉から、寒い外気が流れ込んでいた。その外は、長い回廊といくつもの黒い部屋が続いている。水晶は、示す方向に来い、とでも言うように、浮遊しながらゆっくりと進みだした。
「どうする……?」
水晶を追って行くべきか、凛々しい顔に戸惑いを滲ませながら、まことが尋ねる。
「罠かも知れないわ」
レイは相変わらず頑なであった。
「じゃあ、ここでずっと震えてろって言うの?」
美奈子が言うと、今度は誰も返事をしなかった。
「行きなよ、みんな。あたしたちは、まもちゃんとちびうさを探してみる」
仲間に白眼視された美奈子を気遣って、うさぎは『たち』の部分を強調した。美奈子のオレンジ色のドレスの裾を引っ張り、あなたを決して独りにはしない、と言外に告げる。
彼女がセーラーVとして輝いていた頃、うさぎはただの泣き虫の少女で、うさぎがプリンセスとして輝けば、彼女は影に徹する。自分たちは、合わせ鏡のようによく似ていた。サフィールとデマンドも、同じようなものだろう。デマンドの陰に隠れて目立たなかった彼が頭角を現してきた今、デマンドは追い詰められて身動きが取れない。だから、うさぎたちが自由に動ける今がチャンスだ。
「探すって……あてでもあるの?」
レイの問いに、うさぎは曖昧に笑った。話しても、きっと信じてはもらえないだろう。もう一人のセーラー戦士の存在を。
────お行きなさい、セーラームーン。あの方は、私が探し出して必ず後からお送りします。
あの時、セーラープルートはそう言ってくれた。何故か、少し寂しげな笑顔を浮かべながら。
時空の狭間で独り戦う、孤独な戦士。彼女は信用できる、とうさぎは思った。時空の扉を抜けて、デマンドに拾われたあの場所で、今度は自分が待ってみよう。
「サフィールが憎んでいるのは、あたしと美奈子ちゃんだけだもの。みんなにはきっと悪いようにはしないと思うわ。お願い、逆らわないで、言う事を訊いて」
レイの目が悲しげに光る。子供を産まされて尚闘志を失わず、セレニティを絶対の主と定めるセーラーマーズの一途な炎が、うさぎを苛む。助命を請うために、プリンセスを見捨てる。今になって、それをしろと言っているのか。自分のこれまでの抵抗は無意味だったと言うのか。目がそう告げていた。
「このまま大人しく飼われるつもり?あたしたちのために、犠牲になる事は無いのよ!」
レイは、うさぎがデマンドの妃になる事で、四守護神の命を救ってくれるものだと思っている。確かに、最初はそのつもりだった。だが考えたらデマンドがそんな約束を守ってくれるはずがない。残された道は、やはり戦いだ。
デマンドがうさぎに偏執さえしなければ、ベルチェが亜美を襲わなければ、ルベウスがレイに惚れなければ、ペッツがまことを貶めなければ、美奈子がサフィールに手を出さなければ、こんなにややこしいことにはならなかったのだ。人の感情とは、何と厄介なものだろう。それぞれの想いが複雑に絡み合って、何が正しいのか判らなくなる。
「違うよ、レイちゃん。犠牲になるのは……もう一度辛い思いをしなきゃならないのは、レイちゃんたちの方。こんな目に遭わせておいて、まだ戦えだなんて」
サフィールは『共通の敵』とやらを倒すために、レイたちを捨て駒のように利用する気だ。選ばせてやると言いながら、選択権など、最初から無いようなものだ。
「でもさ」
まことがふと思いついたように、呟く。
「あたしたちはご覧の通り、変身できないじゃないか。どうやって敵と戦わせるつもりなんだ……?」
うさぎも今になってその問題点に気づいた。皆の視線が、回答を求めて一人の少女の元へ向かう。こういう時、頼りになるのはやはり彼女しかいない。
「二つだけ、方法があるわ」
やはり亜美には察しがついていたらしい。しかしその顔には、甚だ不本意、と書かれている。
「一つは、ブラック・ムーンの刻印を消すこと……これは、うさぎちゃんとレイちゃんも聞いたはずだけど、人間の男性と交わることによって、刻印は消える」
「ええっ!?」
まことは驚きに目を見開いていた。
美奈子はペッツから訊いた事をそのまま亜美に伝えたらしい。うさぎは水晶玉の光景で同じくそれを見ていたし、レイも姉妹たちに知らされた。が、その場にいなかったまことにとっては初耳だったようだ。
妊娠が判る直前、レイはその不本意な手段を使っても構わない、と断言していた。もう一度変身するためなら何でもする、とデマンドの前で言い切った。しかし、出産を経た今はどうなのだろう。
「そ、そんなことで刻印が消えるのか……?何だ、一生消えないわけじゃないんだ」
絶望に染まっていた瞳に少しだけ力強さが戻ってくる、そんなまことに、レイは呆れた声を出した。
「安心してる場合じゃないでしょうが。それにはまず、ここからの脱出が不可欠でしょう?」
ブラック・ムーン一族の青年たちはいわば異星人だから、寝ても無意味だ。自分の星の人間と交わらない限り、もう一度変身できることは、有り得ない。
「そっか。そうだよな。いくら元に戻れる方法が判っても、ここには地球人の男なんて、一人もいないもんな」
────ここには地球人の男なんて、一人も……
うさぎはぼんやりとそれを聞いた。まことの言葉が、何故か一語一語、ゆっくりと耳に入ってくる。
それを反芻し終えると、頭の中に恐ろしい考えが過ぎった。否定すればするほど、それは最も有効な手段として、彼女の中に妖しく根を下ろす。
青ざめているうさぎに気づいたのか、亜美が意味ありげに見つめてきたが、自分の話を優先させたいのか、今は何も言いはしなかった。目を伏せ、更に言葉を続ける。
「そしてもう一つは、邪黒水晶のピアスをつけて、ダーク・パワーと呼ばれる異能力を発動させること」
邪黒水晶のピアス。思えばルベウスやあやかしの四姉妹の耳には、常にそれがあった。彼らのパワーの源だ。
「ペッツがまこちゃんを痛めつけた時に、置いていったものを分析したの。邪黒水晶には、力を増幅させる効果がある。ドーピングみたいなもので副作用が強いけれど、大きさによっては銀水晶に匹敵する力を持つ」
亜美は深く息を吐いた。
「サフィールは恐らく、こちらの手段を取るつもりでいるわ。ピアスをつけられてしまったらもう、どうしようもない」
「あの男の操り人形にされるってわけね。刻印を焼き付けられた上に、共用のピアスまで……それじゃ本当に、あいつらの仲間になるみたいなものじゃない!」
レイが憤慨する。敵と手を組むにしても、それが一時的なものであればいいが、邪黒水晶を身に着けるとなると話は別だ。ブラック・ムーン一族のあの顔色の悪さから、アレが人体に悪影響を及ぼすことは容易に推測できる。
「彼は、本当に頭がいい人よ。あたしたちの戦力が欲しい、でも、もう一度セーラー戦士に変身されたら、チャンスとばかりに逆襲される恐れがある。だからピアスを着けさせて闇の力を発動させ、その一方で抵抗の力を奪う……巧いやり方だわ」
素直に刻印を消したいと言えば、一見紳士的なサフィールは、地球から若い男性のニ・三人、見繕ってきてくれるかも知れない。だが、彼女たちが決してそうは言わない事も、計算済みだろう。美奈子のあの淫らな映像を見ているのだから。
『まさか、男に抱かれる方を選ぶとは思わなかった。あんな目に遭ったのに、やはり女性の考える事は判らないな』
君たちも所詮、ヴィーナスと同じ「淫乱」なのか。そんな嫌味を言う彼の姿が目に見えるようだ。それが判っているから、セーラー戦士たちはもう一つの選択肢を選ばざるを得ない。
亜美は扉近くに浮遊している物体を眺めた。邪黒水晶は、今は静止して少女たちが動くのを待っている。
「推測するに、彼がデマンドに逆らう事を決めてから、あまり時間は経っていないわ。その短時間にそれだけの事を考えて、行動に移せるなんて」
「亜美ちゃん……?」
まことが怪訝そうに声をかけたのは、彼女の表情がどこか嬉しげなのを悟ったからだ。
「不思議ね、何だか私、興奮しているの。敵なのに、悪い人なのに、面白い人だって思い始めているの。今まで男の人は、私の外面だけ見てラブレターをくれる人や、理屈で敵わないと女のくせに生意気だって、暴力で押さえつけてくる人しか知らなかった。いやらしい行為を軽蔑して、私と向き合って話をしてくれて、知性だけでぶつかってくる、あんな人は今までいなかった」
そう言い切った彼女の目の輝きに、うさぎは目を瞠った。これまでのような空元気とは全く違う、目的を得て真っ直ぐに進もうとしている力を感じた。
今頃になって、気づいた。亜美を立ち直らせるのは、優しいボーイフレンドの存在でも、気を許した仲間の励ましの言葉でもない。彼女と対等に張り合える好敵手、即ち『ライバル』の存在だったのだと。
陵辱される恐れのある若い男であるにも関わらず、亜美が興味を惹かれたのは、当然と言えた。恐怖をも凌駕する好奇心が、知の戦士を突き動かしたのだ。
「セーラーマーキュリーではなく水野亜美として、私は、あのサフィールともっと話がしてみたい。だから行くわ」
思えば、デマンドにピアスを仕掛けたのも、うさぎを助けるためではなく自分が楽になるためだった。考えすぎてしまう彼女の場合、それでいいとうさぎは思った。
傷は残るだろう。フラッシュバックの恐怖に震える夜もあるだろう。しかし、もはや友人を巻き込んで自滅を図るほど、亜美は弱くは無い。彼女の目標になるのなら、サフィールにはこれからも生きていて欲しいものだ。
「あたしは嫌よ!連中の仲間になるなんて冗談じゃないわ。ここで、うさぎを待ってる」
レイは赤子を抱えて座り込んでしまった。どちらにしろ、出産間もない彼女はあまり動かない方がいい。
彼女たちの体調を慮れば、このままサフィールに利用されるより、もう一度変身して逆転の機会を伺った方がベストだ。刻印を消すためとは言え、全く知らない男性と肌を重ねるのは怖い。しかし、よく知っている人物であれば……?
「さっきから何を考えているの、うさぎちゃん」
亜美が静かに口を挟んだ。幼いプリンセスが考えていることなど、彼女にはお見通しだろう。
「そんなことをしたら、衛さんとは二度と元に戻れなくなるわよ」
「……でも」
彼女たちと比べて、自分の弱さがあまりにも情けなく、自分にできる事は、このくらいしかないように思われる。
「返して言えば、元に戻れるなら『そんなこと』してもいいって事だよね」
「うさぎちゃん!」
刻印を消す方法を後から知ったため、まだ会話が理解できないらしいまことは、首を傾げながら言った。
「どっちにしろ、あたしたちがもう一度戦えるようになるには、その二つの手段しかないんだろう?だったら、今は大人しくサフィールに従うしかないよ」
話し合った結果、レイは崩れた部屋に残り、まことと亜美はサフィールの元へ向かう事になった。あくまでも話し合いのためであり、手を組むかどうか決めるのは、うさぎたちが合流してからだと亜美は言っていたが。
先程通信の邪魔をした者が『共通の敵』だとしたら、あまり結論を先延ばしにしてはいられない。時間がないのだ。下手をしたらブラック・ムーン一族と共倒れになる。
落ち込んでいる美奈子の手を引いて、うさぎは暗い回廊を歩き続けた。この城にはデマンドに抱きかかえられ、意識を失った状態で入った。どうしたら外の世界に出られるのか、見当もつかない。
「大丈夫、美奈子ちゃん?体は……」
陵辱されてはいないと言っても、ペッツに暴行を受けた事実には変わりない。その上仲間から疎外された彼女を、うさぎは主導者として、精一杯労わる事にした。
サフィールがあの映像を見せたのは、美奈子への個人的な制裁の意味はもちろん、四守護神が再び心を一つにして立ち向かってくる事を恐れたからだ。リーダーへの不信を煽っておけば、その心配は無い。亜美とレイですら、未だ険悪な状態でいる以上、団結する事などとても無理だ。
ようやく再会できたかと思えば、結局はまた別行動を取ることになってしまった。亜美の言う通り彼は頭の切れる男だ。うさぎが百人束になっても、とても敵いそうにない。あちらは亜美に任せて、自分はタキシード仮面の確保に専念しよう。
(こんなことで……挫けちゃ駄目だわ。あたしが、しっかりしないと)
決意するうさぎに、美奈子は力ない笑みを見せた。
「平気よ。ごめんね、気を遣わせちゃって。うさぎちゃんは亜美ちゃんたちと一緒に行った方が良かったのにね……」
彼女はサフィールと一悶着あった後、亜美と同じ部屋に閉じ込められていたらしい。扉には鍵がかけられたが、部屋にはもう一つ小さな窓があり、そこから脱出できたのだと言う。
サフィールが、窓の存在に気づかないはずが無い。多分、わざとだわ、と美奈子は言った。城の内部にドロイドたちの姿が全く見えず、途中で捕まることなくあっさりレイのいる部屋に辿りつけたのも、全てセーラー戦士たちを一つの所に集めて、皆の前で美奈子の痴態を鑑賞させるためだったのだと。
その直後に、あの説得。まことたちの心が揺らいでしまうのも無理はなかった。
「悔しいわ。何もかも、あいつの掌の上みたい。あたしのせいね。先走って、サフィールを怒らせたから」
うさぎは、何と言葉をかけていいのか迷った。美奈子のことがなくとも、いずれサフィールはデマンドを裏切ったかも知れない。しかし彼女が余計な事をしなければ、四守護神はすんなり元に戻れたのではないか、と思うのも本当だ。
「出口、どこだろ……ね」
苦し紛れに、話題を逸らすしかない。体が重く、足がうまく動かない。裸足の裏に冷たい床が触れるたびに、熱を吸われて鳥肌が立つ。
案内板でもあればいいのに、とこの場にそぐわないことを考えた時、ふと思い出した記憶があった。
(そう言えば亜美ちゃんが、こうやって壁に手を当てていけば、いずれは出口に辿り着くって……)
以前皆で巨大迷路に遊びに行った際に、確かそんなことを言っていた。気の長い話だが、うさぎはやってみる事にした。黒い壁は平らではなく、物を吊るすためだろうか、到る所に突起があることに気づいた。壁に手を這わせたまま歩いて行くと、そのうちの赤い突起に、指が引っかかる。カチリと怪しい音がした。
「うきゃっ!?」
突然、横の壁が発光し、うさぎは慌てて飛びのいた。冷たい風が頬に当たる。それがスイッチだったらしい。壁には長方形の穴が開き、外の光景が見えていた。
「どこからでも出られる……ってことみたいね」
美奈子がふうっと息をつく。よく見れば壁のあちこちに赤い突起がある。荒れた土を撫で、強い風が吹き付けてきた。
ドレスのままだといささか寒いが、うさぎたちは外に足を踏み入れた。草一つ生えていない荒野である。足の裏に、小石が刺さって痛い。
上空には暗雲が立ち込めている。自分がどこでデマンドに拾われたのか、すぐにわかった。地面から突き出している、あの邪黒水晶の塊が目印だ。
「……っ、く……」
足の裏に負担をかけないようよちよち歩きながら、うさぎはそちらへ向かった。美奈子も頭に巻いた布を風から庇いながら、後から付いて来る。
城を守るように取り囲む邪黒水晶は、どれも吐きそうなほどの瘴気を撒き散らしていた。こんなものが地球に打ち込まれたらと考えるだけで恐ろしい。
「美奈子ちゃんには、言うね。セーラープルートって人が、あたしをここまで送ってくれたの」
「セーラープルート……?」
うさぎは上空を見上げた。
「ここで待っていれば、まもちゃんはきっと来る」
その表情に、美奈子は眉を潜める。うさぎの顔は、とても恋人との再会に胸躍らせているようには見えない、悲壮な覚悟に満ちていたのだ。
尖った邪黒水晶の上に、そっと手を置く。審判を受ける罪人のように、うさぎは目を閉じた。
────そんなことをしたら、衛さんとは二度と元に戻れなくなるわよ。
しかし、他にどんな方法がある?自分だけが恋人と幸せに結ばれて、他の人間は不幸になっていいのか?
レイの赤子を育てる義務があるブラック・ムーン一族を滅ぼしてしまって、レイは果たして喜ぶだろうか。亜美はサフィールに興味を持ち始めている。彼女の良きライバルとなりそうな彼にも、死んで欲しくない。まことも美奈子も、自分が進むべき道を決めあぐねている。
これ以上皆を不幸にしたくは無い。邪黒水晶を身につけることを拒むためには、もう一度、セーラー戦士に変身してもらうのが一番いい。けれどもそれは、衛との別れを意味する。
(今まで、色んなものを無条件に与えられすぎた。一つくらい、手放したっていい)
皆が多くのものを失ったのに、自分は仲間に守られ、タキシード仮面も、ちびうさも、四守護神も失いたくないなどと考えるのは、あまりにも傲慢だ。
だから、衛を切り離す。ただしそのためには、美奈子はともかく、他の守護神たちには、もう一度悲しい思いをさせなければいけない……。
(何、勝手に決めてるんだろうね。皆の方が、嫌だって言うかも知れないのに)
うさぎはふと笑みを浮かべた。衛は、どこに出しても恥ずかしくない自慢の恋人だ。けれど陵辱を受けた彼女たちは、もう当分は男性に触れられるのも嫌だろう。
(その時はそれで。皆の事とは関係なく、一度、まもちゃんを解放してあげるべきなんだ)
エスメロードの顔が思い浮かぶ。頭を振り、うさぎは唇を噛み締めた。
重い雲の隙間から、ちらちらと赤いものが降ってくる。頬を、耳を、首筋を流れていくそれは、薔薇の花弁だった。いつ、いかなる時もうさぎを守ってくれた「彼」の赤い薔薇が、雲間から絶え間なく降り注いでいる。
上空を仰いだまま、まるで懺悔をするように、うさぎは花弁の洗礼を受けた。こうしていると、デマンドに汚された身体が清められていくような気がした。起こってしまった現実は変えられず、今の自分が無垢な姫君ではないことも判っている。それでも。
……さこ……
微かに、青年の声が聞こえた。誰よりも強く求め、焦がれた声だった。ほんの少し離れていただけなのに、もう幾千万光年は遠ざかっていた様な錯覚を覚える。
白い光が、瞼を直撃する。この光は、覚えている。ちびうさの不思議な力で飛ばされて来た時と同じだった。
光に目が眩んだ美奈子が、背後で転ぶ音がした。衛さん、と呟く声も確かに聞こえた。
「うさこ!」
瞼を開くよりも早く、ふわりとした感触が頭に舞い降りた。黒のタキシードにすっぽりと包まれ、抱き寄せられる。
デマンドの冷たい腕とはまるで違った。大人の熱を持った胴体と、どこか少年のぎこちなさを残した優しい抱擁に、うさぎは懐かしさのあまり嗚咽を漏らした。
タキシード仮面、地場衛、エンディミオン、どれもかけがえのない「彼」だった。前世がどうあれ、うさぎは今の彼を素直に好きになった。それだけは、誓って言える。顔についた花弁を擦り落とすように、その逞しい胸に頬擦りを繰り返す。
「……まもちゃん……会いたかった。会いたかったよぅ……」
背中を撫でる、清潔な白い手袋が、肩から顎へ這い、うさぎの顔を上向かせた。白い仮面越しに、目と目が合う。
「俺もだ」
気のせいか、彼は泣いているような気がした。それを確かめるより早く彼の唇が降ってきて、再び息も出来ないほど抱きしめられる。
額に焼き付けられた傷が疼いた。女の顔の中で一番目立つ場所に、嫌がらせのように押し付けられたそれに、気づいていないはずもなかろうに、彼の態度は変わらない。
「まもちゃん、あたし、デマンドと………」
「いいんだ、そんなことはもういい。会えて、良かった」
少女の存在を確かめるように、指先が額を擦る。瞼の裏に星が瞬き、これまでのことが次々と蘇る。初めて身体を重ねた時の愛しさ、工事現場での痴態、デマンドの玉座の前での陵辱……。エスメロードとのことを聞きたかった。あの人のところに行ってもいいのよ、と言ってあげたかった。優しい彼は、うさぎに気を遣ってきっと自分の本心を隠す。そうなる前に、彼に嫌われなければならない。
「ん、んっ……」
これほど近くにいるのに、彼の想いは、うさぎには伝わっていない。互いを思うが故に、敢えて見ない振りをしていのかも知れない。恐らく最後であろう口付けは、汗と混じった涙の味がした。さすがに動揺したのか、美奈子が後ずさりする気配を感じる。
「あ、あたし、ちょっと向こうに行ってるわね?お邪魔みたいだから」
うさぎは首を横に振った。美奈子は、これから起こる事を見届ける義務がある。そのために連れて来た。情交に耽っていた姿を、仲間の前で晒された美奈子。それと似たような事を、うさぎは目前で披露している。
「うさぎちゃん……?」
美奈子の行為に悪気がなかったように、この性行為にもまた意味はあった。しかし傍目には、周囲の目を気にしない、羞恥心の無い恋人同士に見えるだろう。
唇を離し、真っ直ぐに美奈子を見た。泣き笑いのような表情に、彼女は息を呑む。
「見てて、セーラーヴィーナス。これがあたしの、責任の取り方。プリンセスとしての、最後の……」
怪訝そうな顔をするタキシード仮面の耳元で、うさぎは囁いた。
「脱がせて」
恋人の申し出に、彼は軽く目を瞠った。その視線が、身の置き所に困っているヴィーナスへと向かう。
月野うさぎは、友人の前で抱けと、そんな事を言う少女ではなかった。口にした今も恥ずかしくて、震えが止まらない。しかしそれ以上に、デマンドに着せられたドレスが汚らわしい。躊躇う彼に、うさぎは駄目押しをした。
「あのね、あたしたちの額の印、地球の男の人と交われば消えるんだって。もう一度セーラームーンに変身できるんだよ」
あたし『たちの』と、うさぎは言った。その意味に気づかなかったのか、タキシード仮面の顔が綻ぶ。
「───そうなのか。良かった」
ぎゅ、と抱きしめる腕に、力が篭った。
「嬉しいの?まもちゃん」
「もちろん、嬉しいさ。こんな俺でも、君の役に立つ事が出来るんだから」
「………そう」
うさぎは淡く笑いを浮かべた。そうだ、彼は地球の守護を受けるに相応しい、大らかで父性溢れる存在だ。エスメロードのような悪い女でも丸ごと受け止めて癒してしまう、あの星を包む大気にも似た青い波動が、常に彼を守っている。だからこそ、セーラー戦士たちも彼を信頼するのであり、プリンセスと同じように彼を慕い守ろうとするのだ。
「みんなはまだ中で戦ってる。急がないと、デマンドたちに阻止されるかも知れない。時間がないの。ここで今すぐ、ね、お願い」
時間が迫っているというのは本当だった。うさぎの緊迫した口調に、タキシード仮面の顔も引き締まる。それでもまだ、美奈子が見ているという事が気になるようだったが……。
「ん」
煮え切らない彼の唇を、今度は自分から奪いに行った。デマンドの汚れを落とすように、その温かい口の中を、舌で愛撫する。月の女神の求愛を受け、地球の王子はうっとりと瞼を伏せる。白いドレスの胸元に、手袋が触れた。布越しではなく、直接触れて欲しかったから、その指の先を噛んで手袋を外す。温かい手が胸の突起に触れ、そっと擦り上げた。
手袋が地面にぱさりと落ちる。タキシード仮面は黒いマントを地面に敷き、うさぎの身体を横たえた。素手で乳房を掴まれた時、うさぎは相手の手首を掴み、臍の下へと導いた。うっすらと生えた黄色の茂みは、汗で湿ってはいるが、男性が期待するような粘液は漏れていない。
彼は、いつも丹念に時間をかけて、身体を愛撫してくれる。まだ初々しく、濡れにくい少女の体質を知っていた。そして、こんな一刻を要する状況でも、いつものように胸から攻めようとした。
うさぎは、それをはっきりと拒んだのだ。前戯はいらない。ただ挿れてくれればいい。目で、それを訴えかけた。
タキシード仮面の動きが止まる。少女の意図は判っても、その理由が判らない。充分に濡れているのならともかく、こんな乾ききった状態で快楽が得られるはずもない。
「いいの。そのまま……して」
もう片方の手で、ゆっくりと秘唇を割り広げる。露になった部分に冷たい外気が触れ、身が竦む。
(気持ちよくなる資格なんて、ない)
しばらく躊躇っていた青年は、やはり愛すべき女体を前に熱を抑えきれなくなったのか、赤い秘唇に男根をあてがった。その瞬間、氷の眼差しを思い出し、背筋に寒気が走る。
前歯に当たる冷たいグラスの感触。口の中一杯に出された、苦味のある液体。自我の無い人形に綿を詰めて縫い合わせるように、うさぎに精液を飲み込ませ動きを封じた白い悪魔。目の前にいるのはあのプリンス・デマンドではなく、愛しい恋人なのに、久しぶりの交合に思い出してしまった。
これから先、彼と身体を重ねるたびに、きっとあの男の事を思い出すだろう。そして、彼もまた、あの翠の美女のことを思い出す。過去は消せず、起こってしまった事実は戻らない。
肉襞を割って、恋人の先端が押し入ってくる。前に入ったモノと、形が違う、大きさが違う。危険信号が脳から発せられると、女の部分が敏感に察し、痛みを緩和するため、異物の寸法に合わせて収縮を繰り返す。そして、愛撫がなくとも条件反射で潤滑液が滲み、傷つきやすい粘膜を潤してくれる。意識などしていなくとも、身体が自然とそうなっていた。悲しいほどに、うさぎは女だった。
「っ……もちゃん……」
折り重なる二つの影は、やがて異なる体液を互いにぶつけあった。控えめな乳房に顔を埋めたタキシード仮面は、遊び疲れて我が家に戻ってきた子供のような、無防備な笑みを浮かべている。
額の黒い逆三日月が、ぽうっと光を発した。デマンドに汚された身体が、内側から浄化されていくのがわかる。心の傷は塞がらないけれど、堅くなった身体に、徐々に熱と力が戻ってくる。
何度も、何度も、表に出ようとしては強い力で封印されていた聖なる月のシンボルが、まるで月食から元に戻るようにその姿を現す。
ブラック・ムーンの言っていたことが本当かどうか疑わしかったが、ペッツたちは嘘をついてはいなかった。刻印を消す方法をレイが実行すると同時に、殺すつもりだったのだろう。こうしていても、デマンドや四姉妹たちの妨害が入らないと言うことは、サフィールの話した通り、新手の敵が、彼らの動きを妨げていると考えられる。今のうちに、全てを済ませてしまおう。
絡まった四本の脚の間から、聖水のように蜜が溢れ出す。太腿から脹脛にかけて伝う液体の感触に、恍惚と背を反らせた。頭の隅で常に別れを考えながら、体はこんなにも熱く燃えている。
「っ、ああぁあ!」
友人の前で快楽に溺れ、淫らな嬌声を上げてしまう。美奈子の視線を心地よいと感じる自分は、彼女以上の淫乱かも知れない。
(だめ、気持ちよくなっちゃ……あぁ、でも、気持ち……いい……!!)
乾ききった大地に男女の愛液が滴り落ち、吸い込まれていくと、額を中心に、真っ白な閃光が迸った。
それは、不思議な現象だった。デマンドによって着せられていたドレスが、身体に纏いついた砂を払うように肩から脚にかけて崩れ落ち、形も残さず消え失せる。
タキシード仮面の服の内ポケットも発光している。彼は微笑み、そこから力の結晶を取り出した。目の前に見せてくれる。うさぎの涙によって生まれた、星ひとつを軽々と吹き飛ばせるパワーを持つ、誰もが焦がれてやまない力。
「まもちゃんが、取り返してくれたの?」
そっと手を伸ばす。銀色の結晶は、ようやく帰る場所を見つけて喜んでいるかのように、胸の谷間の中央にすんなりと納まった。
「君も会っただろう、セーラープルートに。彼女が協力してくれた」
自分の手柄だとしても、彼は決してそうと言わないだろう。そういう男性だ。うさぎの髪を撫でながら、タキシード仮面は離れていた間の事を語ってくれた。エスメロードから銀水晶を取り戻し、ちびうさをプルートに預け、ここに来るまでの経緯を。
「ちびうさは、俺たちの娘だったんだな。道理で、君によく似ているはずだ」
マスク越しに優しい目が見つめてくる。心に疚しいところのある彼女は、それを正視できない。
「う、うん……そうだね……」
ちびうさの生意気な、それでいて憎めない挙動を思い出し、うさぎの胸はひどく痛んだ。だが、何かを守るためには、何かを手放さなければならない。
(ごめんね。さよなら、ちびうさ)
タキシード仮面と別れる事は、ちびうさの消滅を意味する。地球を守るために彼女の犠牲が必要なのだとしたら、あの娘は何のために生まれてきたのだろう。そして、今少し離れたところで見守っている美奈子も、また救われない。
これからうさぎが口にしようとしている事は、ちびうさの存在を消し、美奈子を一層仲間から孤立させる事になるだろう。傷つけると知っていて口にしなければならない現実ほど、辛い事はない。しかし、他にどんな方法がある。美奈子以外の仲間に焼き付けられた刻印を消し、もう一度変身して敵と戦える方法は、他に無い。
「ムーン……クリスタル……パワー……」
掠れた声で、うさぎは変身の言葉を呟く。
「メイクアップ!!」
銀水晶から放たれた光のオーラが、全身をリボンのように包んだ。手に脚に、リボンが纏いつき、セーラースーツの形を作っていく。青いミニスカートに赤いブーツ、水晶を包むリボン付きのブローチ。月のシンボルを宿す額にティアラが張り付き、トレードマークのお団子に飾りが加わる。
足の裏の擦り傷が塞ぎ、まことを助ける際に傷つけた手の爪も、血の塊が乾き剥がれ、桃色に生え変わる。ふっくらとした少女らしい頬には既に涙の跡はなく、目の前の恋人を毅然と見つめている。
頭の中にかかっていた鬱にも似た靄が晴れ、熟睡から目覚めた後のように意識がはっきりとしている。身体の隅々にまで温かいエナジーが満ちているのが判る。
愛と正義のセーラー服美少女戦士、セーラームーンの復活である。
美奈子は二人から一定の距離を置いて、眩しげにそれを見守っていた。聖なる月の光を前に、身体が自然と敬意を払い、その場に膝をついてひれ伏す。
ブーツを履いた二の足で、セーラームーンは真っ直ぐに立った。二つに分かれた長い髪が風を受け、後ろにはためいている。彼女に合わせて衣装を正したタキシード仮面は、微笑んで言った。
「やはり君は、その姿が一番似合うな。元に戻れて本当に良かった」
お世辞ではなく、心からそう思っているのが判る態度だった。素直に女性を尊敬しそれを口に乗せることが出来る彼は、デマンドたちとは全く違う、本物の紳士だ。ありがとう、とセーラームーンは呟いた。こんなに素晴らしい男性と恋ができた事、そして傷つけてしまった事を、誰に対して感謝し、また詫びればいいのだろう。
「まもちゃん、あのね、お願いがあるの」
うさぎは少し笑い、そして胸の痛みをごまかすように大きく息を吸い込んだ。
「あたしにしたみたいに、みんなのことも元に戻して欲しいの」
風の動きが、一瞬止まったような気がした。口を開けたまま、美奈子が凍りついたように動きを止め、タキシード仮面も笑顔のまま固まった。
「え?」
彼が問い返したのは、言葉の意味が理解できなかったからではなく、感情が零れてしまった結果だろう。整った顔を顰め、口元には疑念が浮かび始めている。
空耳であって欲しい。恐らくはそう願っているであろう彼に、うさぎは駄目押しをした。
「うん。亜美ちゃんや、レイちゃんや、まこちゃんとエッチして欲しいの」
軽い口調だからこそ、その言葉の持つ意味は重く、痛々しい。精を吐き出して間もないタキシード仮面は、しばらく呆然としていた。
彼は、自分の存在に疑念を抱いている。セーラームーンの弱点、セレニティの夫、という扱いしかしない敵に怒りを覚え、同時にその程度の力しか持たない己に不甲斐なさを感じ、敵の女に種馬扱いを受けて深く傷ついている。そんな彼にとって今の言葉がどんな意味を持つか、判らないほどセーラームーンは愚かではない。
心が悲鳴を上げている。他の女の子に触らないで。あたしだけを見て。そんな少女らしいごく当たり前の心も、セレニティは持つ事は許されない。誰もを平等に従える為政者として。銀水晶を扱う者として、私情を挟む事は許されない。
「……何を、言っているんだ?」
いつの間にか、少女から大人に変化していた恋人に、タキシード仮面はそう問い返した。
落ち着いた声には、あからさまな不審がある。今の今まで睦み合っていた相手が、自分の身体を他の女に差し出そうとしているのだ。感情的にならない方がおかしい。
「君は正気なのか。そんなことが、俺に出来るはずが無いだろう」
地球の守護を受ける、誰よりも良識ある普通の男性は、セーラームーンが予想していた通りの言葉を口に乗せる。
「どうして?」
感情を殺し、乾いた笑みを貼り付ける恋人に、タキシード仮面は戸惑いを隠せない。
「どうしてって……彼女たちは、君の友達だろう」
友達を大切に思うからこその発言だと、彼は認められない。認めてしまったら、彼女にとって自分の存在が、友人以下であると知ってしまうからだ。
タキシード仮面の頭には、常に疎外感があっただろう。四守護神とセーラームーンの結束を見せ付けられるたびに、自分の存在価値に思い悩んでいただろう。セーラームーンは今まさにその傷を抉っている。
「変なの。エスメロードとは出来て、あたしの友達とは出来ないんだ?」
翠の美女の名前を出すと、彼はあからさまに動揺した。デマンドの名前を口にした時には、もういいと言ったくせに、彼女の事は未だ引きずっているのか。
他の男に汚されたセーラームーンを許したのは、彼女の心がデマンドを向いていないと判っているから。彼女はあくまでも被害者で、強姦された側だったから。けれど、タキシード仮面のエスメロードに対する感情は、単なる敵に向けてのものではない。
「彼女、には、同情している。救ってやりたいと思った。それは、認める」
隠し事の出来ない彼は、とても誠実に、セーラームーンに告白した。エスメロードに惹かれたのは事実だと、いっそ清々しいほどに。
その事実を、彼女は責める気はない。それどころか彼の罪悪感に付け込んで、皆を元に戻すために利用しようとしている。
「だが、俺が好きなのは……!!」
彼はマスクを剥ぎ取り、地面に打ち捨てた。切れ長の意志の強そうな瞳が、初めての激情に潤んでいる。
月野うさぎを抱いた温かい腕が伸びて、今は正義の戦士となった少女の両肩を掴んだ。強く、けれど決して荒々しくは無い力で、肩を揺さぶる。
「俺が愛しているのはセーラームーン、君だけだ!知っているだろう?」
そんな事は、充分過ぎるほど知っている。いつだって、大切に大切に扱われてきた。デマンドに乱暴され、今まで自分がどれほど分不相応な幸せに身を浸してきたか、思い知らされた。
仲間を見捨てて、自分だけが元に戻る事など出来ない。彼女たちが仮初めの力を得るために邪黒水晶に身体を蝕まれるのを、指をくわえて見ているわけには行かない。サフィールの誘いを拒み、無事に地球に戻るために、「三」守護神には地場衛の肉体が必要なのだ。
「無理しなくていいんだよ。もっと自分に正直になって」
聞き分けの無い子供に言い聞かせるように、セーラームーンは肩を掴む手に自分の手を添えた。
「男の人は、好きじゃなくても感じるんでしょう?それにレイちゃんたちは、あたしなんかよりずっと魅力的な女の子だよ。何が不満なの?」
「彼女たちの話はしていない!俺は、君が……!」
タキシード仮面は言葉に詰まった。他の女を抱いている以上、「君じゃなきゃ嫌だ」などという言葉は説得力を持たない。
彼は、セーラームーンに何を望んでいるのだろう。今までのように無垢な顔をして、黙って傷ついて泣いている子供がお望みなのだろうか。残念ながら、そういう女を望む男が多いのは事実だ。
不貞は許して欲しいが、嫉妬したり悲しんでくれないのは困る。そんな身勝手な感情を抱いていいのは、母親と息子の関係だけ。セーラームーンは、彼の母親にはなれない。彼の思い通りの女は演じていられない。
「あたしは別に気にしないよ。あたしだってデマンドと……だから、まもちゃんが他の子を何人抱いたって、全然構わない」
強がる恋人の肩を、タキシード仮面は激しく掴み、逸らそうとする目を覗き込んだ。
「ちゃんと俺の目を見ろ、セーラームーン!それは本当に、君の本心か!?」
「……痛いよ、手を離して」
痛いのは肩ではなく胸だった。しかし、タキシード仮面は言葉ではなく、手の力の方を緩める。
「言ってたよね。俺だってうさこたちの役に立ちたいって。今がその時なのに、どうしてお願いを聞いてくれないの?」
「そうだ。ずっと俺は、役立たずな自分が大嫌いだった」
過去を思い返すように、彼は遠い目をした。事故で両親を失って以来、セーラームーンと出会って以来、彼は愛する女のためだけに生きてきた。月野うさぎには全てを打ち明けられる仲間がいるが、彼にはそれがない。
「君たちがもっと危険な目に遭えばいい、そうすれば俺が助けに入る、俺の有難さが判ってもらえる、そうすればもっと、男として崇められるのに、そんな邪な気持ちを抱いていた……その報いがこれか」
初めて明らかにされた彼の負の部分は、セーラームーンの心に不思議な安寧をもたらした。これまで感じていた遠慮がちな壁のようなものが取り払われ、生の感情が寄せられている。もっと早く、こうして本心をぶつけ合えばよかった。今となっては、遅すぎるけれど。
「他に方法が無いの。みんなを助けるためなの、判って。まもちゃんにしか出来ない事だよ?」
タキシード仮面の顔が苦痛に歪み、その澄んだ瞳が、見る見るうちに絶望の闇に覆われる。
「俺に与えられた役目は、それしかないのか。君も俺の事を、そういう目で見ているんだな」
種馬。ヒモ。プリンセスのおまけ。セーラームーンの付属品。クイーンのためだけに生かされている存在。
これまで戦ってきた敵たちからぶつけられた数々の暴言を、彼は思い出しているに違いない。誰よりもそれを否定しなければならないセーラームーン本人が、よりにもよってそれを認めてしまった。友人のために、お前は犠牲になれと言った。
犠牲という言い方は三守護神たちに失礼かも知れない。しかし、未来の伴侶がここまで明確に拒否しているにも関わらず、セーラームーンは無理を通そうとしている。彼が傷つくのは当然で、恋人よりも友人が大切だと、面と向かって告げているのに等しい。
「あたしが好き?」
彼を追い詰めるための言葉を紡ぎながら、セーラームーンの心は血の涙を流していた。その心の涙を糧として、銀水晶は凄惨なまでの輝きを見せる。
「ああ、好きだ。だから、そんな悲しい顔をしないで欲しい。馬鹿なことは言わないで、他の方法を考えよう」
こんな扱いを受けても、彼はまだセーラームーンを愛してくれている。どこまでお人良しで、そして愛しい人なのだろう。だからこそ、タキシード仮面はもっと幸せになるべきだ。こんな女は捨てて、もっと相応しい人と未来を紡ぐべきだ。
セーラープルートに告げられた未来を裏切り、彼女は、スカートの上から子宮を押さえた。
「この中にいるのが、まもちゃんの子じゃなくて、デマンドの子でも?」
「いけません、キング………」
時空の扉の前で、セーラープルートはかぶりを振った。
目の前で起きている出来事が、信じられなかった。腕の中のちびうさの身体が、輪郭が、徐々にぼやけて消えていく。
自分の存在が消えていく理由を知っているのか、その表情には安堵に混じった苦痛があった。助けて、ああ、でもこれでやっと自由になれる。そんな矛盾を孕んだ顔だ。SL(スモールレディ)であることの重責と、もっと両親に甘えていたいという子供らしい願いとの板挟みに、幼女は常に悩んでいた。
プルートには、どうする事も出来ない。未来を委ねたあの二人は、まだ若く未成熟な心を互いに傷つけあって、目に見えぬ血を流している。
「心を強く持ち、何があってもセーラームーンを、クイーンを信じて欲しいと、そう申し上げたではありませんか!」
セーラームーンが一時の感情に惑わされて何を言おうと、そして彼女の望むままに行動しようと、心だけはタキシード仮面のものだ。まことがレイを信じたように、亜美が美奈子を許したように、レイがうさぎを思うように。大切な人を信じる事をやめてしまったら、未来はいくらでも変わる。プルートはそう信じていた。あの二人なら、乗り越えられると信じていた。
歪んだ時間の中で、少しでも疑念を持ってしまえば、それは現実になってしまう。それが目の前で、確固たる事象として起こっていた。薄桃色の残像を残して、ちびうさの幼い身体が霞のように消え失せる。ひとつの存在が消えた衝撃に、プルートの身体は戦慄した。
「スモール………レディ………」
腕の中の温もりが、消え失せる。唇が、先程まで確かに在った幼女の名を紡ぐ。緑の黒髪を振り乱し、彼女は絶叫した。
「スモール、レディっ!!」
「誰を呼んでいるの?」
くすくすと笑い、一人の女が目の前に立つ。
セーラームーンがタキシード仮面と結ばれなかった場合の、もう一つの未来、もう一つの可能性。それがちびうさの消滅に伴い、プルートの前に存在している。
扉の前に膝を着いた姿勢で、プルートは動かなかった。敵である彼女を攻撃できない、しようとも思わない。絶望に染まった顔でぼんやりと、女を見上げている。
「あたしは暗黒の女王、ブラックレディ」
ひらりとドレスの裾を翻し、女は嫣然と微笑んだ。
「ネメシスの支配者、キング・デマンドとクイーン・セレニティの愛娘よ」
ムーン陥落11/
ムーン陥落9